第4話

夕暮れ。退勤後の約束ができて、今日はうきうきで仕事ができた、なんてことはなかった。クラスの問題児は今日も相変わらずだし、テストに宿題の採点、と児童を帰した後も教師の仕事は終わらない。もうすぐプール開きもあるもので時間割の調整やら職員会議も長引いて、ようやく仕事が終わったときには完全に東さんのことを忘れかけていた。

 それにしても今日はいつも以上に疲れている。忙しいとはいっても普段と変わらない一日だったはずなのに。

 薄暗い中、校門を出る頃になって、もう終わりだと気が抜けたのか一気に疲労感が増した。肩も足もひどく重い。目の焦点も合いにくくて視界がぼやける。おかしいな、今朝東さんが触れたときに肩は羽が生えたように軽くなって視界もくっきりと明るくなったような気がしたのに。

 連絡先を貰っていたことを思い出して、スマホを開く。仕事が終わったら連絡くださいって言われていたんだった。すぐに返信が来てびっくりする。待ってくれていたんだろうか。

 待ち合わせには学校から程近い校区内の小さなお寺を指定された。他にも紹介したい人がいるのだという。女一人で不用心だろうかという思いもちらりと頭をよぎるものの、どうしても彼を疑う気にはなれなかった。

 今から二十分後くらいに着きます、そう返信したことを、数分後には後悔する。肩が重い、足が動かない。人目を憚らずこのまま道路に寝たいくらいに調子が悪い。とてもじゃないけどいつものスピードでは歩けなくて、遅れることを告げたくてもスマホを再び開く気力すらなかった。

 さっき地下から浮上してきたぼろぼろの騎馬将軍が私の隣りでご機嫌にアスファルトに蹄を打ち付けている。鎧武者なんて久しぶりに見た。戦国時代からこの辺りに留まっているの? 流石に遺り過ぎでしょうよ。

 私と同じ方向に向かわないでってばあ。あなたと並んで行く気なんてないんだから。そう思っても馬はちっとも離れていかない。それ以外にも、わざわざ振り返らないけれど私の後をぞろぞろと何かが付いてきている気配を感じていた。

 遠い。近いと思ったはずのお寺に全然辿り着けない。さっきから頭が割れるように痛く、痛み止めを飲んでも効かなくて冷や汗がぽたぽたと垂れた。這う這うの体でお寺が見えるところまで来たら、東さんはちゃんと門の前にいて私を見て目を丸くするのが歪んだ視界に入る。

「お疲れさまでー……うっわあ、すんごい」

 もたれていた塀を離れ、彼はぱたぱたと駆け寄ってきた。その途端、まともに立っていられないくらいに視界が揺れて頭痛が金槌で殴られるような痛みに変わる。ぎゅ、と頭を押さえてもう一歩も動けずに俯いた。

「あたま、痛い」

「うんうん、これは痛いねえ。今祓ってやるからなー」

 思っていたよりもずっと近くで声がして、ふわ、と温かな腕に包み込まれた。え、抱きしめられてる。驚いたけどもう身動ぐ元気もなくて、私はされるがまま東さんの胸元に顔を押し付けられた。その間にどんどんと肩の重りはなくなって、痛み止めを飲んでもあれだけ主張していた頭痛が消え失せていく。

「よしよしよしよし。痛かったね、辛かったねえ。……お前らも、いくら好きだからってこんな寄ってたかって乗っかるんじゃないよ。そんなことしたら重いでしょー?」

 男の人らしいがっしりとした掌が私の頭や背中を摩って、私以外にも何か話しかけた。そしてすっかり身軽になった頃に離される。周りを見回しても、霊は一人もいない。やっぱりこの人、追い払えるんだ。

「ん、これで終わり。……ごめんなさい、急にくっついて」

 俺にはこれしか方法がないんだけど、嫌でしたよね、と敬語を思い出した東さんは俯く。

「いえ、助けていただいてありがとうございました!」

 はっきりとお礼を言った。私を助けてくれたのに、負い目なんて感じてほしくなくて。それに初対面なのに変な話だけど、ちっとも嫌な触り方はされなかったし。東さんはびっくりした顔をして、それから眉を下げて安堵したように笑う。

