寡黙でクールなあの子(美少女)のことが、めちゃくちゃ気になる件

チドリ正明

K

 俺の名前は日向朝陽ひなたあさひ

 黒髪に黒目、普通体型に普通の身長。

 まあ、どこにでもいる普通の高校生だが、性格の明るさだけは自信があった。

 誰が相手でも、そこそこ簡単に打ち解けられるし、クラスのムードメーカー的ポジションもいただいている。


 でも、この世の真理として、どんなに光が輝こうが、影を作らずにはいられない。

 俺のクラスの影——いや、むしろ氷点下を作り出してるのが椎名立華しいなりっかだった。



「学級委員長、頼んだよ!」


 これが担任からの、ありがたぁ~い御言葉である。まだ高校二年生になって少し経ったばかりだってのに、いきなりクラスの学級委員長に任命されてしまった。

 俺の心の中で反射的に「遠慮します!」と叫んだが、声に出す間もなく拍手が起こってしまった。

 

 こうして俺は学級委員という名の雑用係に就任したわけだが、問題はその後だ。


「副委員長は、椎名さんね! 」


 その名前が呼ばれた瞬間、教室の温度が5度くらい下がった気がした。

 いや、本当に空調壊れてない? って思うくらいの冷たさ。

 俺は、ゆっくりと彼女の方を見た。



 彼女の名前は椎名立華。

 クラスの一角で、何か小難しそうな文庫本を読んでいる女子だ。

 生まれつきなのか知らないが、少し青みがかった黒髪は結構綺麗だと思う。見た目だけなら、まるで絵画から抜け出してきたような感じだ。


 でも、表情は……石像かってくらい動かない。

 名前を呼ばれても、微動だにしない。

 いや、普通「はい」とか言うよな? これ、俺が間違ってる?


「それじゃあ、日向くんと椎名さん、お願いね?」


 担任はそれだけ言い残して朝のホームルームを終わらせた。

 同時に、椎名さんがチラリとこっちを見てきた。

 彼女の視線は、俺に向けたというより、虫を見るようなものだった。

 そう、教室に紛れ込んだ不運なハエに向けるような。


 まあ、うん。わかってたよ。椎名さんってクールで寡黙な美少女って感じだし、クラスでちょっとはっちゃけてるような俺とは合わないよね。

 でも、俺も役割を押し付けられた被害者なわけだし、できればギスギスしたくはない。


 とりあえず、俺の方から話しかけてみようかな。

 冷たくあしらわれるのは目に見えてるけどね?




 ◇◆◇◆




 学級委員の仕事は、めちゃくちゃ退屈だった。

 授業の号令をかけたり、職員室まで書類を取りに行ったり、黒板消しをクリーナーにかけたりと、どうでもいいことばかりだった。


 全体的に”めんどくさい”がセットでついてくる。


 こんなんなら体育委員や生活委員の方が何倍もマシだ。毎日のように仕事があるわけじゃないし、なんなら暇なまである。


 ただ、俺は部活に入ってないし他に用事もないので断る理由がなさすぎた。スケジュールがスカスカな自分を呪うことしかできない。


 クソ、失敗した。


「はぁぁぁ……」


 閑散とした教室で、俺は大きなため息を吐いた。

 

 実は今日は初めて椎名さんと共同作業をしていた。

 ここ何日かはそれぞれが担任の指示通りにテキトーに仕事をこなしていたが、今日に限ってはそうもいかなかった。


 どうやら二ヶ月後に控える文化祭に備えて、保護者へパンフレットを何枚か配布しなければならないらしく、俺たちはそれらの整理をしていた。

 まあ、普通に雑用だ。


 今も椎名さんと二人で作業中だが……予想通り、気まずい。とてつもなく気まずい。

 シーーーーーーーンと静まりかえる教室にいると、どこからともなく耳鳴りが聞こえてくるくらいだ。


 時刻は午後四時。授業が終わり、放課後タイム。

 かれこれ十分くらいは二人きりだが、そろそろ我慢の限界だ。


「椎名さん、無理やり学級委員にされた感じだけど、放課後の予定は大丈夫そう?」


「……」


「聞いてる?」


「聞いてます」


 短い。返事が短すぎる。


 まあ、こうなることはわかっていた。

 たとえ俺が何を話しかけても、彼女の反応は「はい」「いいえ」「わかりました」の三択で完結する。

 これだけ話が続かない相手って、むしろ新鮮だよね。

 普通、もうちょっと雑談とかあるだろ?


 でも俺は、この程度で折れるようなやわな性格じゃない。というか、むしろ燃えてきた。


 なんかこんなふうにあしらわれた経験なんてなかった。どうせ二人で学級委員になったんなら、こんな気まずさを感じたくない。


「今日はこのあと予定とかあるの?」


「……」


 無視された。普通に。

 別にナンパしたわけじゃないんだけど、すっごい目を細めて睨み付けられてる。怖い。


「えーっと……特にない感じ?」


「ありません」


 やはり椎名さんの口調は淡々としている。

 視線は完全に俺を素通りして壁掛け時計を見ているし、クールで寡黙な雰囲気は全く瓦解していない。


 ここまで全力で興味がない感じを見せつけられると、逆に”どうやってその鉄面皮をぶち破ってやろうか”というゲームに突入したくなるのが俺の性だ。


 この子の心に火をつけるのは俺だ。名付けて『椎名立華 改造計画』、ここに始動ッ——


「椎名さん」

「……なんですか」

「身長は何センチ?」

「聞いてどうするんですか」

「なんとなくだよ。ちなみに俺は173センチ」

「そうですか」


 またも沈黙が訪れた。いやいやいやいや、今の流れは普通に身長を教えてくれる流れじゃないのかよ。

 なんでナチュラルに無視されたんだ? 俺の耳がおかしいのか?


「身長は何センチ?」

「……一度無視したのに、どうしてこうもしつこく聞いてくるのですか」

「なんとなくだよ。ちなみに俺は173センチ」

「そうですか」


 何度目だろうか、また訪れる沈黙。

 だが、俺は挫けない。むしろこの状況を逆手に取り、無限ループにハメてやる。万華鏡写輪眼的なアレだ。


「身長は何センチ?」

「……はぁぁぁ……160センチです」


 椎名さんは俺の術中にハマることを恐れたのか、呆れながらも教えてくれた。

 ありがとう。コミュニケーションの第一歩はこれにて前進した。

 だが、嘘はよくない。俺の見立てだと椎名さんはそんなに大きくない。


「ほんとに?」


「はい? 疑っているのですか?」

 

 椎名さんは睨みつけてきた。不服そうにほっぺを膨らませてる。それだけなら可愛くみえるが、多分本人はちゃんと怒っているっぽい。


「うん。失礼かもだけど、150センチくらいかなぁって勝手に思ってたから、そんなに大きいなんて意外だね」

「女子の身長を把握してるだなんて、まさか変態ですか?」

「なんで?」

「……本当は、147センチです」


 変態の烙印を押されたのは不服だが、足掻くことなく白状してくれた。

 恥ずかしそうに唇を尖らせているし、背が低いことを気にしているらしい。ちょっと悪いことをしたな。


「教えてくれてありがとう。それと、変なこと聞いてごめん。少し椎名さんとコミュニケーションをとりたくて……」


「そうですか。では、私は帰ります」


 謝る俺を残して、椎名さんはそそくさと帰り支度を始めた。いつの間にやらまとめていた書類の山を残して席を立った。


 やっぱり背は低めだ。制服もかっちり着てるから、真面目な性格だとわかる。

 

 というか、椎名さんは俺と話をしている最中にも、書類整理を全て終えていたらしい。

 俺なんて何も手つけてなかったのに。


「あ、うん。また明日。気をつけてね」


「……」


 教室を出る間際、返事はしてくれなかったが。代わりにギロっと一瞥された。

 M気質のあるやつなら喜ぶタイプの睨みだったと思う。


 それにしても、難敵だなぁ。

 俺は自分の明るさとコミュニケーション能力には自負があったが、こうも会話が弾まないとは思いもしなかった。

 

 恐るべし、椎名立華。だが、そのぶん戦い甲斐がある。今日は一度もその鉄面皮を崩せなかったが、今日のところは俺が引いてやる。


 また今度、覚悟しておけ!




 ◇◆◇◆




 パンフレット整理をしたあの日から数日が経っていた。

 当然だが、俺と椎名さんの関係に変化はなかった。


 何度もアクションはしてみたんだけどなぁ……

 たまに視線を送ってみたり、お互いに一人の時は少し挨拶をしてみたりしたが、そのどれもが空振りに終わっていた。

 

 とまあ、相変わらず椎名さんとの会話は弾まなかったが、学級委員としての仕事はまだまだ続く。

 特に次なる試練は中々にハードルが高かった。


「何度も頼み込んでごめんなさいねぇ。先生忙しくて中々時間作れないから、日向くんと椎名さんで備品の買い出しとか行けないかな?」


 担任からの突然のお願いだった。

 クラスメイトの前で言われたということもあり、俺に断るという選択肢はなかった。


 どうやら、教室で必要な雑貨やら掲示用の画用紙、画鋲やらを揃えるため、学校近くの100円ショップへ行ってほしいらしい。

 しかも、ペアは俺と椎名さんだ。仕方ないことなんだけど、なんでこうも俺ばっかり巻き込まれるんだろうな?


