白華と龍〜その華は龍を喰らいて炎(えん)を吐く〜

安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売!

 愛していた人に裏切られたのだと覚った瞬間。


 私は、私自身に、泣くことを禁じた。




  ❀  ❀  ❀




 この青雲せいうんには、ふたつの社会が存在している。


 御公儀が治める表の社会と、極道者が治める裏の社会。


 ふたつの社会は表と裏、光と影のように接し合って成り立ってきた。


 ゆえに光のただ中、影のただ中に暮らす人々には、ひとつの暗黙のことわりが存在している。


 いわく、『表は裏に、裏は表に、不必要な接触をしてはならない』。


「おい、テメェら」


 その理を頭の片隅で転がしながら、沙羅さらは路地の暗がりへ気のない声を向けた。


「離してやんなぁ。嫌がってんじゃねぇか、そのお嬢ちゃん」


 沙羅が足を踏み込んだ路地の奥では今、いかにもガラが悪そうな男達が一人の少女を囲って良からぬことをしでかそうとしている真っ最中だった。沙羅の声にパッと顔を上げた少女の瞳からは止めどなく涙がこぼれ落ちている。


 だがそんな少女は、沙羅の姿を認めた瞬間顔に絶望を広げた。対する男達はニヤニヤといやな笑みを顔に貼り付ける。


 ──まぁ、その反応も無理のねぇこった。


 己の容姿に思いを馳せた沙羅は、唇から煙管キセルの吸口を外しながら冷めた視線を一行に向ける。


 当年もって十八歳。性別は女。年相応よりも色気があるとは言われるが、屈強さとは無縁な肢体。色鮮やかな高級友禅を着込み、その上から袖を通さず男物の墨染めの羽織を羽織った様は、芸者にしか見えないとよく言われる。


 唯一異端を示すのは、襟足だけを伸ばして垂らしたままひとつにくくった、女らしくない髪型だけだろう。蓮っ葉な口調さえもが、芸者然とした容貌のせいで様になると言われている。


「おうおう、またどえらい美人が声をかけてくれたもんじゃねぇか」


 そんな沙羅のうわつらしか見ていない男達は、少女を確保したまま沙羅にも近付いてきた。奥の三人で少女を囲み、手前二人で沙羅を確保しようという動きが分かる。


「なんだい、ねえちゃん。あんたが俺らを相手してくれるってかい?」

「いいねぇ、楽しくやろうじゃねぇの」


 泰然として動かないまま、沙羅は右手に握った煙管を再び口元に運ぶ。そんな沙羅の手元に、近付いてきた男の一人が手を伸ばした。


 その様に、捕まっていた少女が涙に割れた叫び声を上げる。


「逃げてぇっ!!」

「俺らと楽しんだ後は、そのまま遊郭にでも行ってもらお……」


 その全ての音が、ダンッという重たい衝撃音にかき消された。


「オレが遊郭に身売りされてきたら、楼主親父さん達もおったまげるだろうよ」


 己に伸ばされた手を逆に取り、左腕一本で投げ飛ばした沙羅は、次いで手にしていた煙管を下から上へ振り抜き、もう一人の男の顎を跳ね飛ばす。見た目よりも重たい煙管から繰り出された打撃に脳が揺れたのか、男はすべもなくクタリとくず折れた。


「な……っ!?」

「この辺りは『双龍』の縄張シマだ」


 あっさりと二人を無力化してみせた沙羅は、草履に通された華奢な足で男達の体を踏み付けながら路地の奥へと踏み込む。その様子を見てようやく沙羅がただ者ではないと理解がおよんだのか、男達はジリッと一歩後ろへ下がった。


