第36話 君の知らない物語(2)

「……王子殿下、記憶が混乱する恐れもありますから、お気持ちは分かりますが、暫くは……」

「そっか……そう、だよね……」

「……」

 医者に、彼女に会っても大丈夫なのか確認を取ったら、止められてしまった。自分の部屋に入り、一人でただ泣き続けた。




「……坊っちゃん、入ってもよろしいですか」

「……ごめん、一人にして」

「……かしこまりました。お夕飯はお部屋の前に置いておきますので、食べてくださいね」

「……」

 その時は、理不尽すらも、理不尽と思えないほど、心が弱った。全部、俺が悪いんだと声が聞こえて、彼女の母親が泣き叫ぶ声が、彼女の血の色が頭から離れなくて、眠ることもままならない。夜になると毎晩泣いた。昼の公務は、ずっとぼんやりとして、ただでさえ多いミスが何倍にも増えた。父に叱られても、何も感じられなかった。絶望を知った。もう、会えない、会うことができない。俺のせいだ、全部。心が黒く染まっていく。もういっそ、彼女にまた危害を加えそうな人たちは全員……いや、彼女を攫ってしまおうか、そうすれば、また……だが、そんな勇気はなかった。そうやって魔が差した最低な自分にも嫌気が差した。

……忘れることができなかったら、彼女は今もきっと、苦しんだだろう。痛々しい惨劇を目に焼き付けられて、一生忘れられずに、父親の死に心を痛めただろう。そして、その時は……俺を……王国の王子を、どう思っただろうか。また涙がボロボロと出る。胸が締められて苦しい。それなら、忘れてくれて、良かった、何度もそう思おうとした。その度に、彼女の笑顔が脳裏をよぎる。涙が止まらなくて、また苦しくなる。息ができないくらいに悲しくて、どうしようもなくなる。

……ああ、もう、こんなに辛い思いをするなら、この身を彼女に捧げたい。いや、彼女のことだし、捧げられても困ってしまうだろうけど。また、あの時みたいに、抱きしめてくれたら。あの時、確かに、彼女に触れていた腕を、きつく自分を抱きしめるようにして、体に巻きつけた。

「……ごめん、ごめんね」

 ああ、最後に、彼女に抱きしめてもらえたらいいのに。いつか人生が尽きる時、彼女の温もりを感じていられたら。そんな風に想像していると、なぜか気持ちが楽になった。……そのいつかには、彼女に会えるだろうか。

「……」

もう一度、見るだけでもと思ったが、彼女を見ることを恐れている自分がいて、街に降りて一目見に行くことさえ、できずにいた。


 暫く経った頃、父に呼び出された。もう、最後に呼び出されてから、何年ぶりだろうかとぼんやり思った。

「お父上、お呼び出しになるなんて、珍しいですね」

「……」

「……用がないなら、部屋に戻っても」

「……忘れろ、あの娘のことは」

黙っていた父は、振り返ると、王らしい荘厳な口ぶりで言った。

「え、…?」

「……変なことを考えてないだろうな」

「……」

「お前は何も悪くない、そうだろう」

「……そんなことを、言う為に呼んだんですか」

「……」

「……俺は……あの子が傷つく機会を作ったのは俺だと思っています」

「だが……」

父は、その目を細めた。

「忘れるなんて、俺には無理です」

「忘れられたのにか」

その瞬間、胸に刺されるような痛みを感じた。ガラスが割れるような音がした。

「……」

「……そうやって、簡単に忘れられたから、俺を産んだんでしょうね」

「! おい、お前」

「失礼します、お父上」

そう言い捨てて、部屋を飛び出した。後から、酷いことを言ったと自分で思った。父なりに、俺を心配していたのは分かっていたのに。情けなくて、また涙が出た。




「……」

「坊っちゃん、陛下から……」

「……いい、断っておいて」

「ですが……」

「……」

「……分かりました」

カーテンも閉め切った暗い部屋で、じいが扉を閉じて、微かな光さえ無くなった。

「……はぁ」

真っ暗な天井を眺めて、ぼんやりと気持ちを泳がせながら、ベッド横の窓から町の方の明かりを見た。彼女はその時、すでに母親と、違う家で生活をしていた。前のようにとはいえ、生活は大きく変化しているだろう。父親が働いていた分はお金を送ると言ったが、それも断られてしまった。

