第5話
居酒屋というのはどうしてこうも煩いのだろうか。千崎はいつもこの雰囲気に慣れなかった。
「私生で、千崎は?」
「私も」
お酒を頼み、それ以外にも適当に食事の注文を済ませた。
それにしても「生で」って。吸血鬼の癖にそれっぽいことをするものだ。
「……どうして、誘ったの」
暫しの無言の後、千崎は聞いた。
「どうしてって。仲良くなりたくて?」
「疑問形やめろ」
「じゃあ言い直す。千崎と仲良くなりたい」
そう真正面から言われると、千崎は照れ臭くて顔を逸らしてしまった。
「仲良くって何さ。南さんは私の血が吸いたいだけでしょ?」
「確かに、それもあるけど。仲良くなりたいのは本当」
「どうして」
「興味深いから」
そう言う南は嘘はついていなさそうで。美人にそんな子と言われると。そう。反応に困る。
千崎がどぎまぎしていると、お酒と、幾つか食事が運ばれてくる。南はジョッキを手にすると軽く上げて、
「乾杯」
私のジョッキと合わせた。それにしてもこの女、何をしても絵になる。
「興味深いって。私結構普通な女の子だと自負してるんだけど。どのへんが深いの」
「うーん。血を吸われて気持ちよくなっちゃうところとか?」
南は意地らしい顔を近づけて囁いてくる。気持ちよく、とか。そんな言葉美人が耳元で囁かないでほしい。お酒吹き出しそうになるから。
「それのどこが興味深いの」
「普通は痛がるのよ? 吸われると。それに、なんだろう。人間の本能かな。結構嫌がられる。だから珍しい。千崎は」
ジョッキを呷る南の首元がとても白い。
「話聞いてる?」
若干見惚れていたら即見抜かれた。鋭い吸血鬼だ。
「私からも聞いていい? よく私が吸血鬼だって信じたよね。それも言われてすぐに。どうして?」
南は大層不思議そうにしている。
「どうしてって。そりゃ信じるよ。信じるしかないよ。本当に、その。私のさ」
「血を吸ったから?」
「……そう」
周りに配慮して言わずにいたら、南は呆気なく口にする。だが、気づいた。誰もここの会話なんて気にしていない。居酒屋の喧騒の理由がよくわかった気がする。
「案外信じて貰えないものなんだけどね。血を吸って見せても」
「衝撃的過ぎる。からかな」
「多分そう」
「まあ、そっか。そうだよね。でも私は、なんか信じた。……納得したのかも」
「何に?」
「南さんの美しさに」
そう、口をついて出た言葉。言ってから千崎ははっとした。だが、それ以上に、意外なことに。南が僅かに狼狽えていた。
「……千崎、今のはよくないよ」
「……ごめんなさい」
なんだこの気まずい空気。
「……てかさ、思ったんだけど」
空気を変えようと千崎は話題を変える。
「なんでつき纏うの。別に吸血鬼なら無理やり吸えばよくない? それを律儀に毎日毎日吸わせて吸わせてって」
ずっと気になっていた。初め、というか二度目まではあんなに強引だったのに。
「……うーんと。他の子だったら、そうしてきたんだけど」
南はもったいぶる。
「なに」
「いやね。そうしないほうが楽しいかなって。千崎は珍しいから。すぐに殺すの、勿体なくない?」
「な、殺すって。殺すのは、駄目でしょ……」
唐突に出てきた物騒な言葉に千崎は狼狽え、噛みそうになる。
「あは、ごめん、そうだよね。殺すのはだめか、そっか」
改めて、なるほどなんて顔を南はする。なんだか吸血鬼だ。
「あれ? ていうか、もしかして私、すごく危険だったりする? 南さんのことばらしたりしたら死ぬの……?」
「死ぬよ」
あっさりと、彼女はそう口にした。
「当然、死ぬ。私だって生きるために今の地位を手に入れて、毎日人間ごっこしてるんだから。駄目だよ? ばらしちゃ」
