第11話

 興信所の男は慣れた風に言葉を濁した。

「ご夫婦の考え方次第でしょうな」

 母はそれでも「一般論としては?」と模範解答を求めた。男は云った。

「そう珍しいケースでもないです」

 母は高額な調査費用を今更ながらに後悔した。

 彼の云うとおり近親と不貞に及ぶことは古今東西一般的には珍しいことでもまた御法度(ごはっと)でもない。僕にもあたしにもおらにも妾(わらわ)にもそんなことは幾らでもあった。だが、この優しかった母と愚かな父の子である僕、静生(しずお)としては穏やかならざる状態である。ことによっては生まれながらに僕は一人親の家庭で育っていくことになるかもしれない。せっかく幸福に浸っていたのに何やら雲行きが怪しくなってきた。僕は母の影響を直接に受けやすい。故に母の心の状態が不安定になると僕の気持ちもささくれる。一般的には珍しくないとか云っていられなくなってきた。

 どちらの側の穢(けが)らわしいものから糾弾すべきか、母は懊悩(おうのう)した。生活を共にする夫か、はたまた血を分けた妹か。近しいこの者たちがどんなにうまい云い訳しようともどんな尤もらしい理由を付けようとも、どちらも幾分たりとも許せはしない。どちらも自分に跪(ひざまづ)かせてありったけの謝罪を吐かせたい。その謝罪を自分はひとつとして決して受け入れない。それでも縋(すが)り付く両名を足蹴にして謝罪の次に後悔の言葉を地平線の先まで並べさせて擦り切れた後悔を自分は断固として受け入れない。泣き縋(すが)ろうとも喚(わめ)き狂おうとも自分は二人を許さない。絶望に伏した二人が共に自分の前から立ち去って身を投げようが入水(じゅすい)しようが、どちらかを助けたいとも思わない。

 僕は母に同調して父と叔母を呪うべきか考えた。たとえ僕の来歴が寛容なる性を認めようとも、この優しかった母の子である僕は、母を裏切った二人を許してはならないのではないか、父との繋がりを絶たなければならないのではないか、母に代わって僕が二人を成敗しなければならないのではないか、そう僕を母の思考がそそのかした。その時の僕はもうかなり人間に近かったはずだ。

 だが、僕は胎児である。幾千万の輪廻で娑婆にいる人間より遥かに多くの命のたすきを受け継いできた胎児である。彼らより生命の摂理を知悉(ちしつ)している。だからここに居る以上は人間のような淡い感情で判官贔屓(ほうがんひいき)に染まってはならない。為し得るなら母を諫(いさ)め不貞を働いた父を改めさせ、元どおりの僕を鎹(かすがい)とした仲睦まじい夫婦に戻す。僕がすべきことはそれだった。

 ところが僕が期待するほど人間は胎児の助言を汲み取れない。母への寛容と父への改心と叔母への謝罪を求めた僕の願いは母にも父にも、況(ま)してや離れている叔母にも届きはしなかった。

 ひび割れた関係性は、僕に云わせればめいめい反省が足りないからなのだが、自分都合でくっつこうとせず、当節一番容易い出口へと向かって行った。母が云い出し、父は当惑しつつも抗えず、母から一方的に離婚を迫った。爾今(じこん)の更なる大きな問題、即ち親権と汚れたお金の問題を背後に回して。父は黙るより他なかった。

 母は父との共同生活から遁(に)げ出し実家に身を寄せた。残された父も居たたまれず賃貸の集合住宅を出た。叔母は母と断絶して姿をくらました。僕は身体こそ母と共にしていたが、やるせない心の行き場を持て余していた。まさか幸福を信じて疑わなかったあの胎児初期から、こうも突然に生後の母子家庭を決定宣告されるとは想像だにしなかった。改めて、僕は幸せ下手な人間に生まれる因果を億劫(おっくう)に思わざるを得なかった。

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