「大丈夫ですか? 俺も見たことないくらいに大量の大物憑いてましたけど」

 戦国武将とか初めて見たわ、かっけー、と呟くのが聞こえているぞ。悪かったな、ド級の引き寄せ体質で。

「いつものことなんです。お陰様でもう気分は良くなりました。でも私、憑かれてこんなに体調が悪くなったのは初めてです。何ででしょうね」

「あー……それ、俺のせいかもしれないです」

 ばりばりと頭を掻いた東さんは、「とりあえずまだ疲れた顔してるからお茶でもどうです?」とお寺に誘った。彼はお寺の門を潜ると、我が物顔で奥へ奥へと進んでいく。一人だけいた参拝客も、砂利の敷かれた境内も全て素通り。よく整えられた庭をずんずん進む彼に、私は付いていくしかなかった。なぜならしっかりと手首を握って手を引かれているからだ。止める暇もない。すごく自然に触れる人だな、と感心しながらひよひよと毛先の跳ねた髪の柔らかそうな後頭部を眺める。

「亘! 亘ー!」

 私に対して掛ける遠慮がちな声とは随分張りの違う大声を出して、東さんは人を呼んだ。

「お前うるせえよ、いつも暇じゃねんだぞ?」

 とお寺の建物の中から出てきたのは、明らかにここの関係者であろう和服の男。ご住職だろうか。若いけど随分強面だ。

「あーずま。手」

 彼が私たちを見るなり片手をひらひらさせながら呆れたように言うと、東さんは「うわっ!すみません!」と弾かれたように私の手を離した。無意識だったのか。

「いえ、別に大丈夫ですよ」

 今更手を繋がれるくらいでどうこう言うような歳でもない。抱きしめられたのは、本当に本当にびっくりしたけど。それにしても、私達の様子を見ただけで東さんが断りなく私の手を掴んでいて私が言い出せていないことを見抜いてしまったご住職の洞察力がすごい。

「亘、そんで、あの、お白湯持ってきてあげてほしくって。お塩入れたやつ!」

 東さんが縁側の上にいる彼を見上げて子どものように焦りながら切々と訴える。

「いえあの、そこまでしていただかなくても…!」

 慌てて止めた。お茶なら自分の水筒にもまだ持っているし。無くなっても、良い大人なのだから自販機で買えばいい。喫茶店ならともかく、見ず知らずのお寺の方にお世話になる理由がなかった。ご住職はじっと私を見る。

「……いや、顔色悪いですよ。ちょっと休んでいった方がいい。持ってくるから待っていてください」

 そう言って建物の奥へと踵を返してしまった。もう辛くはないのだけど。そんなに疲労が顔に出ていただろうか。

「ほらあ、ね? 座って待ってましょ」

 と東さんがぽん、と高い位置にある縁側に飛び乗るように腰掛けた。私も真似をして隣りに座り、宙に浮いた足をぶらつかせる。疲れていた足の筋肉が休まって心地良い。襖の開け放たれた建物の中へと、爽やかな風が吹き抜けていった。

「東さんは、ずっと見えてるんですか」

 足元を、ひよこみたいな羽毛の生えたちんまるいお化けがよちよちと歩いていた。そっと掌を差し出したらもふっ、と乗ってきたので、腕を登らせ肩に乗せてやる。こんなのくらいだったらかわいいし重たくなくていいんだけどな。その様子を、東さんは面白そうにじっと見ていた。

「はい、生まれた時からずっと。その子、ふわふわで可愛いですね」

「気持ちいいですよ。触ります?」

 すかすかと指がすり抜けちゃう場合もあるけれど、なんとなく感触のあるお化けもいるから誘ったのに、東さんはとっても残念そうに首を横に振る。意外だ。人にはあんなに触るのに。