「……肝に命じます」
南は淡々と告げる。それが怖かった。彼女から仲良くなりたいと言って、こうして飲み交わして。不本意だけれど、無意識だったけれど。仲良くなりかけていた気がしたから。普通に、死ぬんだなって。
「まあばらさなきゃ殺さないわ。だって千崎の血は美味しいからね」
「美味しいの?」
「美味しいよ」
南はジョッキからビールを一気に飲み干し、追加を頼むと煙草に火をつける。
それも、美味しそうに吸っているけれど。どっちのほうが、美味しいんだろうか。なんてことは、
「ん? 吸う?」
「吸わない」
聞けなかった。
*
この日以来、南は無理に血を吸わせてという要求をしてこなくなった。けれど。その代わり、飲みによく誘われるようになった。
「遅いよ綾」
バイト終わり、いつもの居酒屋に行けば南はもう一人で出来上がっていた。
「ごめんて。で、今日は何?」
「振られたー!」
こうして、南の愚痴に付き合うのが日課になっていた。
「南が振られるなんて珍しいね」
「そう! 私だよ? この美貌だよ? 吸血鬼だよ⁉ なんで振られるのさ!」
完全にやけ酒だった。
「まあ私としてはざまあみろだけど」
「酷い!」
酷いって。人間の私からすれば吸血鬼の方がよっぽど酷かった。
「あのさ、血ってどうしても吸わなきゃなの?」
「綾、それ本気で言ってる? ――人間でいう食事だよ? 吸血は。それを止めろって。食事をやめろって言うの?」
南の態度が一変する。どうやら、いや。考えるまでもなく、不用意な発言だった。
「ごめん。そうだね。……でもさ、やっぱ酷いは酷いよ。酔わせて、とか。寝てる間にとかはまだわからなくもないけど。我慢できなくて吸ったらそのまま存在ごと消すとか、やっぱり酷い」
「騙される方が悪いのよ。私の美貌に釣られて」
不遜な物言いだった。でも、そうなのだろう。彼女からすれば、そうなのだ。
「で、今回はどんな子を?」
「ショートボブの子で、めっちゃ可愛いの。強気な態度が彼女の芯の強さって言うか、虐めたくなる子」
「へぇ。……ん? その子、髪色明るい?」
「うん」
「こう、目つきが鋭い?」
「うん」
「……名前は?」
「叶ちゃんだって」
咲宮だった……。
「……南、咲宮は駄目だよ」
「あれ、知り合い?」
「うん。あいつはね、無理だと思う。あの子、なんでか知らないけど独りなんだ。他人を、見下してはいない、と思うんだけど。関わらない。断絶してるとまで言っていい」
「でもこの間の新勧、いたよね?」
南のご指摘はごもっともだ。
「なんでかね。私とは関わってくれるの。多分私が心配でついて来てた。……その割には南にお持ち帰りさせやがったけど」
「心配されてないじゃない」
「南は一応、お眼鏡にかなったんだと思うよ。一回私が危ないのにお持ち帰られそうになったときは、助けてくれたらしいし」
「叶ちゃんの目は節穴か」
……どうだろう。実際私は生きてるから。でも血は吸われてるから。でも貞操は守られてるし。
そうとも言えるし。言えなくもある。
「南はさ、咲宮こと、殺すつもりだった?」
「さあ。ばれなきゃ殺さないし、我慢できなくてばれたら殺す」
想像通りの返事だった。どうして改めてこんなこと聞いたのか。
「じゃあ、どうして私は生かしておくの?」
「だからそれは美味しいからで」
「でも、他にも美味しい人はいるでしょ。私だけ生かしておくなんて、危ないよ」
なんだか、ちょっと強気に聞いてしまった。
「……何だっていいでしょ」
はぐらかされた。
南は手羽先を、なんと骨ごと食らう。聞かれたくなかったのか。若干、怒ってる?
