第4話

 母が気づいたのは、霜枯れの透き通った朝のことだ。正確には僕の誕生から三十六日が経っていた。薄手の羽織りの小さな肩を小刻みに震わせながら彼女は便座に爪先を立てて座り、用意していた妊娠検査薬を股の間に恐る恐る伸ばした。的を外さないよう慎重に先っぽに尿をかけた。暫くして目を凝らしてみたら、小さな窓に薄らと青い線が浮かび上がっている。母は呟いた。

「できたかも」

 母の鼓動と脈打つ音が宇海(うみ)に津波のように押し寄せ振動として響き渡り、彼女の心がさんざめくのを僕は一番近くで見ている。

 母は検査薬を宛(あたか)も受精卵を抱えるかのようにそっとそっと慎重に摘んだまま、転ばないよう足を滑らせて父のもとに運んだ。まだ寝ぼけ覚めやらぬ父は洗面所で髭を剃っていて、初めてみる妊娠検査薬なるものに理解がついていかず、ふたたびの母の「できたかも」に、父は朝食をさきに想像して食卓に思い馳せた。反応の鈍い夫に母は、

「赤ちゃんよ」

 そう云われて父は目蓋(まぶた)を見開いた。

「なんだって?」

「これ見て」

 母は尿をかけた妊娠検査薬をわざわざ父の鼻先に突き出した。突き出してからもう一度陽性反応が消えていやしないか不安になり自分の目で改めて確認した。青い線が尚くっきりと彼女の網膜に映った。

「青く出れば妊娠している可能性高いのよぉ」

 母の唾液が多量に分泌している。彼女の興奮が僕には同じように感じられた。誰のことで喜んでいるのか当の本人には不思議と実感がなかった。

「ほんとかよ」

 父の興奮が秒を追うごとに母に迫いついてきた。離れているが僕には父の興奮だって母と同じように身近に感じられた。僕たちが肉体ではないところで繋がっていることはその結合体である僕自身が一番理解している。面白いもので、母と父の肉体が交わってできた僕が、彼らと個々同体意識で繋がっていて、僕を産む母と注いだ父は互いを愛情以外で繋ぐものはない。つまり、僕がここでは全知なのだ。

「99%だって」

 それが例え真偽定かならざる仮想空間の怪しい情報であっても、母と父には正確な数値に違いない。待ちわびた我が子の誕生を判定するものに、何をか云わんや、二人に疑いを挟む余地があろうか。

 この記念すべき日から、僕たち三人の暮らしが始まったと云ってよい。

 母はその日のうちに府内の評判良さげな産婦人科を調べ尽くし、その中から自分ひとりで足を運べる圏内のところに電話をかけまくった。最も早く予約がとれたのが、バスで十五分、電車で二駅の竹内産婦人科医院で、翌週火曜日の午前の診療だった。

 仕事場に着いてから、まっさきに火曜日の休暇を申し入れた。実家の法要だと偽って。まだ彼女に妊娠の可能性を家族以外の者に告知する逸(はや)りはなかった。

 そして、その当日の火曜日。母は思い出せる限りでは人生最も緊張した大学入試の緊張感に近いものを味わった。胃の中の物が逆流しそうだった。実はもうつわりが始まっていたのだが、母は緊張だと信じ込んでいた。ここで振り落とされたらもう妊娠浪人できない、そんな切羽詰まった心境だった。また一方で、不妊治療でなく懐妊で来られた栄えある資格みたいなものも長い妊活(にんかつ)を思えば嬉しくも感じられた。

 彼女には診察を受ける前に、僕の存在を確信しているなにかがあった。勿論、妊娠検査薬の結果が陽性だったことが彼女を強く支えていたのだが、その実、自宅でのあんな簡単な予備検査で待ちわびた我が子が自分の中で宿っていることを確信にしてしまうと、神がお怒りになって自分たちの子供を取り上げてしまうのではないか、そんな臆病な畏(おそ)れが彼女の喜びを諭(さと)すように諫(いさ)めるのだった。

 僕は母を哀れに思った。また愛おしくも思った。欲するものを手に入れるため自分の慢心を解く健気(けなげ)さに尊敬の念をいだいた。僕は母の篤実をどうあっても受け継ごうと思った。自分だけではどうにもならないが、必ずや生まれてきてやろうと誓った。

 母は、待合室で順番を待っている間、湿った熱い深呼吸を間断なく繰り返し、僕にこう呼び掛けた。

「逢いたいね」

 僕は母に「逢えるよ」と囁いた。その声は届いていないが、僕と母の繋がりはその声を見えない形の違うものにして母の優しい襞(ひだ)に届けている。

 母にも、また僕にも白衣の天使にしか見えなかったお医者さまが、「おめでとうございます」と云った時、母はそれまで抑えていた感情を抑えきれず、頭を何度も下げて大粒の涙で膝を濡らした。受精後四十日の僕も腰を丸めて母と感謝の意を揃えた。母の心臓の高鳴りが僕の心の成長を心地よく早めているような気がした。

 母は尋ねた。

「先生、もうどちらか決まっているんでしょうか?」

 医師はにこやかに云った。

「決まっていますよ」

 母は迷いながらも衝動を抑えられなかった。

「教えてもらえたりは、するんでしょうか?」

「教えられないんですよ」

 どうしてですか、と問う母の不安な瞳を制して医師は続けた。

「赤ちゃんは元気です」そう前置きしてから、

「でもまだこれくらいです」

 医師が示した指の隙間は、どうにか向こう側が見えるほどの狭い隘路(あいろ)だった。そこに入る自分の赤ちゃんが母にはとても弱々しく感じられて不安な瞳を一層不安色濃くした。

「大丈夫ですよ、6週目だとどんな赤ちゃんもこれくらいです。性別が分かるのは、早くても16週目くらい。その時の赤ちゃんがこれくらい」

 医師の広げた指の隙間は、さっきより広がったが、それでも医師の白衣の胸ポケットに入るくらいの大きさだった。そこに入る自分の赤ちゃんが、母にはまだ壊れそうな気がして不安は瞳に残ったままだった。

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