 普通の学校ならこんなことを学級委員に任せるはずがない。

 しかし、我が高校は、自主性を重んじるとかなんとかデカい理念を掲げていることもあり、些細で軽微なことでも生徒に任せる慣習があるらしい。

 正直、備品くらい学校側で用意しろよ。最初から職員室に蓄えとけよ……と、言いたくなかったが、俺にそんな勇気などあるわけもなく快く引き受けてしまった。

 まじで情けない。俺。




 というわけで、放課後になった。

 時刻は午後四時。まだ空は青く晴れ渡っている。

 俺は教室を出て、待ち合わせ場所となる校門付近へ向かっていた。

 

 会話もせずにどうやって待ち合わせたのかって?

 そんなの簡単だ。何度も何度も視線を送って、アイコンタクトを重ねて、周りにバレないようにジェスチャーを織り交ぜて、なんとか今日の午後四時待ち合わせで話を擦り合わせることができた。


 マジで苦労した。

 椎名さんは教室で俺に話しかけられたくなさそうだったから、こんな方法しか思いつかなかったんだ。


「えーっと……あ、いたいた」


 校門の少し横、目立たない木陰の下に、椎名さんは立っていた。

 一目でわかるくらいには姿勢が良い。

 そして、制服の着こなしからはお淑やかさが滲み出ている。


「椎名さん」


「遅刻ですね」


 開口一番、椎名さんは苦言を呈してきた。


「いや、時間ぴったりなんだけど?」


 スマホで時刻を確認すると、午後四時ちょうどだ。


「気持ちの問題です」


「……気持ちかい」


 全く意味がわからないが、よっぽど早くきていたのかもしれない。

 相変わらずだな、椎名さん。やっぱり真面目な性格だ。頭もいいらしいし。


「じゃあ、行こうか」


「はい」


 俺は椎名さんと並んで、100円ショップを目指して歩いた。

 もちろん、会話はない。

 最初は話しかける気満々だったが、他の生徒も多かったから遠慮した。

 俺は全然構わないけど、椎名さんは目立つのとか嫌いだろうしね。


 ってことで、歩いて五分くらいで、学校のすぐ近くにある100円ショップに到着した。

 俺たちはリストを見ながら商品を探し始めた。

 カゴを持つ俺の横で、椎名さんはすごい速さで必要なものをピックアップしていく。


「これとこれ。あと、これも必要です」


 椎名さんは黙々と商品をカゴの中に入れていった。

 厳格な性格だからか、リストを何度も何度も確認している。

 このまま黙々と進むと、あっという間に買い物が終わってしまう。良いことなのだが、やはり俺としてはこの機会を逃すのは惜しい。

 そして、ここで何もせず終わるのは寂しい気がする。


「椎名さんってさ、こういう店にはよく来るの?」

「……来ません」

「じゃあ、今日が初めて?」

「はい」


 会話終了。わかったのは、初めて来る店なのに異様に手際が良いということだけ。


 うーん、手応えがない。

 全然話が広がらない。ただ、ここで諦めたら試合終了だ。


「100円ショップってさ、たまに『これも100円なの!?』ってびっくりするような商品あるし、見てるだけでも結構楽しいんだぜ」

「そうなんですね」

「何か気になる商品とかある?」

「……興味ありません」


 ほんとに興味がないのか、それともただ俺の質問が雑すぎたのか。

 いや、たぶん両方だな。

 何を聞いても感触がない。のらりくらりと交わされるだけで全く盛り上がらない。

 もう、今日はダメそうだ。最初から少し気分を損ねてたみたいだしな。


 そんなこんなで買い物が進み、最後に掲示用のマスキングテープを選ぶことになった。

 画鋲で穴を開けられない壁に書類を貼るために使われる。

 きっと椎名さんは無地の無難なやつをチョイスするだろうし、ここは最後の足掻きとして俺から別のやつを勧めてみる。


「ねぇねぇ、これとか可愛いんじゃない?」


 俺はピンク色で星柄のマスキングテープを手を取り、椎名さんに見せた。THE 女の子って感じのやつだ。椎名さん好みではない可能性が高い。

 しかし、意外なことに、椎名さんはじっとそれを見つめて——


「……悪くありません」


 ついに肯定的な反応が漏れた。

 しかも「悪くありません」なんて、ちょっとポジティブな方じゃないか?

 こりゃあここで攻めるしかないな!


「お、じゃあこれにする?」

「ですが、地味な方が用途が広いです」


 ……なんだその即時撤回。切り替えが早すぎて温度差がすごいよ。風邪引くよ。

 素直に可愛いって言えばいいのに。


「地味な柄ばっかりじゃつまんないだろ? クラスのみんなが目にすると思うし、せっかくだから、ちょっと冒険してみてもいいんじゃない?」

「では、好きにしてください」


 はい、きた。「好きにしてください」だ。

 これは彼女なりの“妥協”なのか? よくわからないが、この柄を嫌っているわけではなさそうだ。

 つまり、今回は提案した俺の勝ちってことでいいんだよな?


「よし。じゃあマスキングテープはこれで決定。椎名さん、ピンク色好きなの?」


「……嫌いではないです」


「ふーん」


 椎名さんの返答はまだまだ未知数だが、多分悪い反応ではないような気がする。

 むしろ、これまでに比べると何倍も良い感触だ。

 今日は半ば諦めかけていたが、なんとか一歩前進だ。


「よし」


 俺は椎名さんに見えないように小さくガッツポーズをすると、そそくさとお会計を済ませて店を出た。

 

 店を出る頃には、空は赤く染まり始めていた。

 もう夕方だ。

 俺は重い袋を持ちながら、空を眺めていたが、ふと隣を見ると、椎名さんがじっと何かを考え込んでいるようだった。


「どうしたの?」

「……」

「椎名さん?」

「……何でもありません」


 いや、絶対に何かあるやつだ。


 俺は彼女のペースを崩さないよう、ほんの少しだけ距離を詰めてみる。

 これまでは間に二メートルくらいの距離があったが、今は一メートルくらいになっている。


「っ……」


 椎名さんは何か言いたそうに口を開きかけたが、結局は何も言わなかった。


 こういう時の沈黙って、意外と嫌いじゃない。

 むしろ、今はこの沈黙をどうやって崩してやろうかって考えるのが楽しい。


「今日の買い物、楽しかった?」

「……」

「また一緒に行くことになったら、その時もよろしくね」

「その時が来ないことを祈ります」


 言葉は冷たいけど、その声のトーンはほんの少しだけ柔らかくなった気がした。


 これは、少しずつ距離が縮まってるってことでいいのか?


 俺の“椎名改造計画”は、まだまだ続きそうだ。




 ◇◆◇◆





 買い物ミッションが終わり、二週間が経過していた。

 徐々に椎名さんとの距離感にも手応えを感じ始めていた俺だが、彼女のクールな壁は依然として健在だった。


 それでも、俺は気づいてしまった。

 ふとした瞬間に見せる彼女の表情の変化や、わずかな仕草——そこには、彼女が隠そうとしている何かがある。


 その何かを打ち破るためにも、今日の放課後に行われる久しぶりの共同作業は絶好のチャンスだ!




 放課後。


 二人きりの共同作業が始まった。

 言葉だけ聞くとスケベなニオイがぷんぷんするが、実際は、文化祭に関する書類を掲示板や壁に貼り付けていく簡単な作業だ。

 担任からは買ってきた画鋲やマスキングテープを使い、教室の中や教室の目の前なんかにペタっと貼り付けるようにと指示があった。


 至ってシンプルな作業だと思うだろう?


