第14話

 シャワーの音にかつてここまで緊張したことがあっただろうか。

 千崎は自室で天井を見つめていた。今お風呂に入っているのは南。千崎はもう入り終えた。静かなゲーム機。真っ暗なモニター。耳を澄ませば南の鼻歌。

 南がお風呂からあがれば、後は寝るだけ。

 とてつもない緊張感だった。

 千崎があれこれ思考を巡らせているうちに、お風呂場の扉が開けられる。


「綾ー、タオル取って」

「……うん」


 千崎はお風呂場の前までタオルを取りにいって、手を伸ばす南に渡す。扉から南の腰が覗けてしまい、千崎は即座に視線を外した。


「綾、今見てたでしょ」

「み、てない……」

「見てた」

「見てない!」


 千崎は走ってその場を離れる。布団に座り込むと、深呼吸を始めた。


「なにしてるの?」


 髪を拭きながら薄着の南が出てくる。


「精神統一」

「そんなことより乾かして」


 南は鏡の前に座るとドライヤーを持って早くしろと言う。

 千崎はドライヤーを手に取って南の髪を乾かし始めた。斑一つ無い綺麗な栗色。乾かしていけば毛先まで艶やかで、手触りもさらさらで。

 初めて乾かしたわけでもないのに、今日は一段と目を惹かれた。


「はい、終わったよ」

「ありがと。綾は上手だよねこういうの。あれかな、妹でもいる?」

「ううん、一人っ子」

「なら才能だね。綾といられて私は幸せだ」


 軽々しく、南はそう言う。


「軽い幸せだね……」

「いやいや、重いよ……?」 


 南は目を一瞬怪しく光らせ、千崎にに飛びつく。千崎はそのまま布団に押し倒された。

 南は部屋の電気を消す。布団の中へ、入ってくる。南は千崎の上に覆い被さり。


「……え?」


 千崎の隣で寝始めた。


「あれ……? 南さん?」

「なに? 今日は寝るんじゃなかったの?」


 南はきょとんとしている。

 そういう風にとられていたか……。


「あーっと。南、私はさ……」


 千崎は言葉に迷う。そういった経験がないから、切り出し方がわからない。


「やっぱり寝たくない? ゲームする?」

「そうじゃなくて……」 


 千崎の視線は定まらない。恥ずかしさと、気まずさと。やがて千崎は頭の処理が追いつかず。南の顔を引っ張り自分の首に寄せていた。


「吸って」


 言えたのはたった一言。でも、一番の一言だった気がする。南は、急に黙りこくっていた。 


「南、好きでしょ? 私の血」

「……そうだけど。どうしたの? 綾」

「いいから! ……吸ってよ」


 南は戸惑いながら。やがて千崎の首の口をつける。

 入り込む牙。破られる首筋。今日は、どうしてか、一段と心地良い。

 千崎は無意識に、身体を、脚を南に絡ませていた。

 千崎の脚が触れると、南は吸血を止める。


「綾……?」

「……え? あ、ごめん! これは……」


 千崎は急いで離れようとする。だが、南は千崎の上の乗ると肩を押さえつけた。


「綾、今日もしかして……」

「あ、えっと……」


 真っ赤な瞳で見下ろされる。やがて南は口の端を上げると、顔をゆっくりと下ろしていった。


「南……? あ、はっ。そこは……」


 南は噛みついた千崎の首に舌を這わせる。傷痕を何度も往復する。一度舐められる度、千崎は声を漏らしかけては口を引き結ぶ。

 やがて南は同じ傷痕にまた牙を突き立てた。今度は寄り鋭利に。より深く。

 あまりの刺激に、千崎はとうとう声を上げていた。 


「あっ……! 南、強すぎ……!」


 千崎が南を止めようと頭に手を添えると、その手は南に掴まれて、布団の上に押しつけられる。人間の女の子には出せない、吸血鬼の力。でも、手つきは優しくて。千崎は自然と脚に力を籠めていた。

 南は何度も口を離しては、また牙を突き立てる。牙が入り込むと、千崎は声を上げ、南は身じろぎする千崎を押さえつける。

 どれだけ吸われていたのだろうか。千崎が力尽きてくる頃、ようやく南は顔を上げた。


「綾、生きてる?」


 南は口から血を垂らしながら千崎を見下ろす。千崎は意識を手放しそうで、朧げな返事しかできなかった。


「みなみ……」 


 千崎は手を伸ばす。南はその手を取り、満足気に自分の頬に当てる。


「よく頑張りました」


 南はそっと、千崎の額に唇を近づける。そのまま千崎の首に手を回すと、千崎も同じように腕を伸ばした。

 南の体温に触れている。千崎は温もりに導かれるまま、目を瞑った。



          *



 朝、千崎は目を覚ますと身体が気だるかった。

 隣を見ると南はいない。その代わりに、煙たい。換気扇のほうから、紫煙の香りが立ち込めていた。

 千崎は起き上がると廊下に出る。南はスマホ片手に煙草を吸っていた。


「あ、おはよう」

「おはようじゃない。吸うなって私いつも言ってるよね?」

「だから起きる前に吸っておこうと思って」

「まさかいつもそうしてた……? 道理で最近部屋が煙草臭いと思った……」


 千崎は怒る気にもなれず、諦めて朝食の準備をしようと冷蔵庫を開ける。


「綾」


 南がこちらを見つめていた。見つめて、瞳を紅く染めて、高揚しているのか頬を赤らめながら、牙を覗かせていた。

 そんなことされたら、思い出してしまうじゃないか。


「……やめろし、それ」

「綾、可愛かったよ」

「そういうこと言うな……」


 千崎は顔が熱くなる。これ以上言及されてもなので、さっさと朝食の準備を進めた。

 そこからはいつも通りだった。

 煙草を吸い終わったのか南も手伝い始めて。なんてことない朝食を一緒に食べて。今日も大学があるから支度をして。

 二人で一緒に玄関を出た。


「今日寒いね」


 鍵を閉めながら千崎は身震いをする。だが特に南からの返事はなく。南は遠く、空のほうを見つめていた。


「南?」


 呼びかけても、南は固まったまま。その様子に千崎は見惚れていた。朝日と、あまりに相性が良過ぎて。

 やがて南は千崎に向き直ると、こんなことを言った。


「……ごめん。先行ってて」


 さぼり、だろうか。別にそれは構わないけれど。

 千崎は引っかかっていた。その南の顔が、背ける横顔が。儚くて。寂しそうで。

 これは予感だろうか。千崎は行かせてはいけない気がしたから。こんなことを口走っていた。


「南、一緒に住まない?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る