「……南?」
「……なに」
「……なんでもない」
それきり、南は黙ってしまった。やっぱり怒らせた、とも考えたが、そこまでご立腹でもなさそうで。長考、してる? のだろうか。南は物思いにふけっていた。
千崎は隣でちびちびと酒を口に運ぶ。あんまり飲まないように、酔わないように、反省の現れだ。
煙草を吸い始めた南は宙を眺める。千崎は暇だったから、南の手元にあるもろきゅうに手を伸ばした。すると、南に手首を掴まれる。
「あ、ごめん、食べたかった?」
「…………綾。出よう」
「へ?」
言うが早いか南は席を立ち、千崎を連れていく。会計もさっと済ませて店の外に出た。
「ちょっと。奢りとか聞いてない」
「いいから。行くの」
南は千崎の腕は離さず、勝手に早足で進んでいく。千崎は南の歩幅にひたすら合わせるだけだった。
道の途中、南はコンビニに寄る。千崎のバイト先だった。千崎に籠を持たせると、お酒を次々籠に放り込んでいく。
あまりバイト以外で顔を出したくないのだが、そんな千崎なんて気にせず、手を掴んだまま。
そうして、またつられるがまま歩き、バイト先に来た時点で千崎はなんとなく察していたけれど。南の家に着いていた。
「よし。ちょっと待ってて」
南は家に上がり、千崎を座らせると一体何事か、エプロンを装着する。やがて、リビングで座っていると、千崎の元に食事の香りが届き始めた。
千崎はキッチンを覗きにいくと、南はお皿に食事を盛りつけている。手慣れた手つきだ。
「できた」と南は呟くと顔を覗かせていた千崎を見てニヤつく。千崎は。辛抱堪らない香りに我慢できなくなっていた。
南が食事を机に並べると、それは中々豪勢に千崎の目には映った。幾つか味の濃いものと、シンプルに食べ合わせが良さそうなものと。お酒にぴったりなテーブルだ。
「じゃ、飲み直そうか」
南は缶の蓋を明けると一気に飲み干す。
「えっと、じゃあ。いただきます」
千崎はよくわからないまま、晩酌に付き合うことになっていた。
「……美味しいんだけど」
食事を口に運ぶと、千崎は素直な感想を口にしていた。南は料理が上手かった。
「でしょ? ほらもっと飲んで。おかわりもほしかったら作るから」
「いいの? じゃあ遠慮なく」
千崎は思うがままに食事に手をつける。どれも美味しくて手が止まらない。
「あ、そうだ。食べ終わったら映画でも見る? 綾どんなの好き?」
南はこれまた心躍ることを言ってくれる。千崎はずっときになっていたのだ。ソファーの前にある、大き目のモニターが。
「見る見る。私映画見るの好き。そんなに詳しくはないけど」
「なら私が選んであげる」
「ほんと? 南って映画好きなの?」
「まあね」
突然連れてこられて、いきなり食事を出されて、千崎は初めこそ戸惑っていた。が、至れり尽くせりな状況に、完全に乗っかってお酒が進んでいた。
*
食事を終えると、千崎はソファに寝転がってゆったりとした時間を過ごしていた。千崎の視界には、少し古い、雰囲気のある映画と、床に座る南の後頭部。
千崎は結構酔っていた。
「綾。眠い?」
「ううん、眠くない」
弱弱しい返事しかできない。映画の内容があまり入ってこないくらいには千崎は眠かった。
「ねえ綾」
「ん?」
「綾はさ、私のことどう思ってるの?」
「どうって……」
唐突に、南はそんなことを聞いてくる。千崎はぼやける頭で考えるが、
「私は……。わかんないな」
そんな返事しかできなかった。
「わかんないか。綾、私はね、――私はね。……やっぱなんでもないや」
「おい。そこまで言ったら言ってよ」
「いいでしょ別に、ほら」
寝転がる千崎の口に南はお酒を運ぶ。少々口の端から漏らしながら千崎はお酒を喉元に通した。
「ねえ綾。眠い?」
「だから眠くなんかないって」
千崎は寝ぼけながらも起き上がろうとすると。
上に南が乗ってきた。馬乗りだった。
「あの……。南さん?」
「綾、眠い?」
また同じことを聞いてくる。照明を落とした部屋で、灯りはモニターだけ。その光は、彼女の口元を、鋭利な口元を照らしていた。
「南、それ……」
とても鋭利な八重歯が、すらりと伸びている。
「南さ、もしかして。寂しいの?」
南の肩が、ぴくりと震える。
「何言ってるの綾。そんなわけないでしょ」
「……そっかー。そうだよね。吸血鬼がそんな可愛いこと言わないか」
また、肩が震える。
「そうよ。吸血鬼がそんなこと、言ってられない」
「吸血鬼って、孤独なの?」
「そう、とても。どこまでいっても」
「ふーん。…………やっぱ可愛いとこあるじゃん南」
千崎は南の肩に手を回した。南の髪を撫でつけた。