 しかし、それは万全なコミュニケーションが取れている場合に限られる。


 実を言うと、買い物をしたあの日以来、俺は椎名さんとまともに会話をしていない。

 連絡先を交換しているわけでもなかったし、教室で頻繁に話すわけでもないから当然だ。

 ましてや、椎名さんは一匹狼タイプなので、誰かと群れることもない。

 別にそれはいじめられてるとかそういうわけではなく、みんなから一目置かれるような存在だった。


 まあ、椎名さんは頭が良くて運動神経も抜群らしいし、容姿は見ての通り優れているから当たり前だ。

 性格だけ明るくてバカな俺とはえらい違いだな。


 今も、椎名さんは真剣な顔つきで、掲示板やら壁やら、教室の中をじっくり見て回っている。

 どこに何をどのくらい、どんなふうに貼り付けていくのか、悩みに悩んでいるっぽい。

 サボりや妥協はしたくないタイプだとすぐにわかる。


「……むぅ……」


 椎名さんは顎に手を当てて首を傾げていた。

 こだわりの配置があるのかもしれない。


「椎名さん、どんな感じにするのか決まった?」


「シンプルで十分です。余計な装飾は不要です」


 試しに聞いてみたが、答えは端的だった。

 やっぱりか。まあ、予想はしてたけど、もう少しこう……盛り上がる意見とかないものかね。


「シンプルかぁ。ホワイトボードもあるし、そこに絵を描いたり、カウントダウンの数字をつけてみたりしたら面白そうじゃない?」


 文化祭は誰もが楽しみにしている一大イベントだ。

 だからこそ、カラフルかつ大胆に一目でわかる盛り上がりがあってもいいと思う。


 しかし、椎名さんの感触はあまりよろしくない。


「それは、必要以上に目を引くだけです」


 ピシャリと切られる俺の意見。でも、こういう反応すら久しぶりすぎてちょっと楽しい気がする。

 特に椎名さんの言った言葉と、その内心のギャップを発見するのが好きだ。


「それじゃ、どんなデザインが椎名さんの理想?」

「……特にありません」


 うーん、難攻不落だ。

 でも、何か話題を振らないとこのまま無言で終わってしまう。ギャップを見つけることもできず、めちゃくちゃシンプルで味気ない装飾になりそうだ。

 どうにかして、少しでも心を開いてもらいたい——そんな思いが頭を巡っていた。


 よし、わかった。いっそのことガツガツ攻めてこっちから思い切って提案してみるか。どう転ぶかなんてわかんないけど。


「じゃあさ、紙は前選んだマスキングテープを使って貼ろうよ。シンプルに貼ってもテープの色が目立つから印象に残るしね。で、ホワイトボードとか黒板の端とかには簡単な絵を描いてみない? それか、みんなが自由に描けるスペースを作ってみたりしても面白いかも!」


「ですね」


「いいの?」


「……はい。悪くないと思います」


 あら不思議。予想よりも簡単に話が進みそうだこと。

 嬉しい。椎名さんの反応を見る限り、嫌々ながら妥協した感じでもなさそうだし、意外にも俺の提案を気に入ってくれたっぽいな。


 だが、そんな時、不意に椎名さんの視線が窓の外に向いた。


「椎名さん?」

「……」


 珍しく、集中力が切れている様子の椎名さん。

 その目には、何か遠くを見つめるような、ほんの少し寂しげな光が宿っている気がした。


「……何かあった?」


 俺がそう尋ねると、彼女はすぐに目を逸らし、いつもの無表情に戻った。


「何でもありません。ただの気のせいです」


 いやいや、どう見ても気のせいじゃない。けど、今それを無理に追及するのは違う気がした。


 こうして俺は椎名さんと二人で作業を進めていった。

 途中、椎名さんが目一杯背伸びをして、掲示板とホワイトボードの上に紙を貼り付けようとしていた。

 もちろん、147センチの椎名さんでは、高い位置に手は届かない。ぴんと背伸びをしてもそれは変わらなかった。


「……っん!」


「高い場所は俺がやるよ」


 俺はすぐさま助けに入った。椎名さんの隣に立って声をかけた。


「自分でできます」


「いいよ、俺に任せて?」


 俺は強がる椎名さんの手から紙を受け取り、彼女が希望する位置に紙を貼り付けた。


「こんな感じでいい?」


「……はい。問題ないです」


 不貞腐れているのか、何か思うところがあるのか、椎名さんは視線を逸らして別の作業に移った。

 照れている……なんてことはないよな? もしかして怒ってる? 悪いことをしたか? 身長を気にする人に対して、そんなズケズケと助けに入るのは不味かったのかもしれない。


 後で謝っておくか。


 それから一時間程度が経つと、一通りの作業を終えることができた。


「終わったぁーーーー! 椎名さん、お疲れ様」


「……」


 達成感に浸り快活な俺とは違い、椎名さんは息を吐く間も無く帰り支度を始めていた。


 早々に帰りたいらしい。少し口元に力が入っているように見えるし、やっぱり俺の態度が気に入らないのかもしれない。


「椎名さん、ごめんね」


「……」


「初日の時もそうだけど、デリカシーのないことをしすぎてたよ。今回は困ってたから助けようと思っただけなんだけど、ああいうのって人によっては嫌だもんね。今度から気をつけるよ」


「……意味がわかりません」


 俺は意を決して頭を下げたのだが、肝心の当の本人は何もわかっていない様子だった。

 俺のことを変人でも見るかのように睨んできている。


「あー、えーっと……俺は椎名さんに悪いことをしたって思ったから謝ったんだけど……何か間違った?」


「もういいです。それより……日向くんは、なぜそんなに私に話しかけてくるんですか」


 一転して、思わぬ問いかけがぶっ飛んできた。

 一瞬言葉を詰まらせる俺。なんで返すのが正解なんだ……?


「え、いや、ん? 俺が椎名さんに話しかける理由? あー、そうだなぁ……話した方が楽しいから、かな?」

「楽しい……?」


 椎名さんは少しだけ首を傾げて、考え込むような仕草を見せた。

 それは、まるで“楽しい”という感情そのものに慣れていないような、そんな不思議な雰囲気だった。

 犬に”お手”や”待て”を教えているあの時の感覚に近いと思う。


「椎名さんって、あんまり人と話したりしないタイプだよね。でもさ、誰かと話すと案外面白いことが起きたりするんだよ」

「……面白いこと、ですか」


 俺の言葉を反芻するように呟く彼女。少しだけ視線を落として、それから——ほんの一瞬だけ、口元が緩んだ気がした。


 ん? あれ? おや? 今、笑った? もしかして、椎名さん笑いましたか?


 いや、待て待て早まるな!

 気のせいかもしれない。でも、確かに表情に僅かな変化があった気がした。


「なにか?」


 ジロジロ見ていたのがバレてしまい、最後は侮蔑の睨みを向けられた。

 まあいい。大きい収穫があったから気にしない。


「なんでもないよ」


「そうですか」


「うん。片付けは俺がやっておくから、椎名さんは先に帰ってもいいよ」


「では、お言葉に甘えてお先に失礼します」


 椎名さんは遠慮することなく、それだけ言って帰っていった。

 助かった。コミュニケーションの鬼とも謳われたこの俺が、まさか取り乱してしまうなんてな。


 それにしても、どうして椎名さんはいきなりあんなことを聞いてきたんだ?

 まさか俺から話しかけられるのが本当に嫌だったとか?

 でも、椎名さんの性格ならストレートに伝えてくるはずだし……なんなんだろう。


「まあいっか。嫌われてはなさそうだし」


 開き直り片付けを済ませると、俺はそそくさと学校を後にした。


 そして、その帰り道、俺は心の中で決意した。


 もっと椎名さんのことを知りたい。そして、もっと別の表情を引き出してみたい。


 彼女の心の奥底に隠された“何か”を見つけるまで、俺の“椎名改造計画”は止まらない——





 ◇◆◇◆◇





 突然だが、俺は頭が悪い。

 我が高校はこの辺りでは有名な進学校だが、内申点と僅かな学力だけで入った俺にはレベルが高すぎた。


 またも恐ろしい時期がやってくる。


 それは、定期テストだ。

 

 頭の悪い俺はこの時期が一番嫌いだった。

 毎度のように、赤点ギリギリのラインを行き来しているし、ヒヤヒヤしながらテストを受けている。


 俺の心もざわついていたが、教室もざわついていた。

 真剣に問題集とにらめっこするインテリ男子、投げやりに「無理だろこんなの」と騒ぐサッカー部の連中、それぞれの焦りが空気に漂っている。


 俺はというと、完全に後者寄りだ。

 いや、頑張る気はある。頑張る気はあるけど、どうも勉強が頭に入らない。

 分厚い参考書を目の前に、俺の心は真っ白だった。


 特に数学は大の苦手だった。

 公式を覚えられない。暗記が苦手。数字の羅列なんて見たくもない。図形の計算なんて意味不明。そんなレベルだ。


「……誰か、助けてくれ」


 俺は机に突っ伏しながら、絶望的な声を漏らした。


 周りに助けを求めることは簡単だ。しかし、みんなそれぞれ自分の勉強時間を確保しないといけない。

 生半可な気持ちで勉強を教えてほしいと求めるのは難しかった。


 普段からたくさんの人たちと話しをするからこそ、迷惑をかけたくない気持ちが強くなっていた。

 言い方を変えるなら八方美人的な感じだ。真に親しい人が少ないからこそ、こういう時にあまり頼れない。

 何のための明るい性格なんだと自分を責めたくなる。


 しかし、そのとき、ふと視界の隅に、椎名さんの姿が映った。


 椎名さんは、窓際の席で、いつも通り静かに読書をしている。焦りなんて全くないし、愚痴をこぼすこともない。たまに近くの席のクラスメイトに話しかけられてはいるが、特に取り乱すことなく受け答えをしている。

