第12話
それがためかどうかわからないが(いやそれ以外にそれ以上の要因は見つかりっこない)、母の体調は優れず身を寄せた実家から一歩も外へ出ず引き籠(こも)りがちになった。ただでさえ妊娠中に鬱鬱(うつうつ)した症状に陥りやすい妊婦であるが母の場合はそれに輪をかけて幸福を輪郭とした同心円にあったはずの伴侶と、血を分けた妹のまさかの裏切りに遭い、まさに青天の霹靂(へきれき)に見舞われたわけであるから平静でいられようはずがない。安定期であるはずの体調は心の或る部分を欠いてみるみるうちに悪しき方へ変調していった。
僕から見て母の実家の祖母と祖父になるだろう人たちの狼狽(ろうばい)ぶりは窮状を極めた。この人たちにとってもそれは余りに青天の霹靂(へきれき)で、よもや自分の娘たち姉妹が骨肉相食(こつにくあいは)むような混乱を引き起こし分けても末の娘が(人間世界の)道理に悖(もと)るようなことを犯すとは悪夢でさえ見るまいとこれが現実とは到底思えなかった。
しかし自分たちの置き所のない困惑より娘の身を案じるが先で、身重の娘に声を掛け掛け、昼も夜もずっと見舞い、産婦人科に連れ出そうともするが、彼らの娘で僕の母は一向に動こうとせず、さらに悪いことに祖母が用意してくれた食事にまったく手をつけないで幾日も黙して床に伏したまま無為(むい)なるが住み慣れた天井の濃いと淡い染みを何重にも数え分けた。その時の母の声は僕にさえほとんど何も聞こえなかった。
母の衰弱は甚だしく僕にも時を待たずして遷る。僕が僕の入れ物を大きくしてゆけばゆくほど、息苦しさや母と同じ鬱鬱(うつうつ)とした気分を分かち合うことは胎児である以上仕方がないのだが、母が床に伏している間、僕の入れ物の成長は止まっていた。母からの栄養が途絶え母からの苦悩だけが届いていたからだ。
こうなると胎児の壮齢期に差し掛かる僕にも人間性なるものを隠しきれず自分の命を守ることを考えるようになった。生まれることがここにあっては僕の優先的生業(なりわい)だからだ。それは母の命ためでもあるわけだし。
僕は母に向かって叫び続けた。
「お母さん、どうか食べてください」と。
しかし母には僕の声はそれまでと何ら変わらず届かなかった。弱っていく母と僕の身体。ならばと僕は身体中のありったけの力を込めて母の中で今生(こんじょう)初めてともいえる蹴りを試みた。弱く細い筋質が僕を薄く覆い始めていたから或いはと思って蹴ってみたら想像より僕の足が伸びた。母のどこかを蹴飛ばしたことは間違いない。すると母は、「あっ」と久しぶりの声を上げた。
「そうだよお母さん、僕はここで生きているよ」
僕は念じるように母に呟いた。それは母と僕の初めての直截的意思疎通だった。母の壊死(えし)しかかっていた意識が少しだけ動き出したことを僕は感じた。母の冷たい手が僕と母をまたぐお腹の皮を伝って僕を撫でてくれるようだった。
ただ、少し遅かったかもしれない。命欲しさに頑張った僕の蹴りはそれが精一杯でその後急速に入れ物に残っていた細い生命の何かが失われていくようだった。母の意識に遅れて僕の入れ物が壊死(えし)していく感覚を覚えた。この生き物の生活用語でいう流産を僕は覚悟した。母子家庭とか静生(しずお)とか云っている場合ではなかった。
母の意識が遠のくにつれて、僕は僕本来の境地に一度立ち返り人間の弱さを認識している。これがミヤマクワガタだったら僕は流産することはなかっただろう。万物の歩みと比べてしまう僕には人間の壊れやすさに、万物の見えざる神はこのそそかしい生き物に何を見せようとしているのか何万回そこを辿ろうとも判然としなかった。
僕は生まれる前すでに人間の死の淵にある。だが僕はいい。まだ始まってもいない。それにこんなことには慣れている。しかし母は違う。現世を生きている。締めるには早すぎる。せめて母の命はとめないで欲しいと願った。願うより他(蹴るにも叫ぶにも)、入れ物を離れた僕には誰かの力を借りるより他なかった。
その願いが通じたというわけではないだろうが、皮肉にも頑(かなく)なな意志を示さなくなった母をやっとのことで病院へ連れ出すことに成功した。娑婆の寿命半ば過ぎて初めて赤く明滅する救急車両に同乗した祖父母の顔からも生気が失われていた。僕は祖父母にも心配を向けねばならなかった。元気であってくれても、もしかしたらおじいちゃん、おばあちゃんと呼べなくなるかもしれないのに。
病院に着いた時の母は衰弱激しく意識はあるかなしかほど微かなものだった。人間は生きる望みを失うとあっという間に肉体まで崩壊させる。母の肉体は生き血を流そうとせず、僕を流そうとしていた。それは母の意志ではなく彼女が背負わされた絶望が母と僕を引き離そうとしていたのだ。祖父母の呼びかけは虚しく母の閉じた目蓋(まぶた)に跳ね返された。
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