「そういう弱いのは、俺が触るとすぐ消えちゃうんで。そんなの、その子は悪さしてないのに可哀想だ」

 東さんは大胆にも私に頬擦りをかましているひよこもどきくんをいつまでも目で追っていた。

「何でもかんでも追い払う訳じゃないんですね?」

 東さんが触れることで霊を追い払う力を持っていることは既に私の中で確信に変わっていた。

「はい。俺は霊と、人が仲良く共存できる世界になったら素敵だなあと思うんで」

 恨んだり恨まれたりせずに、一緒に楽しく生きていくんです、と澄んだ瞳がまっすぐ前を向いて夢を語る。幼い頃たまに遊び相手になってもらったりはしていたけれど、大体は見えているせいで嫌な目にしか遭わないと思っていた私の長年の価値観が一瞬で覆された。

「あ、だから、その人たちは残しておいたんで!」

「何ですか?」

 東さんの目線が私の背中に向けられている。

「あなたの、お父さんとお母さんとおばあちゃん!」

「……今も、私に憑いてるんですか」

「もしかして自分に憑くと見えないです? ずっとね、守ってくれてますよ。ねー? ……はい、ちゃんと守るので。安心してくださいね」

 東さんがにこにこと私の背後にいるらしい存在に頷く。守るって、私のことか。そんなの今まで言われたことがなくて、迂闊にもどきっとした。

「憑かれるまでは鮮明に見えてるんですけど。彼ら、憑くと背中やら頭の上に回って隠れようとすることが多いので、大体は自分じゃ見えないんです」

 私の視界を説明する。

「あの」

「ん?」

「みんな、私のこと恨んでませんか」

 恨まれるようなことをしたのか、と思われるだろうか。でも今まさに憑いていると言われて、聞かずにはいられなかった。どうして今も私に憑いているのかって。東さんは優しい優しい顔をして、私の頭を撫でた。魔法の手みたいに落ち着く。ずっと前から知っているみたいな気分になる。

「誰も。誰も恨んでなんていませんよ。みんなにこにこしながら、あなたが心配で仕方なくて見守ってくれているだけです」

 涙がこぼれそうで何も言えずに俯く。本当だろうか。私には見えないから東さんがついてくれている、優しい嘘じゃない? 大丈夫、大丈夫ですよ、と東さんはしばらく私の頭を撫で続けていた。

「お待たせ」

 板の間が軋んで、さっきのご住職がお盆に湯呑みを乗せて現れる。

「あ! 亘ありがとー!」

 ぱっと立ち上がった東さんは、わざわざ私の分の湯呑みを取って渡してくれた。

「あっついから最初気を付けてください!」

「ありがとうございます」

 せっかくなので、「いただきます」とお寺の方にもお礼を言ってからそっと口を付ける。おいしい。ちょっと塩気のあるお白湯がじんわりと沁み渡って、ざわついていた心が落ち着く。

「あのね、すみません、あなたが今日いつもより体調悪くなっちゃったの、俺のせいかもって言った件なんですけど」

「え? ああ」

 そんなことないだろう、と全然気にしていなかった。化け物が見えまくっているのは遥か昔からだし。

「あなたが元々霊に好かれやすくて憑かれやすい体質なんだと思うんです。それでも入れ替わり立ち替わり常に何体かに憑かれていることで、今朝まではその霊にとっての魅力にフィルターが掛かったような状態だったんですけど」

「はあ」

「例えると、すごく美味しそうな料理にラップが何重にも掛けられていて見た目も匂いも分かりにくい状態だったってことです」

 私は霊にとってご馳走に見えているのか。なんという有り難迷惑な話だ。モテるなら人間にモテたい。

「そのラップを、俺が今朝あなたの腕を掴んだときに親切心で全部取っちゃったんですよね。あ、この人霊に憑かれてる、祓ってあげようって。そしたら、ぴかぴかのおいしそうな魂が剥き出しになっちゃって、霊に狙われ放題になっちゃったというか」