 

 その落ち着いた姿を見た瞬間、俺の頭に電球が点いた。


 思い切って、椎名さんに頼んでみようかな……

 今日の放課後はちょうど二人で仕事があったし。




 その日の放課後、学級委員の仕事が終わったタイミングで、俺は彼女に話しかけた。


「椎名さん、ちょっとお願いがあるんだけど……」


「……なんですか?」


 彼女の声は淡々としている。いつもと同じだ。

 怖くはない。ただ、お願いをするのは初めてだから、少しだけ言い出しにくい。

 でも、ここで引き下がったら俺の点数がやばいことになる。

 覚悟を決めろ、俺。


「こんなこと頼むの間違ってると思うんだけど、定期テストの勉強、手伝ってくれないかなって……俺、頭悪いから、椎名さんに勉強教えてもらいたいんだ。お願いできないかな……?」


 俺は頭を下げた。すると、一瞬、椎名さんの手が止まった。


「……私が?」


「そう。友達に聞いたけど、椎名さんって一年生からずっと学年トップなんでしょ? 頼れるのは椎名さんしかいないんだ」


「……」


 少しだけ考え込むように眉をひそめる椎名さん。

 断られるかも、と内心ビクビクしている俺に、彼女は意外な答えをくれた。


「……仕方ありませんね。ですが、あまり期待しないでください」


 予想外の承諾に、俺は目を見開いた。


「ほんと!? ありがとう! めちゃくちゃ助かるよ!」

「近いです。離れてください」


「あ、ごめんごめん」


 思わず距離を詰めてしまった。


「もしも……途中でふざけたり諦めたりしたら、それ以上は教えません。それだけはやめてくださいね」


 きっぱりとした口調。真面目で厳格な椎名さんだからこそ、真剣に向き合ってくれるような気がした。

 それでも、その声の奥にほんの少しだけ柔らかさを感じた気がする。

 うまく言えないけど、最初の頃よりは確実に認められたんだなってことがわかった。




 そして、放課後の教室で二人だけの勉強会が始まった。


「数学だけでいいのですか?」


「うん。他は何とかなるから、数学だけ教えてくれると助かる」


「わかりました」


 椎名さんは、自分のノートを広げて俺に見せてくれた。


「……これ、全部椎名さんが書いたの?」


「当然です。他人のものに頼るなんて、効率が悪いですから」

 

 びっしりと書き込まれた計算式や図形は、まるで芸術作品のようだった。

 俺よりも文字が小さくて、丁寧で、綺麗で、洗練されていて、何よりも読みやすい。まとめ方も教科書よりわかりやすかった。


 そのノートを見ただけで、彼女がどれだけ真面目に勉強しているかが分かった。


「では、この公式はわかりますか?」

「う、うーん……なんとなく、聞いたことはあるけど……」

「聞いたことがある、ではなくて理解するんです。こういう場合は——」


 椎名さんはペンを使って丁寧に解説してくれる。

 バカな俺にもわかりやすいように、噛み砕いた説明をしてくれた。


 そんな横顔がすごく真剣で、つい見入ってしまった。


「……日向くん? ノートを見てください」

「えっ、あ、うん。ごめん! ちょっと気抜けてたかも」


 危ない。完全に見とれてた。

 それにしても、椎名さんが俺の名前を呼んでくれるなんて、少し新鮮だ。「おい」とか「お前」とは呼ばれないにしても、まさか苗字で呼ばれるだなんて思っていなかった。


「集中してください。次に進みますよ」


 淡々とした椎名さんの声に、俺は慌ててノートに向き直る。

 それからは集中力を切らさずに勉強に取り組んだ。


 やがて数時間が過ぎ、夕陽が差し込む窓から、二人の影が伸びる。


「ここまでですね。あとは復習をしっかりしてください」


「うん、本当にありがとう! 助かった!」


 椎名さんは軽く頷くと、自分のノートを閉じた。

 その仕草が妙に丁寧で、なんだか彼女らしい。


「そういえば、椎名さんは勉強してるの? 学校ではずっと読書ばっかりなイメージあるけど」


 帰り支度をしながら聞いてみた。


「家でしてます」


「ふーん。俺なんかに時間作ってもらって悪かった」


 本当は早く帰って自分の勉強もしたいだろうに、申し訳ないことをしてしまった。


「別に、今さらどうこう思うことではありません。日頃から予習、復習は欠かしていませんから。それに——」


 椎名さんは言葉を切って、窓の外に目を向けた。

 その表情に、ほんの少しだけ笑顔がにじんでいるように見えた。


「……勉強を教えるのは、少し楽しかったです」


 小さな呟きに、俺の心は大きく揺れた。

 今まで冷たいと思っていた彼女の中に、こんな一面があるなんて。


 素直に言葉をぶつけてくれる喜びを初めて味わった瞬間だった。


「俺も椎名さんと勉強できて楽しかったよ。また勉強会、お願いしてもいい?」


「……次回は、自力でやれるように頑張ってください」


 小さく微笑む彼女の横顔に、俺は思わずドキッとしてしまった。


 それから、何度か勉強会が開かれた。

 椎名さんの厚意で、数学だけではなく他の教科も教えてもらったのはすごく助かった。




 ◇◆◇◆



 

 ついに、魔の定期テストを翌日に控え、俺は早くも緊張の色を隠せずにいた。


 今日は一人で勉強に励んでいる。

 以前までの俺ならこんなことはしなかったのだが、やはり椎名さんの影響で勉強にも身が入り始めていた。


「……赤点回避はいけそうだな。明日に備えて今日はもうやめとくか」


 放課後の教室にいるのは俺一人だけ。

 参考書とノートを閉じてリュックにしまった。


 あとは帰るだけだが、何やら廊下が騒がしい。


「ん?」


 教室から廊下を覗き込むと、そこではサッカー部がランニングをしていた。あいにくの雨模様だからか、廊下を使ってトレーニングに励んでいるらしい。

 

 部活にも力を入れてる学校だからか、テスト休みという概念が存在しないのが恐ろしい。


「——おう、朝陽!」


 突然声をかけてきたのは、クラスメイトの山田公貴やまだこうきだった。あだ名は”ハム”。公という字をカタカナで読んだらハムになるのが由来だ。


 サッカー部のエースでイケメンだが、偉そうな態度はなく温厚で優しいやつである。


「ハム、大変だなー。テスト前だってのにランニングなんて」


「いつものことだよ。それより、今日は一人か?」


 ハムは教室の中を覗き込んでいた。


「ん? うん。一人だけど、それがどうかしたのか?」


「いやな、椎名さんは一緒じゃないのかなって思っただけだ。学級委員同士、最近は仲良しだろ?」


 揶揄っているのか、ニヤニヤと笑うハム。


「仲良し……っていってくれるのは嬉しいけど、実際はそんなんじゃないよ」


「知ってるよ。俺は中学からずっと椎名さんと一緒だからわかるけど、男子が話しかけても基本は全無視だな。クールだなんだって言われてるが、多分性格が悪いだけだと思うぜ。俺だってあんま話したことないし……」


 ハムは呆れたように笑っていたが、俺からすればハムの椎名さん評は大きく外れているように思えた。

 普段の俺は無難なコミュニケーションを心がけていて、あまり粒立てることはしない。ただ、今回は言わずにいられなかった。

 

「椎名さんはそんな人じゃないよ。人よりも感情表現が苦手なだけで、一緒にいたらたまに笑ってくれるし、俺は性格が悪いなんて思ったことないからね」


「ほーほー、さすがは椎名さんと一番仲が良いと噂の朝陽だな! 何も知らずに性格が悪いって言って悪かったな! 前言撤回だ!」


 ハムは捨て台詞のように吐き捨てると、サッカー部のランニングに戻った。

 

 よくわからないが、椎名さんの悪評を広められることを阻止できた。

 ハムはそんなことをしないとは思うが、誰がどこで話を聞いているかわからないし、俺の口からきっぱり否定しておくことが大切だと思う。


「……俺も帰ろ」


 俺はさっさと荷物をまとめて廊下へ出た。

 すると、下へと通ずる階段のところに、見覚えのある人影があった。


「ん? あれ、椎名さん? どうして学校にいるの?」


 なぜか、階段に椎名さんが座り込んでいた。膝を立てて背中を丸めている。

 俯きがちだから顔は見えないが、何度も見た後ろ姿と髪色、背丈の感じでなんとなくわかった。


「……内緒です」


 椎名さんは側に立つ俺のことを一瞥もせずに答えた。


「まさか一人で勉強してたの?」


「図書室にいました」


「そうなんだ。教室に用事でもあった?」


「はい」


 どうせなら声をかけてくれればよかったのに……そう思いもしたが、既に過ぎたことだし触れることはなかった。


「そっか。じゃあまた明日ね。お互いテスト頑張ろう!」


「……そうですね」


 俺は椎名さんに別れを告げて階段を駆け降りた。最中、最後に見た椎名さんの俯きがちな表情は、どこか物寂しそうに見えた。

 

