去
五年前まで、
いや、『どこにでもいる』と表現すると、多少語弊があるかもしれない。
沙羅は、花街の傍らで店を開く、小料理屋の用心棒兼看板娘だった。花街から流れてくる酔客や
女手ひとつで店を切り盛りしていた
当時の年齢は十三歳。自分で言うのも何だが、周囲からは『桜が咲きほころび始めたかのような』と称される小町娘だった。花街で名を馳せる太夫達と名前を並べられることもあって、その名声が店の集客にも繋がっていたと思う。
だが沙羅の真価はそこにはなかった。
そんないかにも男に狙われそうな沙羅自身が、店のみならず周囲の町の治安維持までをも一手に担う豪傑であることは、馴染みの間では有名だった。
店の女にしつこく言い寄る男どもを成敗し、派手な喧嘩を繰り広げる馬鹿どもを殴り飛ばし、果ては刀を抜いて刃傷沙汰に及ぼうとした浪人をしばき倒し番屋に突き出したこともある。
喧嘩となれば、負けはなし。
花街傍らに咲く、
それが五年前まで、沙羅につけられていた
「
そんなじゃじゃ馬娘だった沙羅だが、実は
「女将さんが探していたわ。買い出しの手伝いをしてくれる予定だったんじゃないの?」
「ああ、ごめんよ。
それが勘助と名乗っていた男だった。
今となってはそれが本名かどうかも怪しいが、当時の沙羅や周囲は、彼が『勘助』という名の板前見習いであるという素性を信じ切って疑うこともなかった。
甘く整った顔立ちの、二十代かと思われる優男だった。
一人で所用を片付けに出た女将が出先で暴漢に襲われた時、女将を
深く感謝した女将は、田舎から出てきたばかりで働き口がなかった勘助を板前見習いとして店に招いた。勘助もその招きに応じ、真面目に働いた。それが沙羅が十歳の年のことだ。
元から地元で小料理屋を手伝っていたという勘助は確かに手際が良く、みるみる間に店に馴染んでいった。数年後には勘助に店を継がせるべく、沙羅との縁談が纏まったくらいに、勘助は周囲からの信頼を得ていた。
「もうっ! 勘助さんは、人が良すぎるのよ!」
店を続けていくためという前提があっての縁談だった。それでも沙羅は、勘助との縁談が嬉しかった。
押しに弱く、頼られると断りきれない優しいところも。それでいて、いざという時には悪漢に立ち向かう勇気を持っているところも。
その優しさを向けられれば、心がくすぐったくて。思いがけず男前なところを見かければキュンとして。
『深船の喧嘩華』なんて呼ばれていた沙羅が、柄にもなく恋をしていた。
「そういう時は、まずは私に相談して。断りづらいことなら、私から断ってあげるから!」
そう言って勘助を見上げれば、いつも勘助はふんわりと笑って沙羅の頭を撫でてくれた。
「沙羅は頼りになるなぁ」
「当然よ!」
だから沙羅は、いつだってはにかむように笑って、胸を張ったのだ。
「何があっても大丈夫よ、勘助さん」
みすゞ屋の守護者として。町の守護者として。勘助の許婚として。
「女将さんも、みすゞ屋のみんなも、勘助さんも。全部引っくるめて、あたしが守ってあげるから!」
……馬鹿みたいに、いつだってそう答えていたのだ。
全て勘助の思惑の上で踊らされていただけだったのだとも知らずに。
「なぁ、沙羅。俺を助けてくれるんだろう?」
五年前の冬。
沙羅の目の前で、みすゞ屋は燃えていた。沙羅には縄がかけられていて、沙羅は目の前で燃えていくみすゞ屋を、ただ眺めていることしかできなかった。
「沙羅は俺の許婚。俺はみすゞ屋の跡継ぎ。だったらお前らをどう扱おうと、俺の勝手だよなぁ?」
勘助は詐欺師集団の一員だったと知ったのは、その時のことだった。
結婚詐欺師。
跡取り息子がいない商家に潜り込み、じっくりと中から乗っ取っていく。
だが彼らの目的は、店そのものではない。
店の金蔵に眠る金子。店が立っている土地の利権。その店に仕えている女子供。
