第20話
千崎は頭痛で目を覚ました。そして息を止めた。
ここは、自室だ。今は何時だろうか。カーテンの隙間からは朝日が覗かない。それはいい。酔いつぶれて寝過ぎたんだろう。
だが、隣で南が千崎に抱き着ていて寝ているのは何事なのだろうか。
寝起きから心臓が煩い。千崎は完全に思考がとまっていた。起き上がれず、南を起こさないようにひそやかに呼吸する。
南はしっとりとした寝顔で寝息を立てていた。それをじっと見つめていると、やがて南は瞳を薄っすらと開ける。
「……おはよう」
南はまた無言で寝に入る。
「待って寝ないで」
「綾は寝たくないの?」
「寝たくない。めっちゃ目覚めた。後頭痛い」
「なら寝ればいいよ。そのうち治るから」
南は千崎を掴んで離さない。せめて水でも飲みたかったけれど、千崎は諦めて天井を仰いだ。
「南さん。どうして抱き着いているのかな?」
「抱き枕」
「さようで」
理由になっていない。
「南さん。寝起きから抱き着かれている私の身にもなって欲しいんですけど」
「美人が隣にいて幸せ?」
「心臓に悪いの」
南は身じろぐ。顔は千崎の肩に寄せられて隠れていた。
「綾が悪いんだよ」
「私何かした?」
「……本気で言っている?」
これは、不貞腐れているのだろうか。
新鮮な南だった。だがそれを堪能しているわけにもいかない。
「えっと。とりあえずごめん」
「適当に謝らないで」
「だって。わかんないし」
怒られる理由が見当たらない。……いや、一つあったか。
「あー。もしかして、帰らなかったこと?」
「違う。私から逃げたこと」
あれは南からすれば逃げたように移ったのか。でも、そうだ。確かにあれは逃げに等しい。
「ごめん。逃げたつもりじゃなかった」
「そうは思えなかったけど。私の何が不満だったの」
「何って……」
それを言えと言うのか。なんて鬼畜なんだ。
「……南こそ、私に謝ることあるんじゃない?」
千崎は話題を逸らした。
「私? 私は悪いことしてないよ」
「した。私に内緒で……」
千崎はその先を言うのが憚られた。だってそれを言ってしまえば、それはまるで、色々と、認めてしまうようで。
「内緒で……?」
「……やっぱなんでもない」
「そこまで言ったらさ、言うでしょ」
「いいの。南は気にしなくていいの」
「やだ、いいから言ってよ」
「だから……」
しつこいと。言おうとして千崎は息を飲んだ。擦り寄る南が、やけに大人しい顔をしていたのだ。大人しくて、今にも決壊しそうで。ともすれば泣きそうで。
「南、どうしたの」
「どうも、しないけど」
自覚がないのだろか。南は声まで震えているのに、台詞は平常で。
「だって、南が……」
「私が?」
南はまだ惚ける。本当に自覚がないのかも。
だがすぐに、南も自らの異変に気づくことになった。
頬に、雫が伝うのだ。
「あれ……? なにこれ」
南は泣いていることに、理解が追いついていない。
千崎は猛省した。南がこんなに脆いと、知らなかったとはいえ。
「南。私、酷い女だったみたい」
南の涙を拭う。煌めく南の瞳はそんなことないと言いたげだった。
「ううん、違う。私のほうこそ、綾の嫌がることしたみたいで」
「だからそれは。……いいんだって。私が子供だっただけ」
「でも」
南は起き上がって千崎に圧し掛かる。真上に来る南は途方もなく不安そうで。
千崎は一つ諦めて、恥を捨てることにした。
だって、南が見るからに子供の表情をしていたから。子供には、素直になることを教えなければならいだろう。
「南。エリスと何してたの」
千崎は声色が変わってしまった。
「え……? あ、そっか。綾、それで……」
千崎の逃げた理由が南にも伝わったようだ。
「エリスとは、買い物してただけだよ。あの子がどうしてもって言うから。あの子は、ちょっと私にとっても特別で……」
「その、特別ってなに? 私に言えないことなの?」
「言ってもしょうがないっていうか……」
「しょうがないかどうかは私が決めるって」
千崎は問い詰めるような言い方になっていた。自分が思っていた以上に、エリスのことは気がかりだったみたいだ。
「ご、めん。綾、怒んないでよ……」
また、南が泣きそうになる。やってしまった。