 いつからそこにいたのかわからないが、もしかしたら俺とハムと会話が聞こえていたのかもしれない。陰口を言っていると捉えられたらちょっと悲しいな。


 とりあえず、定期テストが終わったら話をしてみるか。

 このあとは文化祭が控えているし、もっと話をする機会は増えるはずだし。




 ◇◆◇◆




 定期テストは月から金までの五日間に渡り、各日数教科ずつ実施されたが、それも難なく終わりを迎えた。

 土日を挟んで月曜日……つまり、今日のうちに全ての答案が返却された。


 結果から言うと、赤点回避は達成できた。

 数学だけではなくて、他の教科も平均点を取ることができた。

 俺からすれば上出来すぎるくらいの結果だ。


 ただ、一つ気になるのは、椎奈さんが学校を休んでいることだ。


 別に学級委員の仕事が滞るとか、そういう問題じゃない。

 普段は完璧で無敵に見える彼女が休むなんて珍しすぎて、クラス中がざわめいた。


「椎名さん、どうしたのかな?」

「熱だってさ」

「へぇ、病気とかするんだ」


 聞こえてくる噂話に、なんとなく心がざわつく。

 俺に関係ないってわけじゃないし……むしろ、俺の勉強会に付き合わせちゃったから疲労が溜まったとか?

 もしかしてこれ、行くべきなんじゃないか?


 同じ学級委員として、椎名さんに渡すべき書類だってあるし、そのついでに、少し様子を見に行けばいい。

 クラスメイトの一人としても、礼儀ってやつだ。


 思い立ったら行動が早いのが俺の良いところだ。

 俺はこっそりと担任に話を通すと、椎名さんの家の場所を教えてもらい、彼女に渡すべき書類を受け取った。



 午後の一時ごろ。

 今日はテスト返却のみで一日を終えたので、俺は学校から直接椎名さんの家を訪れた。

 正直、ちょっと緊張している。

 彼女がどんな家に住んでいるかなんて、全然想像がつかないからだ。


 で、到着した家は——予想以上に立派だった。

 門構えからして豪邸だし、インターホンもゴージャスで表札も大きい。格式の高さが一目でわかるし、何よりも高級感がある。


「……すげぇな」


 庶民代表を自負する俺の場違い感が半端ない。

 だが、もうここまで来たからには引き返せない。

 俺は意を決してインターホンを押した。すると、すぐに小さな女の子が出てきた。


「あ、お兄ちゃんだ!」


 目の前に現れたのは、小学生くらいの小柄な女の子。

 ぱっちりした目に明るい笑顔、可愛らしいリボンが特徴的だ。


「お兄ちゃんじゃなくて……クラスメイトの日向朝陽です。立華さんはいるかな?」


「ひなたあさひくん! 知ってるよ! お姉ちゃんから話、よく聞いてるもん!」


 その一言に、俺は驚いた。


「え、俺のこと話してるの?」


「うん! 最近、いいんかい? の仕事で一緒にいるんでしょ? なんか“手がかかる”って言ってた!」


 褒められてるような、そうでもないような……微妙な気持ちだ。


「お姉ちゃんは二階で寝てるよ。ちょっと元気ないから、静かにしてね!」


「うん、ありがとう……」


 妹ちゃんに案内されて、俺は椎名さんの部屋へ向かった。

 敷地だけではなく、家の中すら広々としている。多分、妹ちゃんの案内がなかったらすぐに迷子になるレベルだ。


 俺はノックをして、声をかける。


「椎名さん、俺だよ。日向朝陽。学級委員の書類持ってきた」


 返事がない。


 しばらく待っていると、かすれた声が聞こえた。


「……入ってください」


 そっとドアを開けると、ベッドの上で弱々しく横たわる椎名さんがいた。

 いつもの凛とした雰囲気は影を潜め、顔は赤く熱を帯びている。


「……日向くん、なんで……?」

 書類を届けに来たんだよ。それに、俺のせいで無理をさせちゃったのかなって思ったから、様子を見にきたんだ」


 俺が笑いかけると、椎名さんは少し目をそらした。


「余計なことを……」

「勝手にきてごめんね。それより、大丈夫? すごく具合が悪そうだけど」


 近づいて顔を覗き込むと、椎名さんは慌てて布団を引っ張り上げて、自分の顔を覆い隠した。


「……見ないでください。恥ずかしいです」

「いや、別に変な意味じゃなくて……」


 そう言いながらも、椎名さんの様子がいつもと違うことに気づく。

 無防備で、少しだけ甘えた雰囲気を纏っている。

 いつもの少しツンとして、近寄りにくいような空気感は全くない。むしろ、今は構ってやりたくなるような、お世話をしたくなるような、小動物のような感じだった。


 そのとき、妹ちゃんが部屋に顔を出した。


「お兄ちゃん、お姉ちゃんと付き合ってるの?」


 突然の爆弾発言に、俺はむせ返った。


「付き合ってないよ! ただのクラスメイトだって!」

「ほんと? お姉ちゃん、最近すっごく楽しそうにしてるんだよ?」


 純粋無垢な妹ちゃんの目がキラキラ輝いている。

 俺が否定してもまるで信じてないようだ。


「……そんなこと、ないでしょ」


 椎名さんが布団から顔を出し、小声でそう呟いた。

 ただ、その表情はどこか少しだけ拗ねているように見える。


「と、とにかく! 椎名さんが元気にならないと意味ないから、ゆっくり休んで!」


 俺は逃げるように部屋を出ようとしたが、椎名さんの小さな声が背中を追った。


「……ありがとう、日向くん」


 その一言に、俺の胸がぐっと熱くなる。

 自覚はないけれど、たぶん、顔は真っ赤だったと思う。名前を呼ばれるだけでこんなふうになるなんて、とうとう俺はおかしくなってしまったのかもしれない。


 

 こうして部屋を出たあと、俺は妹ちゃん——あかねちゃんの遊びに付き合わされた。

 そこでふとした拍子に、俺はあかねちゃんに椎名さんのことを聞いてみることにした。


「お姉ちゃんは、家で俺の話をするの?」


「うん! お兄ちゃんの話をする時、お姉ちゃん、いつもよりいっぱいしゃべるよ!」


 それを聞いて、俺の心臓が一気に高鳴る。

 いや、勘違いだよな? ただ学級委員としての話とか、そういうやつだろ?


「……どんな話をしてたの?」


 俺は平静を装おうとしたが、動揺を隠しきれていなかった。

 あかねちゃんは無邪気に笑いながら答える。


「んーっとね、お兄ちゃんがどれだけおバカさんかとか?」


「……ぐっ!」


 刺さる。胸に刺さる言葉だ。

 確かに俺はバカだ。物覚えも要領も悪い。否定できないのが悔しい。


「でもね、『明るくて、何でも楽しそうにやるところがすごい』って褒めてたよ!」


「……ほんと?」 


「ほんとだよー! お姉ちゃん、嘘つかないもん! お姉ちゃんはすっごく乙女で素直なんだから!」


 あかねちゃんは、にこにこと笑顔で言い切る。

 姉妹であるが故の確信か。

 俺はそれを聞いて少し顔が熱くなった気がした。


 椎名さんが俺のことを褒めるなんて……しかも嘘をつかないのなら、本当に俺のことをそう思ってくれているということか。

 妙に胸がくすぐったいな。変な感覚だ。


「……あのさ、あかねちゃん」


「なぁに?」


「椎名さんって、学校で話す感じと家で違う?」


 あかねちゃんは少し考え込むように、首をかしげる。


「うーん……学校のお姉ちゃんはどんなかんじなの?」


「すごく静かだよ。俺が最初話した時だってずっと無表情だったし、少し話せるようになったのはつい最近なんだ」


「でも、家だとちゃんと笑ったり怒ったりするよ?」


「そうなんだ……」


 俺はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ安心した。


 普段のクールで寡黙な椎名さんとは違う、家での様子を想像するのはなんだか新鮮だった。

 そして、それを知るのは自分だけじゃなく、家族だけなんだろうなと思うと少し羨ましい。


「お兄ちゃん、お姉ちゃんと仲良くしてね!」


 あかねちゃんが急にそんなことを言い出したもんだから、俺は驚いた。


「え、仲良く……?」


「うん! お姉ちゃん、朝陽お兄ちゃんのこと、たぶん好きだよ!」


「っ……!?」


 まさかの直球に、俺は完全に固まった。

 す、好きって……そういうこと?


