第3話

今年の梅雨入りは記録的に早いらしい。

 それで明けも早ければいいがそういう訳ではなく、ただ長くなるという予想なのだから鬱陶しいものだ。雨は必要だし嫌いじゃないけれど、薄暗いし湿度が高くて汗が乾かないところは困る。

 通勤ラッシュの電車に乗っている間中濡れた傘を避けて、人に埋まりながら濁った空気で必死に肺を満たし、ようやく改札を抜けたら雨は上がっていた。ふう、と湿気は多いものの電車の中よりはおいしい空気を吸い込みながら歩く。全く、満員電車に乗る時ほど人より頭一つ分くらい高い身長だったらな、と思うことはない。

 雨上がりの空気はアスファルトの匂いで好き。街が丸ごと洗われたみたい。そんなことを考えていたら、赤信号の横断歩道をろくろ首が悠々と渡っていった。高速で横切る車が、半透明の胴体をすか、すか、と通り抜けていく。右に目を遣れば外からビルの三階を覗いているのは八尺様。今日は随分と大物に会う日だ。

 そうかと思うと何やらまっくろくろすけのような小さいもやもやした物が足元をすり抜けてせっせと落ちていたポップコーンをどこかへ運んでいく。かわいい。どこへ行くんだろうってずっと行方を追いたくなるのを堪えて視線を前に戻した。

 これが私の視界だ。今日に限ったことじゃない。物心付いた頃からずっと、私にはこうしたモノたちが「見え」ていた。

 幽霊や妖怪、怪奇現象。見えないからいない、存在しないとされているモノたちは、本当は常に私達のすぐそばにいる。ああほら今も。

少し前を歩くお疲れのサラリーマン。その周りを、意地の悪い顔をした赤黒い霊が囃し立てるようにしながら付き纏っていた。赤や黒っぽいのは血や内臓だろうか。この道路で交通事故に遭った人の霊かなあ。

 歩きながら少し見守っていても、離れる様子がないので足を早めて近づく。こらこら、お疲れのところをそんな風に邪魔しないの。すると私より先に、そのサラリーマンと接触した男がいた。

「あ、肩にごみ付いてましたよ!」

 梅雨の通勤ラッシュにそぐわない明るい声。

 ぽん、とその手がスーツの肩に触れた瞬間、弾かれるように霊が剥がれて霧消する。

 え? 何だ今の現象、見たことがない。偶然?

 サラリーマンにお礼を言われて笑顔で手を振りすれ違った男は、そのまま歩いてこちらへ近付いてくる。男は友人と思しき人々と、また何事もなかったように楽しそうに話しはじめていた。

 良い偶然もあるものなんだな、とほっとしていたのに、男との距離が近付いてすれ違う瞬間、ずし! と一気に肩が重くなる。確かに最近肩凝りが酷かったけどそれはあまりにも突然で、面食らった私はいつもなら跨ぐだけの足元のムカデ風の化け物を避けきれずにぐら、とよろめいた。

「お……っと……。大丈夫ですか?」

 力強く腕を掴まれる。その途端、ぶわ、と髪が逆立つような、元気が漲るような感覚がして肩の重りが吹き飛んだように軽くなった。腕を掴んで心配そうに見つめてくるのは、さっきサラリーマンの肩を払った男。かわいらしい顔立ちがきょとんとしている。私はじっ、と見つめ返した。

「ん? どうかしました?」

 不躾な私にも朗らかな人当たりの良い彼に、私は思いきって言った。

「もしかして、『見える』人ですか」

 男は息を飲む。そしてちらりと友人らに目を遣って、「先行ってて!」と声を掛けた。

「あ、いやそんな、お時間を頂きたかった訳では、」

 私も出勤するところだし。でも訊かずにはいられなかった。見えていると思しき人に出会うのはこれが初めてだった。

「別にいいんです、俺が聞かれたくないだけだから。あいつらも別行動するのは慣れてるし。まあ後で『ナンパか?』ってめちゃくちゃからかわれるだろうけど……」

と苦笑する。

「今からお仕事ですか?」

「はい」

「んじゃちょっと一緒に歩きましょう」

 とても気さくな男だった。すっと心に寄り添ってきて、まるで前から知っていた間柄のように並んで歩くことに違和感を感じなかった。

「『見える』って、ああいうのとかああいうののことですか」

 彼が指差す方向、まっくろくろすけが走っていったり一反木綿が飛んでいくのをその指はしっかりと追っていた。

「それ、です。長い布が飛んでるのと、黒い煤が飴玉持って走ってるの」

 男はがし、と私の両手を掴む。

「そっかあ! じゃあ仲間だ!」

 道行く人達が急に立ち止まった私たちにぎょっとして迷惑そうに避けていった。「あ、すみませんつい」と謝る彼に手を離され再び歩き出す。

「俺、あずま圭介って言います」

「本堂雪です」

「今日、お仕事が終わったらもう一度ゆっくり話しませんか!」

 嬉しそうに笑う彼に、私は躊躇いなくうなずいた。

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