千崎は慌てふためくままに視線を泳がせ、悩んだ末に南の頭をすっと胸に抱き寄せた。
「ごめん南。私、ただ嫉妬してただけなんだよ。本気で南に怒ってるわけじゃない。だから、ね?」
頭を撫でつけると力んでいた南は力を解いていく。これは間違えた選択肢ではなかったようだ。
「あのさ。私エリスのことが気にいらなかったの。なんか、南のこと取られそうで」
「……エリスはそういうんじゃない」
「そうなんだろうね。でも私にはわからないんだよ。私、南のこと知らなくて、不安になるの。だからさ、南のこと、もっと教えてほしい。駄目、かな」
千崎は言い切った。南を抱き寄せていて良かった。顔が爆発しそうなくらい熱い。
「……そんなに面白い話でもないよ?」
「それでもいいよ」
「全部は話せないよ?」
「それはおいおいで」
「……わかった。なら、昔話でもしようかな」
南はたっぷり間を開けて、話し始めた。
「何から話そうか。……私ね、というか吸血鬼はね。みんな元々人間なんだよ。初めから吸血鬼じゃないの。だから、私も人間だった。遠い昔のことだけど。――幸せな、家庭だったと思うよ。父さんと母さんがいて、少し忙しくてあまり家にはいなかったけど。私は愛されていたと思う。丘の上に大きな家と、花畑。今でもその景色だけは覚えてる」
南はまた間を開けて、息を吸った。
「お手伝いさんがいたの。とても綺麗な人だった。いや違うか。――人じゃなかった。吸血鬼だったの」
その声音は、何を、南のどんな感情を表しているのだろうか。千崎には予想もつかず、踏み入れない過去だった。
「いい人、いい吸血鬼だった。そう、料理を教えてもらったの。でもね、真実は教えてくれなかった。どうして。――どうして私を吸血鬼にしたのかは教えてくれなかった。それから。私の両親を殺しもした」
南は、そのことには大して何の感情も抱いてなさそうだった。
「あの吸血鬼は、私の両親を殺して、その血を私に与えた。とても美味しかったのは覚えてる。そして、消えた。吸血鬼は最後に、私に愛してると言って、それからはもう一度も姿を見ていない。多分もう死んでるんじゃないかな」
そう言いきって、はっと息をつく。
「……怒ってないの?」
千崎が聞いてみると、南はきっぱりとしていた。
「さあ。もうよく覚えてない。もう今はどうでもいいのかも。昔のことだから」
南は千崎の上から転がって同じようの天井を仰ぐ。
「でね、エリスは私が吸血鬼になってから初めて会った吸血鬼なの。いや、初めは人間だったか。私、まだ吸血鬼なり立てだったから、間違えてあの子のこと眷属にしちゃってさ」
「眷属いないんじゃなかったの?」
「あれは、なんだろう。妹かな。私が引き込んじゃったから、だからあの子の我儘には、どうも逆らえなくて」
「エリスのこと、大事?」
「大事、なのかな。あの子は、一番長い時間一緒にいたから」
「どれくらい?」
「さあ。何百年じゃない? ずっと一緒に旅してきたの。ここに来るまでずっと」
「どうして旅をやめたのかは聞いてもいいの?」
「特に理由はないよ。強いて理由を上げるなら、ここにいる目的ができたから、かな」
南はそれ以上喋らない。その肝心な理由とやらは内緒なのか。
「こんなところかな。私の昔話は。面白かった?」
「面白くはなかったけど。聞けてよかった」
「正直だね」
「それから、もっと聞きたくもなったかな。どこ旅してきたのか、とか」
「じゃあこれから毎晩話そうか」
「ゲームはしなくていいの?」
「綾は聞きたいんでしょ?」
「……聞きたい」
南は微笑む。一つ約束ができたみたいだ。
「私も、話せてよかったかもしれない」
南はまた笑った。だが、その笑顔は少し違った。
とても、少女らしくて。
「南」
千崎は南の頭を抱えて、
「え」
額に唇で触れた。
驚く南は、今度はとても可愛らしい。
「何今の」
「したくなったから」
「だからってさ。もうちょっと他にない?」
「あったかも」
南は身体を転がして反対を向いてしまう。
千崎は声をかける。
「ありがとね」
「……どういたしまして」
照れているのだろうか。南は一向に顔を向けてくれなかった。
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