第8話
父が躊躇(ためら)いながら聞く。
「名前のこと?」
母は逸(はや)る父を理解はしている。
「うん」
だけれど母は乗り気でない。
「どっちかは使わなくなるんだよ」
「わかってる。だけどさ、、」
「もうちょっと待ちましょうよ。頭の中で考えておけばいいじゃない。いまはまだ、ね?」
母は要らなくなる名前を気にしていたのだ。きっとあの産婦人科で僕が聞いた声を母も何かしら感じていたのかもしれない。だから捨てなければならない子供の名前なんてのを作りたくなかったのだと思う。僕だって可愛いらしい女の子の名前はつけて欲しくなかった。
こうした会話は次第に勢いを増していく。
「どんな子になると思う?」
父の質問は未来志向だと云えなくもないが大抵茫漠(ぼうばく)である。
「そうねぇ、あなた似なんじゃない?」
乗らなければいいのに母も空想が過ぎた。
「だったらやっぱり男の子かな、元気な」
どうしても男の子に帰結したがる父を、母はこれまでも何度か諫(いさ)めてきたが、一旦性別の話になると父の話は止まらない。しかしこの時は勢いづいた父の長広舌(ちょうこうぜつ)を母は遮(さえぎ)らず黙って聞いていた。話題が専(もっぱ)ら自分たちの子供に向けられているなら聞くに耐えぬことではないし、父が男の子を望んでいるように自分も密かに男の子を望んでいたからだ。前々から云っているが母はそれをもう薄々わかっていたので、僕から正体を明かしてあげたいのだけれど、それには及ばない。時間の問題だからだ。やがてその期待は実現する。何を於いても二人の期待が外れないことを僕だけが確証を持って知っているこの特権は堪らぬ。胎児ならではのものだ。
だが一方で期待に添えない場合もある。それは比較的地球上の人間という生物に多いのだけれど、性別違いなどたいしたことではない、最たる事例は、あの竹内産婦人科で聞いた声たちと同じように生まれ出ずること叶わなかった場合、あと生まれ出ずること叶っても健常ではない場合、或いは生後に障害を持った場合。悠久の漂流からすればその命の時間は寸刻であるが、その輪廻で迎えなければならない試練を覚悟しなければならないから。尤も胎児は娑婆に出た人間と違って、前後の世を遠望できるので一輪廻で一喜一憂しない。どこかで報いがあることもわかっているし。
比べて、来世の僕の命はいまのところおおよそ期待どおりである。父に似ているかどうかはわからないが、いまの僕の気持ちとしてはどうせなら父に似て二人を喜ばせてあげたいと思っている。
だが期待が大きすぎるのも少し困ったもので、可愛い男の子、元気な男の子くらいで留めてくれればいいのだけれど、父の話には優しくて強くて賢いに続いて、やれ一流アスリートだの、やれ成功する起業家だの、やれ宇宙飛行士だの、突拍子もない夢物語が次から次へと出てくる。それを母も茶化しながらも嬉しそうに聞いている。こうした時間が二人の至福の時なのだと理解しつつも、僕は迷惑ながら黙って聞いているしかない。僕には自分の未来までは見通せないので、それが荒唐無稽(こうとうむけい)な、子に託す父の夢・希望なのかもしれないが、もしかしたらそのうちのどれかが実現しないとも限らない。そう考えた時、僕はこの父の子供になっているなと思いもするが、いやいや、やはり過度な期待はやめてもらいたい。
母と父の間に僕の存在が認知されたことで幸福な時間が増したことそれ自体に、望外の幸福と慎みを持って暮らせればよいのだが、この人間という生き物は、母と父でさえ例外でなく、幸福の扱い方が他の星や同じ地球上の他の生物に比べて下手である。無い時は慎ましいくせに、一旦持ち出すと増上慢(ぞうじょうまん)になる。その性質は古今東西何も変わっていない。幾度人間に生まれても、僕はここから脱したことがない。それは恐らく、次の機会でも変わらないのだろう。胎児の記憶を持って生まれればそんなことはないのだろうけど、記憶を消して毎度この轍(てつ)を踏んでいる。
僕のことで二人が揉めている。幸せな気分は一転して暗澹(あんたん)たるものに変わる。何で二人が揉めたかと云うと、育児休暇をどう考えるか、つまりどちらがどう取るか、いつ取るか、そんな平和的な話を、わざわざ分断的な話に換えてしまって揉めでもいいことに揉めていたのである。
母の言い分は、
「あなたの会社は制度的に取れるわよね? 産んだ後は一緒に育てて欲しいの。わたしのは個人の小さな店だからそんなしっかりしたものないし、長期働けないなら代わりの人探すってきっと云われるわ。仮に休み取れたとしてもせいぜい産前産後ちょっとだけ、すぐに戻ってきてくれって云われるかも。だからわたしには育児休業って概念ないわ。育児専業しかないのよねぇ」
これに父は、
「あまりあてにしてくれるなよ。そりゃあ制度はあるにはあるけどさ。でもあるのと使っていいのかとはちょっと違うんだよな」
「どう違うっていうのよ?」
「まわりの視線に耐えられないよ」
「なに、その視線って?」
「本当に取るのってやつ。取ったやついないんだよ、男性で、まだ。第一号はちょっとなあ・・・」
「まだ、そんな古ぼけたこと云うんだ。そんな会社これからやってけないよ。ジェンダーフリーのいまの世の中で」
「世間の使い回しをそのまま引用すんなよ。現実と理想は乖離してんだからさ。そんな単純じゃないんだよ。それだったらミルク代はジェンダーフリーにならないのかよ?」
「ジェンハラだよ、それ。赤ちゃん負ぶってパン売れって云うの?」
「権利と主張だけで子供は育てていけないよ。きちんと仕事して成果と評価あげて、そういったことが土台にあっての育児だろ、違う?」
「違うと思う。土台はわたしたちの子供でしょ。あなたこそ都合よく置き換えて、世間の使い回しじゃない」
そこまで云われて父の方が先に感情の均衡を失った。
「わからない人だな。もういい、君とは話したくない」
「そう、じゃあどうぞお好きに」
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