 そんな男達を冷めた目で見つめながら、沙羅はさらに言葉を足す。


「『双龍うち』はシマの連中に、堅気さんに手ぇ出すようなマネを許したこたぁねぇんだがな」

「ま、まさかあんた……!」


 その言葉で、ようやく沙羅の正体に合点が行ったのだろう。あるいは沙羅の肩にある羽織の背中に入れられた代紋が目に入ったのか。


 残された三人のうち、一番奥にいた男が、震える声を張り上げながらさらに一歩後ろへ下がった。


「『双龍』八大龍王が一人、『舞龍王ぶりゅうおう』の沙羅……っ!?」

「御名答」


 その言葉にニヤリと初めて笑みを見せた沙羅は、前へ進む足を止めないまま、まるで舞うかのようにクルリとその場で回ってみせた。


 一瞬だけ男達の視界にさらされた沙羅の背中では、二頭の龍が牙を剥き合った代紋が……将軍様のお膝元であるこの青雲の中でも屈指の勢力を誇るヤクザモンの証が堂々と躍っているはずだ。


「堅気に迷惑かける鼠の始末も『裏』の務めだ」


 フワリと羽織の裾が収まった時には、沙羅の顔から笑みは消えている。


 後に残されたのは、底冷えするような圧だけだ。


「ヒッ……」

「すっ、すんませっ……」

「泣いて謝るだけで許されんなら、世の中はもっと平和だったろうなぁ」


『女は解放するんでお目こぼしを』という言外の懇願を、沙羅は淡々とした言葉で踏み潰した。その言葉にいよいよ泣きが入ったのか、男達は囲っていた少女を沙羅へ突き飛ばすと脱兎の勢いで身を翻す。


 ──逃がすかよっ!


 その動きを予想していた沙羅は、娘を受け止め軽やかに壁へ背中を預けさせると間髪をれずに男達の後を追う。


 だが結局、沙羅が男達に追いつくよりも、男達が自主的に足を止める方が早い。


 いや、『自主的に』と評するには、少々語弊があるか。


「あ……っ!」


 路地の反対側から、不意に人影が現れた。その正体が顔見知りであることに気付いた沙羅の口からポロリと声がこぼれる。


 その瞬間、暗い路地の中に一条の閃光が走った。


「……こんなトコで何してやがる」


 相手の存在に気付いた瞬間、沙羅の足は止まっている。同時に男達は糸が切れたかのようにその場に倒れ込んでいた。


 走り込んだ勢いを殺せないまま地面を滑るようにして倒れていく男達の頭上から、低く落ち着いた声が響く。


「八大の一角ともあろう人間が、手下も引き連れねぇでフラフラしてんじゃねぇよ」


 男達の退路を塞ぐように現れたのは、深い藍色の着流しを粋に着こなした美丈夫だった。


 愛想良く笑みでも浮かべていればどこぞの商家の若旦那にでもなれそうな理知的な容姿をしているが、右腕一本で軽々と携えられた柳葉刀と、双龍が背で躍る墨染の羽織がその印象を蹴散らしている。


 眼鏡の下にしまい込まれた怜悧な瞳が自分を冷たく見据えていることを見て取った沙羅は、舌打ちとともに闖入者の名前を口にした。


京二きょうじ……!」


『双龍』八大龍王が一角、『光龍王こうりゅうおう』の京二。


 沙羅と同じ最高幹部八大に叙せられている京二だが、最年少かつ八大末端の沙羅に対し、京二の地位は上から数えた方が早い。年齢こそ二十五と若いが、八大龍王最年少就任の記録を持つ京二はすでに十年近くその地位にいるという話だ。頭と血縁関係にもあるらしく、次代の頭に京二を推す声も強いという。


 そんな相手を、沙羅はキッと鋭く睨み付けた。


「テメェに指図されるいわれなんざねぇよ」


『テメェの方こそ手下はどうした』という安い挑発は口にできない。気を凝らしてみれば、路地の先に覚えのある気配がゴロゴロしている。京二はわざわざ手下を表に残して単身ここへ乗り込んできたらしい。


 ──オレがここに一人で突っ込んできたって分かっていたから、か?