「仲良しの友達を大事にしないとダメなんだからね!」


「あ、友達ね……うん。でも、あまりグイグイいっちゃうのは椎名さんに迷惑かもしれないし、ほどほどに頑張るよ」


 椎名さんを気遣ってやんわりと言葉を返す俺を見て、あかねちゃんは不満そうに頬を膨らませる。

 そんな表情は椎名さんにそっくりだった。さすがは姉妹。性格はあんまり似てなさそうだが、表情はよく似ている。



 そのあと、しばらくあかねちゃんと遊び、適当なタイミングで切り上げることにした。

 帰るために玄関に向かう途中、椎名さんの部屋の扉が少しだけ開いていることに気づく。


 覗くつもりはなかったが、視線を向けた瞬間、椎名さんと目が合った。

 弱々しい表情でベッドに横たわっている彼女は、少しだけ頬を赤らめながら言った。


「……あかねが、変なこと、言いませんでしたか?」


「あ、いや……全然。あかねちゃん、良い子だったよ。お姉ちゃん思いのね」


 俺がそう答えると、椎名さんは小さくため息をついて布団を引き上げた。


「迷惑をかけてしまい、すみませんでした」


「気にしないで。僕も楽しかったから」


 笑顔で言葉を返した。

 すると、椎名さんは照れ恥ずかしそうになり、


「来てくれて、ありがとうございました……その、嬉しかった、です」


 と、言った。


 その声は、普段のクールで少し淡白な感じとは違い、どこか温かさを感じさせるものだった。

 熱があるからか、それとも心の変化があったのか、それは俺にはわからない。ただ、椎名さんと話していると、俺の心が安らいでいくのは確かだった。


「じゃあまた学校でね」


 そう言って俺は家を出たが、その帰り道ずっと頭の中で椎名さんのことを考えてしまっていた。

 彼女の姿が頭に焼きついて離れない。


(これって、もしかして……俺、ちょっとやばいかも?)


 胸の中に芽生えたこの気持ちが何なのか、自分でもよくわからなかった。

 ただ、次に椎名さんと顔を合わせる日が、少しだけ待ち遠しくなっていたのは確かだ。


  ちなみに、椎名さんは次の日には元気に登校していた。

 そして、定期テストの結果は、当たり前のように学年トップだった。




 ◇◆◇◆◇




 定期テストの嫌な騒がしさがなくなり、学校中には文化祭の良いムードが流れ始めていた。


 今は文化祭の準備期間が始まったばかりだが、クラスの空気は一気に慌ただしくなった。

 俺たちのクラスの出し物「アニマルカフェ」の準備は、デコレーションからメニュー決めまで盛りだくさん。

 教室は折りたたみ机やカラーペン、ダンボール箱が散乱してカオス状態だ。


 一ヶ月の控える文化祭に向けて、誰もが嬉々として準備に取り組んでいる。


「ねぇ、これって入口に飾るやつでいいんだよね?」

「違うよ、それはテーブルの番号札!」

「誰か、スプレーの色、もっとポップなの持ってない?」


 クラスメイトたちはあっちでワイワイ、こっちでガヤガヤ。まるでお祭りの準備そのものだ。


 学級委員長である俺は、クラスメイトたちの様子を見て声かけをしながら、教室の隅で看板作りに没頭している椎名さんの様子を盗み見た。

 

 椎名さんはたった一人で、大きな看板に絵を描いていた。

 絵を描くのが得意なのか、細かい線まで丁寧に描き込むその集中力には感心させられる。

 作業を続ける椎名さんは周りの騒ぎには一切無反応。

 まるで、自分だけ別の空間にいるかのようだった。


「おーい、朝陽!」


「あ、悪い、なんだ? ハム」


 サッカー部の公貴ことハムが俺を呼んでくる。


「こっちの飾り付けってこんな感じでいいか?」


「いい感じだと思うぞ」


「そっかそっか、よしよし」


「用はそれだけか?」


 ハムは満足そうに腕を組んでいたが、多分話はこれだけじゃない気がしていた。


「まさか、聞きたいことがあったんだよ。朝陽はあれから順調なのか?」


「何が?」


 よくわからないので聞き返す。すると、ハムは俺の肩に手を置き前後に強く揺さぶってきた。


「とぼけんなよ。椎名さんとの関係に決まってんだろ! クラスで噂になってるぜ? 友達が多くてそこそこ人気者の朝陽と、クールで寡黙な一匹狼系女子の椎名さんの恋愛模様がよ!」


「……本当にクラス中で噂になってんのか?」


「まあ、それはちょっとばかし盛った話だが、少なくとも俺の中では燃えに燃えてる話だなっ!」


 ちょっとどころか話を捏造されたような感じだった。

 学級委員と俺と椎名さんが一緒にいたところで、別に不思議なことはないだろうに。


「そうか。で、ハム、お前は俺に何が聞きたいんだよ。椎名さんとの関係なら別にそんなんじゃないぞ」


「ほんとかー? この前なんて家に看病しにいったんだろ?」


「は? 誰から聞いたんだよ」


 俺は隠密に担任に掛け合い、椎名さんの家に向かったのだが……いったいどこの誰がその話を漏らしたのだろうか。


「あかねちゃんだよ。この前、三、四年ぶりくらいに公園でばったり会ってよ。嬉しそーに朝陽と椎名さんの話をしてたぞ」


「……あかねちゃんと知り合いだったのかよ」


 あかねちゃんなら仕方ない。まだ小さいし、そんな話題を話したくなるのは当たり前だ。


「まあな~、中学ん時に迷子のあかねちゃんを迷子センターに連れてったことがあんだよ。ちなみに、椎名さんと会話をしたのはそれっきりだな」


「ふーん……ところで、俺からも一ついいか」


「なんだよ」


「椎名さんはずっと一人で看板作りに没頭してるけど、誰か手伝ったり声をかけたりしないのか?」


 本当は俺が手を貸してやりたかったが、残念ながら学級委員長としてやるべきことがわんさかある。

 できれば、旧知のハムや他の女子なんかが手伝ってあげてほしい。


「んー、昔から椎名さんは、何をするにも一人で完結できちゃうタイプだったからな。周りもそれをわかって声をかけてないんだと思うぜ?」


「でも、あのペースなら一人だと間に合わないぞ」


 ハムの言いたいことはよくわかる。俺だって学級委員にならなければ椎名さんと話す機会はなかっただろうし。ただ、誰かが手伝わないと、看板は完成しない。

 それくらい椎名さんは丁寧に絵を描いているし、作業スピードも比例してゆっくりだった。


「そうは言ってもなぁ、俺が声をかけても無視されるし……みんなそれぞれやることがあんだろ? 大変なのはわかるけど、よっぽど絵が得意で丁寧なやつじゃないとあれは手伝えねぇよ」


「……まあ、それもそうか」


「そういうことだ。なんなら気心の知れたお前が手伝ってやるのが一番だと思うぜ? 学級委員長としてピリつくのもいいけど、やっぱああいうのに参加した方が楽しいだろうしな」


 ハムは俺に笑いかけると、ふらふらと歩いてまた別のグループへと加わった。

 ハムの言うことはもっともだった。確かに、学園祭なら楽しんだもん勝ちみたいなところはある。何よりも高校生活でたった三回しかない大切なイベントごとだ。


 俺もそうだが、椎名さんにもまずはこの場の空気感を楽しんでほしいと思う。

 