「――いいよ」
その一言に、南の目は見開かれる。
「今日、どうしたのかなって思ってたけど。吸いたかったんでしょ? ……いいよ」
「いいの? 私酔わせて、無理やり吸おうとしたんだけど」
「……いいんだよ。ずっとそうしないようにしてきた南が、なんだかいじらしくて。なのに今日は我慢ができなそうで。可愛い」
南の指先が千崎の首筋に触れる。千崎は微笑んで、目を閉じた。
覆い被さる南の髪と、触れる唇。痛みと、心地良さ。
漏れる嬌声に、柔らかに頬に触れる吸血鬼の掌はとても冷たくて。
この日から、私たちには日課が一つ増えた。
*
「綾。早く」
揺れる漣。船の明かりが遠くに煌めく海岸線で、南ははしゃいでいた。
「私、こんなのいつぶりだろ」
呟く千崎は首元を擦る。花火の袋を片手に、にこやかな南が眩しくて、千崎は駆け寄った。
「綾は花火好き?」
「どうだろ」
「聞いといてなんだけど私もわかんない」
南はバケツに海水を汲むとしゃがみ込んでライターを手に持つ。早速始めるのかと思ったら、煙草を吸い始めた。
「おい。私たち何しに来たの」
「何って、青春?」
適当を言う。
千崎も南の横にしゃがみ込む。
「一本頂戴」
南は一瞬呼吸を止めるとポケットから煙草を取り出す。一本取り出して千崎の口に咥えさせると、顔を近づけた。
「なにして――」
「暴れないで。ほら」
煙草の先が触れ合う。
「息吸って。そしたらつくから」
言われた通りに吸ってみる。煙草の先に火が広がって、千崎は思いっ切りむせた。
「あはは! 綾吸い過ぎ!」
「いや……、加減、わかんなくて……」
千崎は呼吸を整えてもう一度吸ってみる。やっぱりむせた。
「なにこれ、なんも美味しくない」
「そうだよ、煙草は美味しくないんだよ」
「じゃあなんで吸うのさ」
「美味しいから」
「ふざけんな」
千崎は一本目を吸い終わった南に煙草を突き返す。南はそれを咥えながら、今度は花火に火をつけた。
「わあ綺麗」
千崎も倣って、花火を楽しみ始める。一本取って火をつけて。でも、その花火は思ってたよりしょぼかった。
「こんなんだったけな」
「こんなものじゃない? 手持ちの花火なんて」
「こんなもの、なのかな」
とくに感慨もなく花火を眺めていると、南は袋からガサッと花火を取り出し、纏めて火をつけだした。
「これで火力五倍増し」
「危ないからやめなさい」
なんて言いながら千崎も纏めて花火を取り出し、一気に火をつける。
「おお、いいじゃんこれ」
「ねえ綾、もう全部一気にやっちゃおっか」
「……いいね」
南は袋をひっくり返し、全ての花火を束ねる。そして全てに火をつけ始めた。だが火の着き具合にむらがあり、幾つかの花火が先につき始める。
「あっつ……! 綾、これどうしよう……!」
慌てた南が花火を持ったまま近づいてくる。慌てた素振りをしながら、その顔はほくそ笑んでいた。
「ちょっ……、危ないからこっち来ないで!」
「やーん、あついー、綾助けてー」
「いいからこっちくんな! 水ぶっかけるよ!」
「それは困る」
ふと我に返った南は手に持った花火を浜辺に捨てる。
「って、こらこら」
花火は次第に勢いを衰えさせて、全て燃え尽きていた。
「南さん、ポイ捨てはいけません」
千崎は燃え尽きた花火をバケツの中の放り込んでいく。南はと言えば、我関せずでまた煙草を吸っていた。
「いいものだね、海って」
南は感慨深そうに煙を宙に揺蕩わせる。
「そんなに?」
「海で吸う煙草、美味しい」
「……一本頂戴」
「吸わないじゃない」
「今度はちゃんと吸うから」
「ほんとに?」なんて言いながら南はまた一本千崎に渡す。千崎が咥えると、顔に手を添えてくる。
今度は落ち着いて、吸い過ぎずに。
煙草の先を合わせると、南の顔がとても近かった。揺れる煙越しに、瞳を覗けば覗き返してくる。
「……今度は上手く吸えた」
千崎は煙草に火がつくと今度はむせずにふかしてみる。やっぱり美味しくはなかった。南は千崎から手を離すと、それはもう堪らないと言う顔で煙を吐き出す。
千崎はどうにも悔しくなっていた。悔しいから、
「エリサ」
ちょっと揶揄っていた。
「なあに、綾」
でもそんもの意味はなく、南は変わらず煙にご執心。
「ちょっと呼んでみただけ」
「もう一度呼んで」
「エリサ」
「もう一回」
「エリサ……」
「まだ」
「……エリ、サ……。てもう無理!」
千崎が先に根を上げてしまった。
「私の勝ちね」
そう言う南は、心底嬉しそうだった。
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