第15話
父がいなくても母も僕も誕生への道を日一日と確実に辿って行った。僕はもうすっかり人間の胎児であり時日を数えることもできていた。いまは朝、いまは昼、いまあれから何日目、そんな窮屈な過ごし方が僕にも根付きはじめていた。宿っている母の胎内が狭くなってきたこともそうした習性の獲得を急がせていたのかもしれない。僕の関心は父より祖母より祖父より、そして母ですら自分の生きることより優先されるものではなくなってきた。なぜなら僕には産まれることがすべてだったから。母に届ける意思は念じるより蹴りが早かったし、届けようと思わなくても僕の手脚は勝手に動いた。それに反応してくれる母の喜びが、僕の手脚を盛んにした。その度に母は、「もうすぐ逢えるね」と僕に囁いてくれた。
その頃、母は同時に僕の健全さにも心を割いていた。母も僕も一時的に仮死状態になったことでもしや僕の身体のどこかに悪い影響が出ていないかどうか、それを母は気に病んでいた。きっかけは父と叔母であったが母は僕を死なせかけたのは自分のせいだと思っていたからだ。その心配が日を追うごとに強くなり、母はついに通い慣れた竹内産婦人科で医師に打ち明けた。
「先生、あたし出生前検査受けたいです」
そうした申し出には慣れているせいか、医師は平然と母の要望を受け止め尋ねた。
「どうしてですか?」
母は外から僕を抱え込むようにしてくぐもる声を震わせた。
「この子のことが心配で」
「わかりますよ、でも知ってどうするんですか?」
「知りたいんです」
推測はつくが不得要領に医師はまた尋ねざるを得なかった。
「知るのはお母さんがご安心なさりたいからですか? それとも他にご事情がおありですか?」
母の不安げな響きが僕の爪先の少し上の方で押し出されるのがわかった。
「もしあのことでこの子に何かあったらと思うと、申し訳なくて取り返しがつかなくて、そればかりが気になっています。それにあたしひとりでこの子を育てていくことになると思うんです。知っておかないと産む覚悟がもう揺らいで・・・」
母のお腹を見て医師は云った。
「結果がどうであってもこの時期に(堕胎は)できませんよ。赤ちゃんもう立派なあなたのお子さんになってるのですから」
「立派な子かどうかわからないじゃないですか? そんな断言どうしてできるんですか、先生。あたしのせいでこの子死にかけたんですよ」
母子の生死の汀(みぎわ)の事情にも通じている医師は、彼女の強い要望を受け入れざるを得なかった。母から血液を採取し後日結果を伝えると言い渡し浮かない表情の母を去らせた。
結果は母にとって衝撃的だった。
「数値がすべてを決めるものではありません。しかしその可能性を否定できる、というものでもありませんでした」
母の唇は震えていた。
「仰っている意味がわかりません」
医師のその後の説明はとても丁寧だったが、母にはまるで聞こえていないようだった。母の狭い胎内で二人の会話を聞いていた僕にもそれが誰のことについて云っているのだかよくわからなかった。
母はその日の帰り道のことも、実家で食べた魚の苦い味も、祖母から話しかけられた内容もまったく覚えていなかった。察した祖母が床を用意してくれて無理にも母を横にさせたが、母は何も語らなかった。その日からまた母は床の上の人となった。あの時と同じように天井を無為に見上げる日々に母は僕に何度も、
「ごめんね、雄(ゆう)ちゃん」と呟いては涙ぐんだ。
僕は静生(しずお)なんだから、と割り切っていたかったけれどそろそろ窮屈な胎児晩期の備えに、僕はかからなければならなかった。静生(しずお)でなくなる日が近づいていたということだ。
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