「さて、声をかけてみるか」


 俺は一人で看板に筆を走らせる椎名さんに声をかけにいった。

 俺が背後に立っているのに、椎名さんは全く気がつく様子がない。


「……椎名さん、お疲れ様、看板はどんな感じ?」


 驚かせないように静かに声をかけた。


「まだまだです」


 彼女は手元のペンを止めずに答える。

 こういうときの彼女は無駄口を叩かない主義らしい。


「一人で大変じゃない?」


「……別に、慣れていますから」


 そう言いながらも、わずかに疲れた表情が垣間見えた。

 今日はかれこれ一時間くらい描き続けているが、大きな看板の一割弱しか埋められていない。

 毎日のように準備時間があるわけではないので、一月後に控える文化祭にはやはり間に合わない。


「いや、そういう問題じゃないだろ。せっかくクラスみんなでやるんだし、もっと頼ってもいいんじゃない?」


 俺がそう言うと、椎名さんの手がピタッと止まる。

 そして、初めてこちらを見上げた。


「……日向くんは人気者なので人に頼るのが得意なんですね。羨ましいです」


 その言葉に、何か刺されるような感覚を覚えた。

 そんな意図は全くなかったのに。癪に触ってしまったようだ。


「いや、そういう意味じゃなくてさ……」


 言い訳をしようとしたが、椎名さんは立ち上がり、看板を抱えて教室の外へと歩き出した。


「どこ行くの?」


「……職員室に置いてきます。集中力が切れてしまいました」


 椎名さんの後ろ姿からは、少し怒っているような、あるいは苛立っているような雰囲気が漂っていた。

 俺はそれ以上声をかけることができなかった。




 ◇◆◇◆




 文化祭の準備は、クラス全体が一致団結しているように見えて、実は色々な課題を抱えていた。

 班ごとに進行状況がバラバラで、手の空いている班と手が回らない班の間で小さな不満が積み重なっていたのだ。


 俺たち学級委員は、そんなクラスの空気を何とかしようと、リーダー格のメンバーと調整に奔走していた。


 ある日の放課後、椎名さんが黒板前で進捗状況の一覧表を見つめているのを見かけた。

 看板作りの時と同じく、一人で抱え込んでいる様子に、俺は少しモヤモヤした気持ちになる。


「椎名さん、これどうする? 遅れてる班がこのままだと間に合わないってさ」


 俺が声をかけると、椎名さんは振り向きもせずに答えた。


「……手が空いている班に応援を頼むしかないですね。分担表を修正して、もう一度確認しましょう」


「そうだね。でも、また不満が出るかもよ。あの班、飾り付けだけやらされてるって文句言ってたし」


 クラスメイト全員を満足させることはできないが、不満を出させて空気を悪くさせるのだけは避けたかった。

 俺は色々な人とそれなりに仲が良いからこそ、クラスの協調性をより大事にしている節があった。


 しかし、椎名さんはそういうわけもなく、淡々とした口調だった。


「文句を言っている暇があるなら、手を動かしてほしいです」


「待って、みんな思うところがあるのは当然なんだから、それを解消していくのが俺たちの仕事だろ? あれやれこれやれで片付けるのは違うよ」


 カチンときた俺は少し語気を強めてしまった。

 すると、椎名さんが眉を顰め、しばらく沈黙が続いた。

 そして、ゆっくりとこちらを見上げてくる。


「……私は、できるだけ公平にやっているつもりですが、日向くんのように周りと上手くはできないんです。だから、何か提案があれば聞かせてほしいです」


「っ……」


 言葉に詰まる俺。椎名さんの瞳には、どこか冷たい光が宿っているように見えた。人にできないことを無理強いしようとしているのは、俺も同じだったのかもしれない。

 椎名さんがコミニュケーションを苦手としているように、俺もまた人の顔色を気にするあまり具体策を持っていなかった。 


 それでは何の進展もない。


「これからは私が業務の進行を管理するので、私の方で分担表の修正をしておきます。職員室に行ってきますので、これ以上の話は後でお願いします」


 そう言って、椎名さんは書類を手に教室を出て行ってしまった。


 幸いにも、教室には俺たちしかいなかったからよかったが、あまりこういうギスギスは早急に取り払いたいのが本音だった。


 だが、俺にはその方法がわからなかった。

 結局のところ、明るい性格とコミュニケーション能力の高さなんてのは、人の目ばかり気にした八方美人ってことなのかもしれない。

 クラスメイトたちからの考えていることなんてわからない。残念なことに、椎名さんの思いなんてもっとわからない。


「どうすりゃいいんだろ」


 俺の呟きは、開け放たれた窓から吹き込む風に流されて消えた。



 ◇◆◇◆




 数週間が経過した放課後、模擬店で使う小物が足りないことが発覚した。


 作業をまとめてくれていたクラスメイトから「このままでは準備が間に合わない」と連絡を受けた俺は、急いで状況を確認することにした。


 幸いにも、まだ文化祭当日までは数日の猶予がある。

 まだ完成していない部分も多いが、椎名さんが示した業務の進行表によれば十分に間に合うペースだった。


 ただ、肝心の小物は中々手に入らなさそうだった。

 動物を題材にしたカフェということもあり、小物類を揃えるのは中々大変なのはわかっていた。

 だからこそ入念に試行錯誤していたのだが、まさかここにきて小物が不足していることに気がつくなんて……


「これ、本当にもう在庫ないのか?」


 俺は周りを見回して尋ねた。足りないのは、最も大切な動物の衣装だった。


「うん……任せてくれたのに、ごめん。僕の確認ミスだったみたい……」


 クラスメイトが申し訳なさそうに答える。焦りで教室の空気はピリピリしていた。

 困ったなぁ。こんな時はどうすればいいんだ。


「椎名さん、どうする?」


 俺は同じ学級委員でありながら、文化祭の業務進行を把握している椎名さんに相談しようとしたが、彼女の姿が見当たらない。代わりに、彼女の席にはメモが残されていた。


『買い出しに行ってきます。戻るまで待っていてください』


「……は?」


 一瞬、理解が追いつかなかった。


「買い出しって、たった一人で?」


「そうみたい。椎名さん、全部自分でやろうとするからなあ……」


 クラスメイトの呟きが耳に飛び込んできた。


「看板だってまだ半分しかできてないよ? 一番大事なところなのにね」


「そうそう。あんまり手伝ってほしくなさそうに見えるから声かけてないけど……やっぱり終わらなさそうだよね」


 各々が不満混じりの言葉を口にしたが、今は看板よりも椎名さんの単独行動について言及すべきだった。


「……ったく、足りない小物の買い出しなんて、一人でどうにかなる量じゃないだろ!」


 怒り半分、焦り半分で、俺は教室を飛び出した。

 向かう先はわかってる。この辺りで俺らが調達する小物が売ってるのは、学校の近くの商店街しかない。


 

 それから、俺は五分ほど全力で走り、商店街の入り口していた。

 辺りを見て椎名さんを探す。すると、すぐに見つかった。

 椎名さんはぱんぱんに膨れた袋を両手に持ち、フラフラとした足取りで歩みを進めていた。きっとあんなもんじゃ小物類は足りない。

 たった一人であそこまでする必要なんて全くないのに。


 椎名さんの姿を見た途端、俺の中で膨れ上がった感情が爆発した。


「椎名さん! 何してんの!? これ全部一人で持ってくつもりだったの?」


 振り返った椎名さんは、驚いたような表情を浮かべるが、すぐに眉を顰めた。


「……必要なものを揃えただけです。それだけの話です」


「いや、それだけとか、そういう話じゃないよ。なんで誰にも頼まないの? クラスみんなで準備してるんだから、協力すればよかっただろ? みんな心配してたぞ?」


「……」


 椎名さんは答えない。その沈黙が余計に俺の苛立ちを煽った。


「自分だけで背負い込んで、何でも一人でやる方が楽だと思ってるんじゃないのか? 周りがどう思うかなんて、どうでもいいってことか?」


 思わずぶつけた言葉に、椎名さんの表情が硬くなった。

 そして、ゆっくりと口を開く。


「……私が頼んだところで、どうせ迷惑なだけです。それに、間に合わなければ困るのはみんな。だから自分で動いただけです」


 冷静に見えるその声には、どこか痛みのようなものが滲んでいた。それを聞いて、俺はハッとした。


(迷惑だなんて、誰も思ってないのに……)


 彼女は、ただ頼れなかっただけなのかもしれない。でも、それを責めたところでどうにもならないのに、俺はまた感情的になってしまった。


 自分の思い通りにならないことが少し増えただけで、こうして感情のコントロールが怪しくなってしまう。俺はつくづくバカなやつだ。でも、だからこそ相手に言葉が真に通じるのかもしれない。


「……とにかく、一人で抱えるのはやめてほしい。俺も手伝うから、次からは相談してくれ。いい?」


 俺がそう言うと、椎名さんは少しだけ目を伏せた。


「……わかりました。今回は手伝ってくれるんですか?」


「ああ、もちろん。さ、これを全部持って帰るぞ!」


 商店街から学校に戻る途中、俺たちは並んで歩いていた。

 俺の両手には、椎名さんが買ってきた大量の荷物、そして追加で買った大量の荷物がある。

 全部自分で持つと言い張る俺に、椎名さんは小さなため息をつきながらもそれ以上何も言わなかった。


「……結構重いな、これ。椎名さん、一人で持つつもりだったの?」


 わざと軽い調子で言った俺の声に、椎名さんはほんの少しだけ眉を下げた。


「そうですね。でも、こうして日向くんが持ってくれるなら、その方が効率的だと気づきました」


 効率的、なんて言葉を使うところが椎名さんらしい。けれど、その言葉の裏には、ほんの少しの遠慮や戸惑いが含まれているように感じた。


「効率的とかじゃなくてさ。頼れるときは頼ったほうがいいと思う。俺だって、こういうの手伝うの嫌いじゃないんだからさ。勉強を教えてくれたお礼だってまだしてないし、そもそも同じ学級委員だから、もっと気軽に接してよ」