それらを根こそぎ手中に収め、裏社会の人間相手に売り捌く。そこで得た莫大な利益を用いて、裏社会での地位を固めていく。
勘助はそんな極悪集団の一味だった。
「うちの
二枚目な顔に小悪党の笑みを刻んだ勘助は、前日の夜、正式に女将から譲られた店の権利書を片手に上から沙羅を見降ろしていた。
これが欲しくて女将に近付いたのだということも、ならば女将が暴漢に襲われた一件が自作自演であろうことも、その時にようやく理解が及んだ。
「権利書を手に入れられて、お前さえ処分できりゃあ、俺の仕事も完了ってこった」
「みんなは……!」
勘助に眠り香を嗅がされて意識を失い、目が覚めた時には店が燃えていた。その間に店の仲間や町の人々がどうなったのか、沙羅は知らなかった。
「みんなはどうしたの……っ!?」
茫然自失としていた沙羅がようやく口にできた言葉がそれだった。
そんな沙羅に、勘助はハンッと、
「店の連中は粒揃いだったからな。全員纏めて売っぱらってやったよ」
『全員纏めて売っぱらってやったよ』
その言葉の意味を知っているはずなのに、頭が理解を拒んでいた。
優しい人だと思っていた。愛しい人だと思っていた。
そんな勘助に自分達がどんな仕打ちを向けられたのか、理解できないと……理解したくないと、感情が暴れ続ける。
「お前は散々、俺ら一味の邪魔をしくさってくれたからな。この光景を見せてやるためにここに残しといたって理由もあるんだが……」
そんな沙羅におもむろに近付いた勘助は、乱れた沙羅の髪をグッと掴み上げると強引に沙羅をあおのかせた。頭部に走る激痛と容赦なく体をなぶる炎の熱に、沙羅の目からはとめどなく涙か流れ落ちていた。
「お前は一等美人だからよ。他の人間とは分けて売りにかけることにしたんだわ」
その言葉から後に何が起きたのかを、沙羅は覚えていない。
目の前に突き付けられた現実に心が限界を越えてしまったのか。あるいは記憶もしたくないような無体を働かれたのか。
沙羅が記憶している次の光景は、冷たい土蔵の暗闇と、そこに溶け込むように
その美丈夫が顔に載せた眼鏡の
「ほぉ? こいつが音に聞く『深船の喧嘩華』か? 噂で聞いてたよりも、随分とみすぼらしいじゃねぇか」
随分ボロカス言われていたのに、その声はなぜか深く沙羅の耳に染み込んだ。
壁に繋がれていた鎖を鳴らしながら、沙羅は下からその美丈夫を見上げた。
睨み付ける気力は、もはや残っていなかった。随分と粗末に扱われた体はもうボロボロで、擦り切れた心は何かを感じる余裕なんてなかったから。
「こんなつまんねぇ
そんな沙羅に何を思ったのか。
ゆっくりと近付いてきた男は、沙羅の前に行儀悪くしゃがみ込むと、無遠慮に沙羅の顎に手をかけ、顔を己の方へ向けさせた。そのまま指に力を込めれば、沙羅の首なんてコキリと簡単に折れてしまいそうな触れ方だった。
「チッ、つまんねぇな。こんな女だったなんて。ガッカリだ」
その上で男は、言いたい放題に沙羅を
いや、もしかしたらあの場には、沙羅以外の人間もいて、男はそいつに向かって言葉を放っていたのかもしれない。
だが沙羅には、そんな風には思えなかった。
「……チッ」
今にして思えば、なぜあの瞬間に、あの男の声だけが沙羅の心に染み込んだのか、理由が分からない。
確かにあの時の沙羅は、心が擦り切れて、何かを感じる余白なんてもう残ってもいなかったはずなのに。
「男っつーヤツはよぉ……つまんねぇだの、ガッカリだの、
ただ、沙羅の心に唯一染み込んだ男の声が、沙羅の怒りに火をつけた。
ならば男の声は乾いた大地に降り注ぐ慈雨などではなく、炎を爆ぜさせる油だったのか。あるいは灯火を煽って大火に育てる強風だったのかもしれない。
「一体全体、テメェらはどっから物を言ってやがるっ!! 竿と玉ァついてるだけで、そんなに偉いっつうのかよっ!? エェッ!?」
気付いた時には、絶叫していた。こんなに品のない怒声を上げたのは初めてだった。こんな怒り方ができることを、沙羅自身が知らなかった。