「……」

今頃、幸せに過ごせているだろうか。危ないことに巻き込まれていないだろうか。……彼女は、町で素敵な人に出会うのだろうか。

「……あれ、また泣いてる、おれ」

酷く寂しい気持ちのまま、ベッドに寝そべると、枕が溢れた涙で濡れて、そのまま目を閉じた。




「お前、ちゃんと寝られてんのか」

「寝られてるよ、ちょっとは」

「ちょっとはって……お前鏡見たか? くま、酷いぞ」

「わかってるよ……」

 彼女をきっかけに知り合った親友も、俺を心配して何度も訪ねてきた。

「また来る、ちゃんとその時もドア開けろよ」

「来なくていいのに」

「……お前が心配なんだよ、あの子がいなくなってから、もうだいぶ経つだろうが。お前、あれからちゃんとメシ食えてんのか?」

「……」

「眠れないのか」

「うん……」

「それは、辛いな……」

「……」

「……」

「……何度も、夢で彼女に会うんだ」

毎朝起きては、彼女がいないことに絶望する。もううんざりするほど、幸せな夢から何度も覚めた。

「……そうかよ。死ぬなよ、また来るから」

「……」

どうしても、声も、顔も、うまく思い出せなくなっていく。あの頃が夢だったように、ぼんやりとして、思い出せない。そのことにまた絶望した。その時、ふと、俺は思った。

「……会いに行こうかな」



 会いに行ったら、何かが変わるかもしれない。会うと言っても、少し見に行くだけ。一目、顔を見られさえすれば。俺は彼女がいる、坂のある街まで行った。ほんの少し覗いて、彼女の顔を見た瞬間、改めて恋をするみたいに、心臓がぎゅっと苦しくなった。

「……可愛い」

笑顔でお店に入っていく彼女が、とても愛らしかった。好きだと思った。俺は、やっぱりあの子を忘れられていなかった、覚えていたと思った。

 視線に気づいたのか、一瞬、彼女が振り返った。慌てて隠れると、彼女は首を傾げて、また歩き出した。


 


 翌日、久しぶりにじいを部屋に入れた。

「じい、」

「坊っちゃん、どうなされましたか? なんだか今日は、少し元気ですね、ふふ」

じいが嬉しそうに笑う。じいが紅茶をカップに注ぐ音がして、久しぶりに部屋に、紅茶の香りがふわりと広がった。

「あの子、がさ、」

「……」

じいは黙り込んで、俺の次の言葉を辛抱強く待った。

「……久しぶりに見たら、凄く可愛くて」

「……お嬢様は可愛らしい方ですよね、ふふ」

「そうなんだよ、本当に可愛くて、俺……」

その日、俺はじいに、昔のことを話した。あの時、可愛かっただとか、こういうことがあったんだとか。その時、やっと久しぶりに笑えている気がした。

「……それは、本当にキュンキュンしますね、坊っちゃん」

「だよね、俺もそう思う!」

「はい、ふふ」

「……元気にしてるかな」

「……してるといいですねぇ」

「うん……」

約1年半経って、この日やっと、俺は少し立ち直れた。


 だからといって、彼女のことを忘れられた訳ではなかった。彼女をもう一度迎えに行こうと決めたのは、多分、17の時ぐらいだ。どうすればいいか必死に考え続けて、ある夜、ふと思いついた。忘れられてしまったとしても、もう一度、好きになってもらえばいい。そういえば、彼女を攫って、閉じ込めてしまえたらと考えた事があった。彼女の母親のことや、父に反対されることを考えて諦めてしまったけれど、お城に来てもらうことができれば、彼女がまた、危険な目に遭うこともなくなる……! 俺はかなり衝動的に、父に会いに行った。


「……あの子を城に呼ぶ?」

「はい、そうすれば、彼女を守れるし……俺のことを好きになってもらえなかったとしても、彼女を守れれば、それだけで俺は……」

「……もう、あれは何年前も前のことだろう」

「……ですが、」

「自分のことを忘れた相手と過ごすのは、辛くないのか」

父が俺をまっすぐ見た。その時、父に初めて優しく気遣われたような気がした。

「……俺は彼女の笑顔が見られさえすれば、それでいいんです。たとえ、忘れられてしまっても、どんな彼女になっていたとしても」

「……」

「好きなんです、彼女を愛しているから」

「……」

「……そうか」

「……許しを得られますか」

「……」

父は一つ息を吐くと、暫く黙ってから、いいだろう、と小さく言った。

「……いいんですか!?」

「……」

「……ありがとう、父さん!」

「……お前が、」

「はい、?」

「そんな風に笑ったのを見たのは久しぶりだ」

「……はい」

「……俺の息子なら、そんな弱気でいるなよ、ちゃんと掴むんだ」

「はい!」

王の部屋を出る。俺は、覚悟を決めた。




「お母様、彼女がここに来るのを許してもらえませんか」

「……」

「……俺が彼女に、招待状を渡しに行きます。もし、彼女が嫌がっていたり、気乗りしない様子なら……招待状は破いていただいても構いません」

「……」

「……お願いします」

泣き崩れたお母様に、深々と頼み込む。手が震えながら、縋るように頼むと、わかったわ、と小さく言った。

「……ありがとう」

「え…?」

「娘を、好きでいてくれて」

「……」

お母様は、その瞬間、涙が溢れて止まらなくなった俺の背中を、優しく撫でた。


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