 それで今日は体調も危うくなるくらいてんこ盛りに憑かれたんだと思うんです、ごめんなさい! と東さんが両手を合わせた。

「そんな、東さんのせいじゃないです。今朝だって最近肩凝りが酷かったけど一気に楽になりましたし。昼間は仕事も普通にできてました。終わったら何でか動けなくなっちゃいましたけど」

「ああ、仕事中とかは気を張ってるからですね。霊は弱った人に付け込むから、疲れて緩んだところに取り憑かれるのはよくあることです。でもな、おかしいんだよなー」

「何がですか?」

 首を捻った東さんの代わりにご住職が答えた。

「そんだけ美味しそうだったら、今まで平気で過ごしてこられたのが不思議なんですよ。肩凝り酷くなったの、最近なんですよね? 最近までずっと傍にいて、その人がいると楽になる人って身近にいました? それか何かお守りを失くしたとか」

『雪ちゃん、おかえり。えらいね、いつもがんばってるねえ』

 ご住職の言った条件に当てはまる人の声が、一瞬で脳内に流れた。まだ、声だって覚えてる。

「祖母、です」

 小さな声で告げた私を見て、東さんはまたぽすぽす、と控えめに私の頭を撫でた。

「おばあちゃんかあ。見える人だったんですか?」

「いいえ。私が見えるということは知っていて理解してくれていましたけど、自身は見えていなかったはずです。私の周りには私以外に『見える』人は誰もいなかったので」

「でもおばあちゃんが祓ってくれていた感覚はあったってことですね?」

「私、事故で両親を亡くして、祖父も私が生まれる前に亡くなっていたからずっと祖母一人に育てられたんです。そういえば毎日毎日家に帰る度に、こんなに大人になってからでも祖母は私の頭を撫でてぎゅっと抱きしめてくれていて。その度に東さんが触るときと同じように頭痛が消えていたなあって。自分に憑いている霊は見えないから消えるのも分からないし、祖母が他人に憑いた霊を祓うところは見たことがなかったので今言われて初めて気づきました」

「ああ、じゃあきっとおばあちゃんの力ですね。見えないけど無意識に祓う力だけあった人だったんだ」

ずっとずっと、私を守ってくれていたんですね。そう噛みしめたら、東さんは困ったようによしよしよしよしと私の髪を撫でた。なんか、犬になったみたい。くす、と笑うと東さんはほっとしたようにへら、と笑いかけてくる。

 会話は全部過去形だ。おばあちゃんはつい先日亡くなってしまった。見える東さんには皆まで言わずとも全部分かっているだろうけど。

「じゃあこのタイミングで東に会えたのは本当に良かった。守ってくれる方がいなくなって、そのままにしていたらきっと近いうちにあっちに引きずり込まれてました」

 ご住職が言う。

「あっちって」

「死後の世界だか、妖怪の世界なんだか。こっちの世界の裏側にある霊たちの世界ですね。取り憑かれてそのままにしておくと、寿命よりも早く事故や病気で魂を持っていかれる」

「そう。だから今朝会えてよかった! これからはね、早死にしたくなかったら定期的にこのお寺通った方がいいかもです。俺が毎回祓うんで! ここ通うの面倒だったら、都合の良いとこまで出張しますし!」

