第6話

 声の主は僕以上育(はぐく)めず消された命のともがら等だった。

 ここには今般の僕の母とは違い、できた子の出生を望まぬ来院者が数多(あまた)あった。数多(あまた)あったと言わざるを得ぬそこかしこにある声々が、近く遠くまた近く僕を包囲していたからだ。声はとっくに死んでいる。いまのじゃない。ずっと以前のものもそこに残っている。声は消された命から剥離して浮遊する化石のようにここに留まっている。僕が拾うから聞こえるが、声はもう何も求めていない。怨嗟(えんさ)も未練も況(いわん)や希望もそこにはない。

 長い漂流に預かるうちに、僕の死んだ声もこの世界やあの世界のあちこちに残されているはずだが、僕には親の意思で堕されたことはない。その生命の子孫繁栄の習慣から数多くの同胞たちと一斉に産み落とされることはたくさんあっても、そこから娑婆に出ること叶わぬ頓挫はいくつもあっても、僕には親から望まれぬ生まれ方をした覚えがない。覚えがないのだからきっと僕の漂流に刻まれていない。

 だから、娑婆に出られず命を削り出された声を僕は聞きたい。僕が幸福になるのであればその分その声を僕は聞かなければならない。声々もそう云っている。だから僕に聞こえるのだって。

 重苦しいその声は僕に改めて生まれてこられる悦びを声なく伝えてくれる。僕は思った。できにくくて苦しんだ僕の母と、できてしまって苦しんだこの声たちの母と、その二つの苦しみは当世では何を分つのだろう。また来世では何が変わるのだろう。僕にはわかっている。だから僕はこうした声に祈りを捧げた。この因果がどうかこの声の主たちにも幸運をもたらしますようにと。

 母が竹内産婦人科を出た時、僕たちは晴々とした気持ちに変わっていた。僕に至っては、誰かに自分の存在が承認されて初めて娑婆の入り口切符を手にした気分だった。しかも、僕の誕生を望まぬ者はいまのところひとりとしていない。このことを当たり前だと思わず、この上ない幸せと、顎(あご)さえもまともにできていない僕だが幸福を噛み締めた。僕たちは母の胎内で繋がっている限り、同じような感情を持ち合わせることができる。そうだからこそ、僕は母のためにも幸せな気分でこの先もありたいと願い、母の穏やかな心臓の鼓動を聞こえない耳をすませて遥か先までの宇海(うみ)を僕も穏やかに眺めた。

 母は産婦人科から駅に向かう道すがら、朗らかでありながら何か素敵な伝言を送ろうとしていた。勿論相手は夫へである。幸福に満たされる伝言を彼女は夫に届けたいと思った。待ちわびている夫を喜ばせたかった。父はきっと仕事の合間にも何度も母からの連絡が来ていないか確認していることだろう。母がこの時間に産婦人科に行っていることを知っているので、吉報をいまかいまかと待ちわびていることだろう。そこへ母の素敵な伝言が飛び込む。喜び勇んだ父は腕を振り上げるだろうか、柏手を打って神に感謝するだろうか、悦びの余り隣人と抱擁するだろうか、そんなことを想像して母も溢(あふ)れる幸福に満たされている。こんな母を間近に見て僕も気分は小躍りしている。

 一文字の記号で送れば「○」でもいい。文字にしたとしても「できていました」で済む。それを彼女は胸躍らせながらどう飾るか考えていた。父を喜ばすひときわ工夫の効いた伝言とはどんなものだろうかと。それを考えられる自分たちのいまのありがたい境遇を診療の時間を飛び越えた過去をも巻き戻して胸弾ませるのだった。

 すれ違う人は前方に注意なき母を親切にも向こうから除けてくれた。僕はその時母に訪れる危機を予知していた。だから母に注意を促した。だけど僕の声は届かない。僕の動きも伝わらない。届けるのは繋がっている意思だけでそれを持って伝えたいのだが、母の注意は僕の伝えたい意思より夫への伝言に余りにも傾注しすぎていた。注意散漫な母に僕は「危ない」と何度も足を止めるよう伝達したつもりだが、できあがりつつあった伝言に母は釘付けになっていて階段の高さに足が追いつかなかった。母が駅の階段でつまづき転ぶのを、僕も彼女のお腹の中でごろんごろんと転がりさっき産婦人科で見てきた化石の声を隣に感じる恐怖を味わった。

 母は前のめりに手をついて膝を打ち、横転した。そのまま仰向けで階段下まで滑り落ち、尻餅をついた。妊婦であることなど周りは知るはずもないが母の派手な転び方に驚いた何人かが駆け寄り、

「大丈夫ですか?」と案じてくれる。痛みなど感じる隙間もなく母はただ仰天している。そばにいた男が母の手を取り引き上げてくれた時、母は「赤ちゃん」と上擦(うわず)った声で叫んだ。察した男は、

「救急車呼びましょうか」と云ってくれたが、母は、

「いいえ、ひとりで行けます」と云ったなりいま来た道を戻ろうとした。母の狼狽ぶりに男は、

「歩かない方がいい。タクシーを」そう云って駅前の車をつかまえて母を引っ張って行って乗せた。母は気が動転したままに車に乗せられたが、行先を尋ねる運転手に「赤ちゃん」と焦点の合わぬ瞳を泳がせている。母を助けてくれた男は、

「一番近くの産婦人科へ」と代わりに告げてくれてが、運転手は、「次の角ですよ」と訝(いぶか)しい顔をする。

「いいから行って」そう押し切った男に運転手は料金メーターを倒した。母の手元には打ちかけの伝言が色を失くして唯の文字の羅列になり下がっていた。

 気が動転している母と、診察する医師、そしてすべてを知っている僕。母の不注意をたしなめるのは医師ではなく僕の役割だったかもしれない。

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