第5話

「そのころになってどうにか男の子の性器か女の子の性器かが判別つくようになります。なので、いま教えてあげたいが教えて差し上げることはできないんですよ。でも実はもう決まっているんです」

 勿体つけた言い方を彼が好んで使っているのではなさそうだが、母には判然としなかった。

「赤ちゃんができた時にね、お母さんとお父さんが持っている染色体、つまり型ですね、それが結合した時に、もうどちらの性別か決まっているんですよ。お母さんはXという型、お父さんはXとYの2つの型を持っているんです。お母さんのXとお父さんのXがくっ付いたら女の子、お母さんのXとお父さんのYがくっ付いたら男の子、とまあこうなるわけです。だから、既にどの型になっているかは決まっているんですけどね、僕らが持っているもの(機械)では残念ながらわかりませんし・・・」

 医師の表情にはわからなくていいといった自然な笑みがあった。だから母は不安を塗り潰して、「そうなんですね」と無理にも呟く。

 けれど、僕には既にわかっているし、医師に代わって母に教えてあげたいのだが、その必要性を感じなくなる母との疎通の方を僕は大事にしたい。それにいまにわかることだから。きっと医師もそう云いたかったに違いない。

 実は、母にはわかっている。小難しい論理ではなくて、僕がそれとなく男の子であろうことを母は感じ取っている。期待とも不安ともちょっと違う。母は性別そのものにさほど執着を持っていない。初めての子が男の子であればいいと願っていたのはどちらかといえば父の方だ。母は、僕を子として全部を引き取っている。しかし、僕が多分男の子であろうことを、言語領域とか認知領域とかではないところで感じ取っている。感じ取ってはいるが気持ちが逸(はや)ってはいけないと神様への遠慮(そんなものは彼女が勝手に拵(こしら)えたつましい謙虚さなのだが)、それが彼女を嬉しいながらに窮屈にしていた。だから母が「この子は男の子です」と口外することはないが、母はこの先の妊娠期間で僕を男の子として身篭(みごも)る覚悟が、この時すでにできていた。

 一方で抱えていた消せない不安は、この子を(男の子であろうが女の子であろうが)自分の子宮が五体満足に育てていけるのだろうかといった、これまでのできにくかった辛い過去から生じうる茫漠(ぼうばく)たるものだった。それが母の悦びを抑えつけていた。

 母が僕の性別を感じ取れた理由、それを僕は母性であるとしか説明しようがない。実のところ僕も、人間の母であったことが何万回とあったためわかる。人間に限らず人間の呼び名でいうナウマンゾウもマンモスも他の星の二足歩行の生命体でも、お腹に単体しか抱えない命は、総じて繋がりが強く太いので、子供ができた時からその子に関するいろいろなことを母親は感じ取っている。僕の母も受胎した瞬間から僕の存在を感じ取っていた。だからあの日の朝に、妊娠検査薬を使った時にもう確信があった。生命の産声(うぶごえ)のようなものが母には聞こえたのだ。人間の母には大抵は皆、全部とはいわないが来し方流転が遥かであればあるほどそれを感じ取れるようになっている。命の有り難さを気の遠くなる漂流で知る者と知らぬ者があるというのも不思議なのだが、さっき云った過去の娑婆での暮らしぶりで感じ取れる領域や大きさが決まってくるらしい。幸い僕と母にはそれを感じられるところまで漂ってこられたのだと思う。僕は過去の流転からその強さを実感している。この母のもとに産まれて来られる自分の運命にあるかあらぬかの小さな身を震わせながら心から感謝した。

 母が医師に性別を尋ねたのは、自分の母性で感じ取れている不確かな解答の答え合わせをしたかっただけなのだ。結果が延ばされようとそのこと自体に落胆する気持ちはない。母は僕が男の子であることを体の奥で気づいているからだ。また仮にその予想が外れて「女の子でした」と告げられても母はやっぱり落胆しないだろう。それよりも、

「この子元気なんですね? 先生そう仰いましたもの、元気に育ちますよね?」

 母はそれだけを念じ念押しした。こんな時の医師がどういった回答をするか僕にはわかっていることだが、初産(ういざん)の母には一言医師のお墨付きがもらえれば只それだけでよかった。

「ええ、そうですよ。赤ちゃんは元気です。お母さんが健康で元気に過ごしていれば、赤ちゃんも元気に育ちますから、心穏やかに、そして規則正しい生活を心がけてください」

 そう云うと医師は白い歯を見せた。母はやっとのことで余計な緊張を解いた。

 母の緊張が解けるのと相反し、僕は同じ診察室で母の胎内から重苦しい誰かの声を聞いていた。医師ではない。看護師でもない。他の妊婦さんでもない。その声は僕にしか聞こえていない。声は言葉ではなく泣き声でもなく娑婆に流れる如何なる物音でもなかった。音にならない声が僕に届くのは、それが僕に近似した境遇によって発せられるべき無声だから聞こえるのと、僕がその声を努めて拾おうとしていた両方がある。

(□□□ □□□ □□□ □□□)

 それを何かに換えて伝えることはできそうにない。だけど僕はその声を確かに聞いていた。

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