「え? いや、そこまでしてもらう訳には……」

 元気の良い申し出に遠慮する。初対面でそこまでしてもらう義理はないはずだ。

「でもほっといたら死んじゃうんですって! やらせてください、それ俺の仕事なんで!」

「仕事」

「除霊師やってます! 俺、憑かれてる人に触れたら霊を祓えるんです。たぶんもうお気づきだと思うんですけど」

「除霊師」

 そんな職業がこの世に実在しているのか。それも、胡散臭い商売をするようなのじゃなくて本物の能力がある人。

「で、紹介が遅れたんですけど、こっちが」

「進藤です。ここ、暁宝寺の住職やってます。で、いろんな霊障の相談を受けて、祓ったりもしてます。俺も昼は住職、夜は除霊師って感じですね」

「本堂雪です。えっと、じゃあ進藤さんも霊が見えてるんですか?」

「見えてますよ。……流石に視界に一度にこんなにたくさん映ったことはないですけど。もしかしていつもこんなんですか」

 進藤さんの視線を追えば、縁側に座る私たちから一メートル程の距離を開けて庭に霊がぎっちりと密集していた。

「ええまあ……大体こんな感じです」

 そりゃあ今まで大変だったでしょう、と東さんと進藤さんは顔を見合わせて同情的。

「いつもはもっと近づいてくるしちょっかいかけてくるんですけどね?」

 幽霊や妖怪は、悪戯好きだ。驚かせたり躓かせようとしたりしょっちゅうからかってくるから、無視するのに最初は苦労したものである。今でもたまにびっくりしちゃうけど。

「あ、それはねー、俺がいるせいですね」

 東さんが言う。

「東は祓う力が物凄く強くて、霊に嫌われるので。一定の距離から霊を寄せ付けないことが多いです。霊にとっちゃ、うるせえし太陽みたいに眩しいから」

「霊ってうるさくて明るいのが嫌いなんですか?」

「静かでじめじめ暗いのを好みますよ。場所もしかり、人の性質もしかり」

 そうか。じゃあ私、じめじめ暗いのか。ちょっと凹んだら、東さんがすぐさま否定した。

「霊は弱ったところに付け込みにくるけど、あなたは別ー! なんかもう、とにかく霊にとって美味しそうな匂いとか見た目をしてるんですよね」

 気を遣ってくれたらしい。わがままなようだけど、霊のもろ好みってそれはそれで嫌だ。

「見てくださいほら、あなたに近付きたいのに俺には近付きたくないからこの微妙な距離感で悶えてるんです。……へへん、いいだろう。駄目だからね。この人は渡さないよん」

 東さんが自分のもんだ、とばかりに私の肩に腕を置いて、霊たちに得意げになった。

「もし、よかったらですけど。うちに定期的にお祓いに通うなら、除霊を手伝ってもらえませんか」

 東さんに呆れた顔をしつつ進藤さんが言う。

「え、でも私祓う力なんてないんですけど……」

 いいなあって、思っていたのだ。祓う力があれば私も少しは人の役に立てたのにって。私はただ、引き寄せるだけ。周りを不幸にするだけで。

「そっかあ! それ良いじゃん! 亘、ナイスアイデア!」

 東さんが急に声量を跳ね上げる。

「東って俺の知る除霊師の中でも断トツに祓う力が強いんですけど、実際現場で除霊できる数はめちゃくちゃ少ないんですよ」

「え? どうしてですか」

「近付く前にみんな逃げちゃうから。俺は取り憑かれてる人に触れたり、霊本体に触れたら成仏させられるんですけど。その前に近付くだけでどこかに弾き飛ばしちゃうんですよね」

「なるほど」

 触れる前に逃げられてばかりなら、さぞ効率の悪いことだろう。

「だからね、俺に近付くと辛いの一気に増す感じしませんでした?」

 東さんは申し訳なさそうに尋ねた。そういえば、今朝もさっきも、東さんと接近したときに駄目押しのように苦痛が増していたような。

「俺に弾かれて嫌がった霊たちが、ぶおん! って磁石で引き付けられるみたいにみんなあなたに憑いちゃってたので。いつもはどっか彼方に飛んでいくので、こんなの初めてなんですけど……すみません」

「よほど私が引き付けるってことですね。東さんが謝ることじゃないです」

 仕方のないことだ。お互い体質なのだから。

「でも、だから一緒に来てくれたらすごく除霊が捗ります。俺たち、依頼を受けた場所に行って時々夜に除霊してるんですけど、あなたがいたら俺もあなたに憑くのを片っ端から成仏させてやれる」

