第7話

「安心して。赤ちゃんは無事ですよ」

 本日二度目の診察は、何気に恥ずかしい気持ちがした。母の不注意は僕の不注意でもあったからだ。

「あぁ、よかった、先生、よかった」

 母の五臓がおのおの小刻みに震えていた。

「先生ありがとうございます。神様ありがとうございます。赤ちゃんありがとう無事でいてくれてぇ」

 誰彼(だれかれ)に謝辞を述べる母の肩から、次第に力が抜けていくのを僕は母のずっと奥で感じていた。

「でも驚いたかもしれないね。お母さんひっくり返ったなら赤ちゃんもお腹の中でアクロバットしたでしょうから。他のことに気を取られて歩いてちゃだめだよ。しっかり前見て歩くことに集中する、いいね。特に歩きながらのスマホは危ないよ、妊婦さんに限らずだ」

 叱られて母は僕らを代表して謝ったが、誰に詫びているのか母はわかっていないだろう。

「ごめんなさい、ごめんなさい。わたし気をつけます、もうぜったいに転びません」

「転ばぬ先の杖、それは赤ちゃんのことを一番に考えることですよ」

 医師の格言には幾重にも、母のみならず妊婦ならず歳若い男女への訓戒が混じっている。それに化石の声たちが軋(きし)み立てて共鳴しているような気が僕にだけにはした。

「はい、そうします」

 母は弱々しく応えたが、強い決意を込めたはずだ。僕も強い決意で立派な胎児になろうと思う。

 母が転んだ時、実のところ少しびっくりしたけど僕は我が身がなんともないことをわかっていたし、それを母に伝えたかったけれど母は気が動転してそれどころではなかった。僕は母の気持ちをありのまま理解できるけれど、母は僕の気持ちを臆測以上に図りえない。僕に森羅万象(しんらばんしょう)への思念があることさえ母は理解していない。これが胎児なのだ。胎児は母と父のこと知っている。だけど一旦母のお腹から産まれ出たら何もかもをここに置いていく。嬉しいような哀しいような。母と、それから父と、そして僕はそんなもどかしい関係で複雑に繋がっている。


 本日二度目の診察を終えたのは、一度目が終わってから二時間が過ぎていた。ここにまたもう一人僕を案じてくれる人がいる。僕の父はあまりに母からの伝言が来ないので、堪りかねて彼から伝言を寄越してきた。

「どうだったの?」

 それ以上の言葉は添えていないが、父がそれを恐る恐る送っていたことを僕はわかっている。

「まさかだめだったのかよ?」そんな信じたくもない呟きがここには混じっている。

 父の探りを母が目にしたのは二度目の診察後、待合室で支払いを終えたあとだった。母は思い出したようにさっき作りかけていた(一時は文字の羅列に成り下がった)伝言を呼び起こした。そして要らない飾りは全て消して父にこう送った。

「予定日9月20日」

 僕が娑婆に出られる日が二人の間で認識された寧(むし)ろ今日が記念日である。


 母と父の会話が変わった。それまで実体のなかった嘱望に頼るだけの不確かな未来が、実体を伴ったことで確かなものへと遷移したからだ。実体と云っても彼らが得た実体は医師の目を通したさらに機械が無感情に映し出した遠くの平たい白黒の世界である。これが哀しい出来事ならばそれを実体と受け止めるのに、彼らは健気(けなげ)な防御本能から抵抗を帯びただろうが、待ち望んだ出来事ならば何の摩擦もなしに易々(やすやす)と受けいれられた。例えその絵に医学的根拠がなく子供の落書きであったとしても。母と父にとって実体はその手にあるが如く、だったのである。もう二人は僕を抱いてくれている。

 身篭(みごも)っている母と違って、外側から僕たちを抱きしめてくれている父には、未来への期待が母より膨らむ性行が強い。それは仕方がないことだ。父には僕と隔たる物理的距離が長短いつも存在する。父は想像するより他ない。しかしそれが父の新たな日常を幸福足らしめてくれているなら、僕がここに在る意義がもっと確かで豊かになる。

 二人の会話は、父が質問する。母が答える。それが収まりの良い定型になっていた。

「体調どう?」

「うん、いつもどおりよ」

「食べたいものある?」

「えっとね、焼肉と焼き鳥とカツ丼としゃぶしゃぶと大トロとチョコパフェとケンタッキーと、あとはね・・・」

 そう言って母は舌を出して照れ笑いしたが、5つめまでは本気だったこと、僕は知っている。

「きっと男の子だろうね?」

「どうかしら?」

 父は自分の想像の中に可愛い男の子を勝手に拵(こしら)えて僕の手を取る。

「安産祈願はどこがいい?」

「気が早いわね。まだ二ヶ月よ」

「だからさ。しっかり育ってもらいたいだろ?」

 二人の眼が僕に注がれている。

「宇都宮の上香宮神社がいいんだって」母が答える。

「じゃ、土曜日に、さっそく」父が提案する。

「決めるの早すぎ」

「行けるとこ、どこだって行くさ」

「いっぱい神様掛け持ちしちゃダメだよ。浮気者だって思われるじゃない」

「この子のことしか考えてないのに、浮気者だって思うかな神様?」

 こうした会話に僕の未来があちこち出てくるのを、僕は楽しく拝聴させていただいている。時間とともに未来像に肉付けがされ実体と期待が隣り合わせになっていくことを僕ら三人は、本当の未来と仮にずれていたとしてもいまは全部許せる気がする。

「両方考えておかない?」

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