第18話
果(は)たせるかな母はやがて床を出て、祖母の作った温かい食事を平らげ、祖父の買ってきたたい焼きを齧(かじ)った。家族と何気ないおしゃべりにも興じるようになった。お腹をさすったり拍(う)ったりして僕との直接の対話を試みた。たまに外に出ては茜雲(あかねぐも)を見上げて、
「みてごらん、雄(ゆう)ちゃん」と頬を緩ませた。見えもしない僕が母の感情を読み取って、
「わぁ、まっか」と既知の思念で返すと、母は、
「そうでしょう、あれがこの街の夕焼けよ」と教えてくれる。母と僕はこの時心で確かに会話できていた。僕が、
「明日も見られるといいね」と云うと、母は、
「どんなことがあったって、あなたと一緒に生きるわよ、あの大きくて赤い夕陽のように」と上を向いて呟いた。
その時母に流れていたせせらぎが明らかに力を増し、大きな命の川になっていくことを僕は感じた。僕たちに生きる希望を注ぎ込んでくる。それは夕陽のせいなのか、母なのか、定めなのか、いずれでもありそうでいずれにも傾斜しない。娑婆(しゃば)と涅槃(ねはん)の混合だった。大事なことは、どこからか義務に変わってしまっていた僕の誕生はその時から義務でなくなり、母と僕の元あった楽しみに戻りつつあることだ。
不図(ふと)微かに父の存在を近くで感じたが、これも母と僕が生きる希望を取り戻したからだと、静生(しずお)はわかっていて雄吉(ゆうきち)は知る由もない。僕は母の復活した愛を未完の身体と終わりない思念で朧(おぼろ)げながら受け止めていた。
祖父がこれほど慌てているのを僕は初めて目にする。祖母が買い物に出かけている間、母の容態が変わった。突然うずくまった娘の側で、祖父はただただうろたえた。祖母に助けを求める。買い物中祖母は電話に出ない。その習性は祖父にとって新しい学習ではないが、祖父の口からついて出る言葉は「なんでこんな時に出ないんだ」と繰り返された経験が頭からすっぽりと消去されていた。母は苦しい表情を変えない。祖父は祖母を呼ぶ以外に自分ができることを思いつかなかった。あまりにしつこい電話にとうとう祖母が出て、
「どうしたの?」
「お母さん、早く、由紀が」
それから祖母が帰ってきた。祖父とは対照的に落ち着いた祖母は状況を察し濡れた手拭いを娘の額やら首やらにあてて拭ってやる。
「陣痛が始まったのよ。お父さん、タクシー呼んでちょうだい」
「急ごう、俺が出すよ」
「そんな慌ててる人に運転されて事故されちゃかなわないわ。タクシー呼んでくださいな」
自身の二度の経験で陣痛から出産までを身をもって知っている祖母にとってここは余裕があるようだった。さすがは母の母だ。僕のためらいをよくわかっている。
実はまだ僕が母のお腹から出る最終決心ができていない。頭は娑婆に向かっている。だが僕には胎児を卒業する決心が鈍っている。ここを出てしまったらあの何度も繰り返した『苦』がまた待ち受けている。僕はもう静生(しずお)なんかじゃない。だから『不安』でたまらない。できるなら引き返してこのまま母のお腹の中でずっと過ごしたい。
ところがそんな臆する僕に、母は退腹(たいふく)?卒腹(そつふく)?を強いようとしてくる。母の意思とは違う。母の身体がそうさせている。これ以上あなたを置くことはできませんよと。それに僕が協力しないとここを出られないことは経験上わかっている。ここからは母と僕の命がけの共同作業になることも。
後部座席、祖母が母の背中を摩っている。助手席の祖父が行き先を告げる。
「竹内産婦人科、とにかく急いで」
母は額に汗を滲(にじ)ませてまぶたをきつく閉じている。彼女を苦しめているのは確かに僕だけど、僕だって狭苦しくて真っ暗な母の襞(ひだ)の内で気を失いそうだった。
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