 東さんがきらきらと目を輝かせて私を見る。

「私でお役に立てるのであれば……いいですけど」

 どうせここに通うことになるのだ。今まで何の役にも立たない疫病神だと思っていた自分の体質が役に立つと言われたら、除霊師に興味が湧いた。

「やったー! な、亘、仲間になってもらっていいでしょ?」

「俺から声掛けてんだから駄目って言わねえよ。ようこそ。ただ東、さっきから近すぎ」

 進藤さんが私と東さんの密着具合を指差して、離れなさい、と指を左右に動かす。

「うあ、ごめんなさぁい……。俺、友達とかに憑いちゃったときもスキンシップして祓ってるんですけど、癖になっててついつい祓うとき以外も無意識にくっついちゃうんですよね。やでした?」

 東さんがしょんぼり私の顔を覗き込む。

「嫌ではないですよ」

 距離の近い人だなーとは思ったけど。東さんの触れ方に対して嫌悪感は少しも感じなかったので、正直に答えた。

「だってさ!」

 途端、ぎゅ! と肩を抱き寄せられ、ほれ見! と勝ち誇ったような顔をした東さんが進藤さんを見る。進藤さんはただただ苦笑した。

「ほんとに嫌だったら嫌って言って殴る蹴るしていいですからね」

「あ、それはもう。はい」

 即答しておく。「オォイやりすぎだろ!」と喚くのが聞こえて、私は久しぶりに声を上げて笑った。

「んじゃ、気を付けて帰ってください。でもいくら毎日でも祓うって言ったってあんまり憑かれても生活に困ると思いますし、これ渡しておくんで」

 進藤さんから差し出されたのは一枚のお札。

 毛筆で、私には到底読めない流麗な文字が書かれている。

「あ、それ良い! 亘ナイス! それね、霊を寄せ付けにくくする力があるので。肌身離さず持っていてください。今日ほどは憑かれにくくなるはずです。今度紹介しますけど、俺たちと同じ除霊師が書いているので効果は確か! きっと近々会えます。今日は俺しかいないけど、普段は何かとみんなここに集まってるんで」

「俺は許可してねえけどな。お前らすーぐここを集会所にしやがって」

「だってお寺って広いし静かで便利なんだもーん」

 進藤さんに小言を言われても東さんは平気な様子で言い返す。二人はとても親しげで、私は羨ましかった。

「まだ他にも、見える方がいらっしゃるんですか」

 ぽつりと尋ねたら、進藤さんとやんやと言い合っていた東さんが振り向く。

「いますよ。見えない奴もいますけど、除霊師仲間として俺らが見えるってことを理解してくれてる奴は他に二人程」

 あと二人も!

「いいなあ。もっと早く会いたかったなあ……」

 はっとして口元を押さえた。私は何を言っているんだろう。自分が今まで一人ぼっちだったからって。蔑まれ避けられることに怯えて、そのうち自分からは伝えようともしなくなったくせに、羨むなんてお門違いだ。

 東さんは嫌な顔一つせず微笑む。

「あなたももう俺たちの仲間でしょ? すぐ会えますよ」

「「もう一人じゃないんで」」

 進藤さんと東さんの声が重なった。おい全く同じじゃねえか! 被ってんじゃねえよ! とぎゃいぎゃい笑う東さんの声が遠く聞こえる。ああ馬鹿。止まれ、止まれ止まれ止まれ。

「ああ、ああ。擦らないの」

 東さんの優しく笑う声がした。

「泣いたらいいじゃないですか。ここでならいくらでも泣いていいんですよ」

 ぼたぼたぼた、と零れ落ちた涙を必死に拭って目元を押さえていたら、東さんがその手をそっと離させる。おかげで涙を止める術を失って、嗚咽が漏れるほどに泣いてしまった。こんな、初対面で。困らせてしまって迷惑だろうに。