 それが沙羅に……同じ八大に座す者に恥をかかせないために京二が見せた気遣いだと理解できてしまった沙羅は、さらに舌打ちを追加すると不機嫌な声を上げた。


女衒ぜげん商売はテメェの管轄だろ、京二。一体どうなってやがる」


 沙羅の発言に京二は器用に片眉を跳ね上げた。


 その表情を見れば、沙羅が言わんとしていることを京二が理解したということは分かる。その証拠に、京二は低く呟いた。


「まさかお前、最近噂になってるかどわかしの調査をしてるのか? お前の自身をエサに、一人で? それこそお前の管轄じゃねぇだろ」

「管轄者であるテメェがチンタラしてっから、わざわざオレが直々に出張ってやってんだろうがよ」


 沙羅の支配下にあるのは賭博商売だ。任されている地域もこの辺りではない。今の沙羅は完全に京二のシノギに口を出す形になっている。


 それを理解していながら、沙羅はあえて挑発的に京二へ笑みかけた。


「それともなんだ? 光龍王様はこの一件に知らぬ存ぜぬを通すつもりか?」

「沙羅」

「安心しろよ。テメェの代わりにオレがスッパリ解決して、出世の足掛かりにしてやっから」

「おい、沙羅」


 言いたい放題言い放った沙羅は、そのままヒラリと身を翻す。だが沙羅が間合いを取るよりも、京二の左手がパシリと沙羅の手首を取る方が早い。


「何を焦ってやがる、お前らしくもない」


 その一言に、沙羅はグッと奥歯を噛み締めた。


 図星を言い当てられたというのもあるが、何より沙羅の行動の意図も、なぜそんなことを思うに至ったのかという過去も、全て京二に見抜かれ、知られてしまっているという事実が面白くない。


が帰ってきたわけじゃねぇんだ。昔とはお前の立場も違う。いまや八大龍王の一角であるお前が動くような案件じゃ……」

「るっせぇっ!」


 ──面白くない。


 そんな自分の感情も、京二の発言も。気遣うような視線を向けられなければならないという、この状況も。


「テメェに指図されなきゃなんねぇいわれはねぇっつってんだろっ!!」


 腕のひと振りで京二の手を外した沙羅は、振り向きざまに京二を強く睨み付けた。


 五年前のあの日。初めて顔を合わせた時から変わることがない、嫌みなまでに整った顔。


 沙羅の容姿はこの五年で多少大人びたというのに、同じだけの時を過ごした京二は記憶にある姿から変わらない。


 その差異がどれだけのし上がっても埋まらない自分達の実力差を示しているような気がして、沙羅はいつも京二を前にするとムシャクシャする。


「オレがやりたいことをやりたいようにして何が悪い」


 沙羅が己に対して牙を剥いても、京二の凪いだ表情に変化はなかった。京二が沙羅を歯牙にもかけていないという現実をそこでも突き付けられたような気がして、沙羅の心はさらにザラリと不快に揺れる。


「オレぁこの一件が気に入らねぇ」


 京二が言う通り、沙羅が手下を引き連れずに単身で町中をフラついているのは、最近世間で噂になっている拐かしの一件を調査するためだった。


 若い娘ばかりが姿を消すという話を知っていたから、ならば己をえさにできるとも思った。手下に知られれば止められると分かっていたから、適当な理由をつけて屋敷を抜け出してきた。


 全て京二が指摘した通りだ。


 そして沙羅がこの一件にここまで心を乱されるのは……


『大丈夫よ、勘助かんすけさん』


 気に入らないからだ。


女将おかみさんも、みすゞ屋のみんなも、勘助さんも。全部引っくるめて、あたしが守ってあげるから』


 この一件が、五年前の自分に降りかかった事件と酷似していて、気に入らないからだ。


「気に入らねぇから、潰す。『双龍』の八大龍王らしくな」


 沙羅は最後に冷たい一瞥いちべつを京二に向けるとクルリと身を翻す。


 沙羅が視線を向けた先では、まだ先程助けた娘が震えていた。腰が抜けてしまったのだろう。壁に背中を預ける体勢で何とか座り込まずに済んでいるが、自力で歩いて帰ることは難しいかもしれない。


「この一件、解決する気がねぇなら邪魔すんな」


 娘に向かって歩を進めながら、沙羅は一度だけ京二を振り返った。


「オレの過去を知ってるからって、安い同情でオレに関わってくんじゃねぇよ」


 沙羅からどんな言葉を向けられようとも、沙羅がどんな態度で接しようとも凪を揺らさない『双龍』の重鎮は、今日も内心を覚らせない顔で沙羅のことを見つめていた。

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