「テメェなんざこっちから願い下げだっ!!」
「俺がここでお前を買わなきゃ、いよいよお前はここでおっ
「上等だ、ボケ」
無遠慮に顎にかけられた手を首の動きだけで跳ね飛ばし、沙羅はギッと目の前の男を睨み付けた。
沙羅が突然怒声を上げ始めても、暴れても、男が凪いだ表情を崩すことはなかった。それは生殺与奪の権が相変わらず男の方にあったからかもしれないし、男がまだ自分達の関係を買い手と商品だと認識していたせいなのかもしれない。
「テメェら男に都合のいい商品として扱われるくらいなら、ここで
さらに言い放った沙羅は、男の腰元に刀剣類の
気付いた時には、体は動いている。
「っ!? おい……っ!!」
男の腰元にある柄を握った沙羅は、なりふり構わず鞘を払った。刀かと思っていた柄が柳葉刀の柄であったことには驚いたが、そこに刃物があればそれで構わなかった。
さすがに驚きを露わにする男から離れるように体を引きながら、沙羅は己の手には重すぎる柳葉刀を首の後ろにかざした。とうの昔に乱れ、
その刃の重さを売りにしている柳葉刀は、刀ほど刃は鋭くない。髪を引きちぎられるような痛みが頭皮に走ったが、それでも沙羅は両の手の動きを止めなかった。
「ハハッ! ザマァ見やがれってんだ」
柳葉刀を
きっと今の沙羅は、目も当てられないような髪型になっていることだろう。
いや、肩よりも短いザンバラな髪だけではなく。
痛めつけられ、放置された体も。ボロにされた着物も。
今の沙羅に『女としての商品』など、ないに等しいに違いない。
「男の喰いモンにされるくらいなら、女なんか辞めてやる」
目の前のいかにも『冷静沈着』を絵に描いたような美丈夫が、沙羅の暴挙に呆然としている様が、とにかく愉快だった。
そしてそれ以上の怒りが、沙羅の臓腑を底の底から燃やしていた。
「男ってだけでいつでも女を勝手にどうこうできると思ってんじゃねぇよっ!! バーカッ!!」
腹の底から叫んだ声が、土蔵の中をわずかに反響して消える。
静寂の
妙にゆるんでいて、それでいて動き出すことを拒むような。それは沙羅が一周回って冷静になれるほどの怒りを燃やしていて、目の前の男が沙羅の突然の激昂に驚きを露わにしていたせいなのかもしれない。
「……プッ」
そんな静寂を破ったのは、男の方だった。
「はっ、ハハッ! ハハハハハッ!!」
突然腹を抱えて笑い始めた男を、沙羅は変わることなく怒りとともに睨み付けていた。だが深船の町で耐えられた者がいない沙羅の眼光を間近に浴びていても、男が笑い声を引っ込めることはない。
「ハッ! それがお前さんの本性かい、喧嘩華」
男が沙羅に新たな言葉を投げた時、男の顔には現状を楽しんでいるかのような、どこか沙羅に対して親しげな笑みが躍っていた。
「お前さん、今自分に一体いくらの値がついてるか、知ってるかい?」
その言葉に、沙羅はただ瞳を
それを是と取ったのか、否と取ったのか、男は笑みを崩さないまま言葉を続ける。
「俺ぁとある組で
「
「いる」
沙羅が差し込んだ言葉を、男は静かに遮った。『売れずに大損なんざいいザマだ』と笑おうとしていた沙羅は、男の言葉にスッと視線の温度を下げる。
そんな沙羅を試すかのように、男は笑みの種類を変えた。
「俺が個人的にテメェを買い取る」
「遊び相手が欲しいなら、
「
男は懐に手を突っ込むと、煙管を取り出した。火皿に煙草を詰めることはせず、クルクルと指先で煙管を
「近々、デカい抗争が起きる。みすゞ屋がなくなり、深船一帯が灰に還ったことでな」
「っ!」
そんな男が口にした言葉に、沙羅は無関心ではいられなかった。
意識するよりも早く呼吸が引き
それで男には十分だったのだろう。ニマリと笑みが深まる気配があった。
「あの辺りの土地の利権、商売の利権は、かなり複雑でな。誰もが手にしたくて、だが誰もがそれを阻まれた。みすゞ屋女将の おし の と、その養い子の沙羅によってな」