「ごめ、なさ……! ごめ、ん、なさぁ……!」

 どうしようもないほどに安心してしまった。やっと同じ境遇の人に出会えたんだって。自分一人きりの視界を抱えて生きていくんだと、もう諦めていたのに。嬉しくてほっとして申し訳なくて情けなくて。泣き過ぎて息もできない。

 頭上で、柔らかに息を吐く音がした。ぽすん、と固い胸に顔がぶつかる。頰を伝った涙が、次々と白いTシャツに染み込んでいく。後頭部と背中に回された腕が、呼吸もままならずに跳ねる体を繰り返し撫でた。

「そんな一人で必死に泣き止もうとしなくていいんだって。ね? 大丈夫大丈夫。俺たちはみんな、多かれ少なかれこの力のせいで苦労してきてるから。辛いことがあるのも知ってる。泣いたって誰も馬鹿にしたりしないよ。迷惑だとかも思わない。だから謝らなくていいよ。泣いていいんだよ」

 よく頑張ったね、と東さんは私の泣き腫らした目を見て微笑む。私はまたぼろりと涙を零した。対照的に東さんはいつまでも柔らかな笑みを浮かべながら、私を抱きしめてあやすようにゆらゆらと揺れる。そうされている間は、全ての嫌なことから守られている気がした。

 怖い霊も化け物も、おかしなモノが見える私に怯える人の視線も、全部が東さんの作る温かなバリアの遥か外。びしょびしょになってしまった東さんの胸元は、おひさまの匂いがした。

 泣き止んでずず、ずず、と鼻を啜っていたら、進藤さんがティッシュを持ってきてくれる。お礼を言ってちーん! と鼻をかんだら、盛大にかむなあ、と二人にけらけら笑われた。本当に、泣いても鬱陶しがられないんだ、と実感する。

「東さん」

「ん?」

「敬語、取れてましたね」

「え? うわ、そうでした? ……守らなきゃ、って思うと、つい」

 最後の言葉はぼそっと呟かれる。見上げたらそっぽを向かれてしまった横顔が、赤く染まっていた。ふふ、と笑みが漏れる。胸の奥が、ほわんと温かい。そういえばお寺の前で祓ってくれたときもそうだったっけ。

「別に、良いですよ。歳も近いですよね? 私、二十五なんですけど。敬語じゃない方が嬉しいです」

「え、ほんと?! 俺達二十九ー」

 東さんはぱっと笑顔を見せる。

「俺たちにも敬語じゃなくていいよ! ね、亘」

「おー。たぶん、現場行ったら敬語使ってるどころじゃなくなるんだわ」

「え゛。除霊するのってそんな大騒動なんですか」

「それはまあ……ね? 行ってからのお楽しみってことで」

 何それ怖い。私、了承して大丈夫だったんだろうか。

「明日もお仕事ですよね。また明日、ここで待ってるんで。気を付けて」

「あ、そうそう! 本堂さん、そこの小学校の先生なんだよー!」

 今朝、東さんには明かしていた。

「え、まじ。俺なんか怒られることしてなかったですか」

 ちょっと砕けていた進藤さんの雰囲気がまたぴしりと固まる。

 さては、なんか怒られるような学生時代だったのか。ふふっ、と笑った。

「進藤ぉぉ! お前、バケツ持って廊下に立っとけ! ……とか、言わないんで。大丈夫ですよ?」

 びっくぅ! と肩を跳ねさせた二人は小動物のように固まっている。

「あははは! あーおかしー。すっきりしたぁ……!」

 体が軽い。空気がおいしい。生まれ変わったみたいに、世界が見違えていた。

「せ、先生だ……。普段話すと面白いけど、怒ったらめっちゃ怖いタイプの先生だったんだ」

「分かる。ガツン! って一回雷落としたら、その後また普通に授業に戻ってくれるタイプの先生な。え、なんか吹っ切れてね? さっきまで泣いてたか弱い女の子どこ行った?」

 はわわわ、と寄り添う小動物二人が怯えてこそこそ話している。

「今まで一人でもこの魑魅魍魎の中を生き抜いてきたんですもん。これが本性なんで。強くなきゃやってられません!」

 東さんがぱちぱち、と目を瞬かせる。

「そういうの、すきっ!」

 満面の笑みを見せたかと思うと、どーん! と体当たりの如く抱きつかれて私は板の間に見事にひっくり返ったのだった。

「東、お前力考えろ」

「うい……嬉しくてつい」

 すき、の余韻に浸る間もない。この人と一緒にいるなら、もうちょっとだけこのひっつき癖をなんとかしないと私の体が保たないかもしれん。

「じゃあ俺、先生を駅まで送ってくるー」

「おー。そうして。そんでお前ももう帰れ。明日も仕事だろ」

「えー。早く帰ったってつまんないのにぃ」

「東さんもお仕事、除霊師だけじゃないんですか?」

「うん。期待しちゃってたらごめんねえ、除霊師って慈善事業みたいなもんだから報酬なんてほぼ期待できないのよ。だからそれだけじゃ食っていけなーい。ちゃんと昼間のお仕事あります!」

 何だと思う? と尋ねてくる。

「え……何だろう。サラリーマン、とか」

「ぶっぶー。正解はねえ、郵便屋さん!」

「ゆうびんやさん」

「あい! お疲れさまでありまーす!」

 ショルダーバッグを斜め掛けにした東さんが、ぴしっ、と敬礼した。そうか、お手紙仕分けて届けてるのか。街ですれ違ったこともあったのかもしれない。似合うような、似合わないような。

「あ、何笑ってんのー!」

「えー? 制服姿も見てみたいなあって思って」

「ちゃんとかっこいいんだからなー!」

「自分で言うんだ」

「んじゃーねー! 亘、また明日ー!」

 東さんが振り返って大きく腕を振る。

「おー」

 進藤さんは苦笑しながらも嬉しそうに手をひらひらさせてそれに付き合っていた。私とも目が合う。

「先生も。また明日」

「はい! また明日!」

 彼が笑うのを初めて見た。真顔と随分印象が違う。こんなに顔をくしゃくしゃにして優しそうに笑う人だったのか、と私もつられて笑った。東さんはあれやこれやと話してくれて、電車に乗るまではずっと賑やかな帰り道。こんなに笑ったのいつぶりかなあ。あー楽しかったなー! 最寄駅から家まで、一人になってからも今日の出来事を思い出してはによによと口元が笑うのを抑えきれない。薄暗い中、口裂け女や巨大な昆虫のお化けが彷徨くのさえ大して気にならなかった。

「あら、本堂さんのお孫さんよ」

「ほんと。嫌だわ、何笑ってたのかしら。この前本堂さんが亡くなったばかりだというのに」

「昔親も事故に遭って亡くしてるし、本堂さんだってあれだけ元気だったのに急だったでしょう。やっぱりあの子が何かおかしいのよ」

「そうねえ。よくぼんやりどこかを見てるしねえ」

 ついてない。せっかく今日は良い日だったのに。井戸端会議をしている近所のおばさん達に出くわしてしまって、さっと会釈をして通り過ぎる。声を抑えているつもりかどうか知らないが、全部聞こえている。しっかり挨拶しようと声を掛けたら「次に呪われるのは自分だ」とか何の根拠もないことで怯えられるから、頭を下げる程度にしておくのが良いと心得ていた。何も悪いことしてないんだから。噂に負けて俯くな。こつ、こつ、こつ、とわざと少しパンプスを鳴らしてしっかり前を見据えて歩く。

 ガラガラ、と引き戸を開ければ、真っ暗な玄関。しんと静まり返る部屋に、いつも温かいごはんと一緒に待っててくれたおばあちゃんはもういない。

「ただいま」

 小さく小さく呟いてパンプスを脱いだら、物陰をささっ、とまっくろくろすけが逃げていった。いっそおばけでもいいから、いてくれればいいのに。なんて。

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