沙羅はキュッと唇を引き結んだまま、真正面から男の視線を受け続けた。逸らしたら負けだと、本能で覚ったから。
──難しいことは、私には分からない。
男の言葉が真実であるということは、知っている。
だからみすゞ屋は勘助が属していた詐欺集団に目をつけられ、潰された。
「……あんた、誰?」
そのことを知っているということは、およそ真っ当な人間ではない。女将と沙羅が守っていたモノを欲する人間は、すべからく全員ならず者だ。
そんな意図を込めた沙羅の短い問いに、男は心の底から満足そうな笑みを浮かべた。
同時に、煙管を弄んでいた手が動きを止める。
「俺ぁ
「『双龍』の、八大?」
その言葉に、沙羅は思わず目を丸くした。
青雲に深く根を張る裏社会。その根っこに近い場所にとぐろを巻く魔物。
極道集団『双龍』
八大龍王というのは、頭、若頭に次ぐ最高幹部であるはずだ。
「……あんたが?」
沙羅でも知っている大物中の大物。その
同時に、思う。
確かに『双龍』の八大龍王の一席であるならば、目が飛び出るような値段がついているらしい沙羅を、個人的に買い上げることもできるだろう、と。
「その抗争に『
だから俺ぁお前さんを買おうってんだよ。
沙羅の疑問の声にあえて答えなかった男は、笑みを浮かべたまま核心に触れる。
「どうだい? 喧嘩華。俺のモンになるかい?」
商品ではなく、手下として。『双龍』幹部の駒として。
己の手を取るつもりはあるかと、男は沙羅を見据えたまま、内容に見合わない軽やかな口調で問うた。
「……私が、……いや、オレが」
男が沙羅に返答を急かすことはなかった。
ゆっくりと、
「あんたが求める以上の利を出したら、年季明けって道はあんのか?」
「八大龍王に飼われるのは不満ってか」
「言ったはずだ。テメェら男に都合のいい商品として扱われるくらいなら、ここで
遊女にだって年季明けというものがあるのだ。それが己にはないってのかい、と沙羅は無言のうちに男へ問うた。
「晴れて自由の身になったら、お前さん、何がしたいんだい?」
男は沙羅の問いに安易に答えることをしなかった。ただただ面白そうな笑みを顔中に広げながらも、瞳の奥は沙羅を試すかのように冷徹な光を宿している。
その瞳から目を逸らすことなく、沙羅は答えた。
「特に何がしたいかっつー具体的な話があるわけじゃねぇよ」
挑みかかるかのように。むしろ試しているのはこちらだとでも言わんばかりに。
沙羅は己が持ちうる牙を、全力で男に突き立てる。
「ただただ、テメェにいつまでも飼われ続けるってのが
「ハハッ! つくづく面白ェヤツだよ、お前さんはよぉ!」
そんな沙羅を、本心ではどう思っていたのだろうか。
男は腹の底から愉快そうに笑うと、ようやく沙羅の問いに答えた。
「俺がお前さんを買い取った料金に、多少の手数料と諸々の経費。それを
「具体的な額は」
「手数料と経費は、お前さんの身柄が俺んトコにやってこねぇことには分かんねぇなぁ」
後できっちり証文用意してやらぁな、と軽く答えながら、男は沙羅の方へ身を乗り出した。一瞬『何をする気か』と沙羅は身構えるが、男は沙羅が背後へ投げ捨てた柳葉刀を手に取るとあっさりと体を引く。
「『双龍』へようこそ、深船の喧嘩華」
その上で、男は軽く柳葉刀を振った。
重く分厚い刃が立てたにしては軽く速い風切り音とともに、スパリと鋭く……『砕かれた』わけではなく『切断』された鎖は、寒々しい音とともに沙羅から外される。
そんな絶技を実に気軽に披露した男は、右手一本で持ち上げた柳葉刀を肩に負うように乗せながら、ニヤリと実に意地悪く笑った。
「精々俺に利ぃを生んでから死んでくれや」
それがすでに『
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