「……」


 椎名さんはちらりと俺の顔を見上げた。彼女の瞳には、一瞬だけ戸惑いと感謝が混じったような色が浮かんだ。


「じゃあ、次もお願いしていいですか?」


 その一言が、少しだけ椎名さんを柔らかく見せた気がした。


 しばらく無言で歩き続けたあと、椎名さんがぽつりと口を開いた。


「……私、ずっと一人でやる方が楽だと思っていました。自分のペースでできるし、誰かに迷惑をかける心配もないから。勉強も、運動も、全部、一人でできるので。でも……」


「……でも?」


「でも、それじゃうまくいかないことも多いんですね。今回のことや、看板作りのように」


 椎名さんの言葉は静かで、けれどどこか不安定だった。それを聞いて、俺は自分が彼女に投げかけた言葉を思い出す。


「俺もさ、結構ダメなとこあるんだよ。なんでもかんでも周りに合わせてさ、ちゃんと人を見てなかったんだって気づいた」


「日向くんが……ですか?」


「うん。例えばさ、椎名さんがこんな風に色々考えてるなんて、俺全然わかってなかったんだよな」


 少し前の俺なら、「周りの空気を悪くしたくない」とか、「みんなと仲良くやりたい」とか、そんな曖昧な理由で表面だけを整えていたと思う。


 だが、椎名さんの態度を見て、俺も何か変わるべきだと気づいた。


「俺ももうちょっと、ちゃんと人を見れるようになるよ。それで、困ってる時は声かけてくれれば手伝うから」


 俺がそう言うと、椎名さんはふっと小さく息をついた。それが笑いなのか、ただのため息なのかはわからないけれど、どこか以前より柔らかい雰囲気が感じられた。


「……日向くん、意外としっかりしてるんですね」


「それ、褒めてる?」


「ええ、少しだけ」


 ほんの少しだけ微笑む彼女を見て、俺はなんとなくほっとした。


 俺たちの間にあったわだかまりと違和感は、互いの想いを吐露することで解消されたのだった。



 ◇◆◇◆



 翌日。

 椎名さんは俺だけではなく、他のクラスメイトたちにも頼るようになっていた。

 特に看板作りについては、細かくも丁寧に指示を出し、何人かで協力して作業をしていた。


 少し離れた位置からその光景を見ていた俺は、どことなく嬉しい気持ちになっていた。独り立ちする我が子を見るような、そんな親の気分を味わった。


 そして、今日も今日とて作業を続けていると、今度は担任からお使いを頼まれ、俺と椎名さんは買い出しに繰り出していた。

 他のクラスメイトたちは作業に手を焼き忙しいので、ある程度余裕のある学級委員が買出しを任されたってわけだ。


「他のメンバーは忙しいみたいだね」


「……はい。なので、二人で行くしかありません」


「看板作りはもう大丈夫そう?」


「問題ないです」


「よかった。あかねちゃんは元気?」


「元気すぎるくらいです。日向くんに会いたがっていました」


 たわいのない話をしながら歩みを進める。


「ほんと? じゃあまた今度お邪魔しようかな」


「……はい?」


「冗談だよ。前も急に押しかけちゃったし、あんまり迷惑になることはしないから」


「……来てもいいですよ」


「え?」


「なんでもないです」


 椎名さんは途端に早歩きでいってしまった。


 やがて、買い出しはあっという間に終わると、ふとした拍子に俺はゲーセンの入り口で足を止めた。

 本当に何も考えていなかった。ただ、俺は椎名さんのことを見下ろして自然と口を開いていた。


「……寄ってく?」


 椎名さんが小さく首を傾げる。


「はい? 一応、授業中という扱いなので、ゲームセンターに行くのはよろしくないのでは?」


 案の定、否定的だった。わかってる。それは前までの俺も同じだった。だが、今はどこかはっちゃけてみたい気分だった。二人きりだからこそ、そんな特別な時間を過ごしてみたかった。


「まあ、買い出しの帰りだし、ちょっと息抜きしてもいいんじゃない? 先生たちがずっと監視してるわけでもないし、時間的にはもう放課後に近いしね」


 俺はそれっぽい屁理屈で丸め込もうとした。

 すると、椎名さんは少し考えた後、無言で頷いた。


 考えた末に折れてくれたらしい。ありがたい。


 そして、店内に入ると、いつもの喧騒に包まれ、気まずかった空気も少し薄らいだ気がした。


「椎名さん、ゲームセンターはよく来る?」


「いえ。初めてです」


「じゃあかなり新鮮なんじゃない?」


「……そうですね。音がうるさいです」


 椎名さんは慣れないゲームセンターに居心地が悪そうにしていた。無意識なのか、隣を歩く俺との距離もいつもより近い気がする。


 そして、クレーンゲームコーナーで立ち止まる椎名さんの姿を見て、俺は軽い気持ちで声をかけた。


「そのぬいぐるみ、欲しい?」


「いえ、そうでもないです」


「ほんとに? 結構可愛いよ」


 椎名さんが横目で見ていたのは、茶色いクマの巨大ぬいぐるみだった。もっこもこの毛が可愛い。抱き枕にしたら安眠できそうだ。


「……まあ、悪くないです」


 悪くない。つまり、椎名さん的には良いということだろう。よし、このチャンスを活かすぞ。


「ちょっと試してみようかな」


 俺は軽快な調子でコインを投入し、ぬいぐるみを狙った。

 一度目、お尻の辺りを持ち上げたが、惜しくも落下。

 二度目、今度は頭を狙ってみたが、クレーンの力が弱くて持ち上がらず。

 そして、三度目、胴体の両腕にクレーンを入れると、なんと綺麗に持ち上がり、そのままゲットすることができた。


「やった!」


 俺は反射的にガッツポーズを繰り出していた。


 正直、たった三回で成功するとは思わなかった。

 何度か失敗しながらも、隣から椎名さんの小さな溜め息が聞こえるたびに、不思議とやる気が湧いてきたのだ。

 あと、ぬいぐるみが持ち上がるたびに、椎名さんが「わぁ……」とか「……いけ」とか、小さな声でリアクションしているのが良かった。


 何はともあれ、念願の巨大クマのぬいぐるみをゲットした。


「どうぞ」


 俺が差し出すと、椎名さんはほんの一瞬、目を見開いた後、控えめに受け取った。

 しかし、口元は確かに綻んでいた。


「……ありがとうございます」


 ぬいぐるみを大事そうに抱きしめるその姿は、普段のクールな椎名さんとはまるで別人のようだった。


 その小さな声に、俺は胸が温かくなるのを感じた。


 ほんの少しだけ、椎名さんとの間に二人だけの思い出ができたような気がした。



 


 ◇◆◇◆



 

 文化祭の賑わいから少し離れた空き教室で、俺はひと息ついていた。

 午前中の接客で体はクタクタだし、喉もカラカラだ。椅子に座り込んで、窓から入る秋風を感じていたその時——


「——日向くん、ここにいましたか?」


 扉の向こうから現れたのは、椎名さんだった。

 両手にはペットボトルが握られている。


「椎名さん? どうしてここに?」


「模擬店のほうに姿が見えなかったので。あと……喉、渇いていませんか? たまたま自販機で当たりがでたので……」


 椎名さんは俺の前まで来ると、スッとスポーツドリンクを差し出してきた。

 俺は快く受け取ったが、確かうちの学校に当たり付きの自販機なんてなかったはず……と考えてしまった。まあ、蛇足だな。


「ありがとう。助かるよ」


「いえ、ついでですから」


 そう言いながら、椎名さんも自然に隣の席に腰を下ろす。

 いささか距離が近い。肩と肩が触れ合うくらいの距離感だ。

 教室の中は二人きり。静かで心地よい空間に、俺たちはしばらく言葉を交わさず飲み物を口にした。


「ところで、接客どうだった? 椎名さんもかなり頑張ってたみたいだけど」


 俺が軽く話を振ると、椎名さんは真剣な顔で考え込むように視線を上げた。


「一応、私なりには全力でした。でも……やはり、日向くんのように上手くはできませんね」


「え、いやいや、全然そんなことないって。椎名さんの冷静な対応、クラスメイトにも好評だったよ」


「……そう、なんですか?」


 珍しく少し戸惑ったような表情を見せる椎名さん。

 俺は思わず笑ってしまう。


「ほんとだって。椎名さんのそういうところ、意外とみんなに頼りにされてるんだよ。行動的だし、真剣に取り組めるしね」


 俺がそう言うと、椎名さんはふっと柔らかく微笑んだ。その瞬間、俺の中で言葉にならない感覚が広がる。


「……日向くんって、不思議な人ですね」


 椎名さんがポツリと呟いた。


「え? 褒めてる?」


「たぶん。少なくとも、私にはないものをたくさん持っています」


「へえ、例えば?」


「周りの人と自然に打ち解けたり、相手を安心させるような言葉を選んだり……。私には、どうもそれが上手くできなくて」


 そう言いながら、椎名さんは俺の顔をじっと見つめる。

 何を思って見つけてきたのか、それはわからない。

 ただ、俺はその真っ直ぐな視線に、なぜかドキリとした。心臓が跳ねて、高鳴り続けている。


「……いや、そんなことないって。俺なんて全然だし、周りとたくさん話せるようになった椎名さんには敵わないよ」


 俺はそう言って、軽く椎名さんの肩を叩こうと手を伸ばした、その瞬間——


「えっ!」


 椎名さんが急に俺の右手を自分の両手で包み込んできた。小さくて暖かい椎名さんの両手は、力強く俺の右手を覆っている。


「椎名さん……?」


「その、私……これが正しいやり方か確認したくて」


 彼女は真剣そのもので、少し頬を赤らめている。


「えっと、正しいやり方って?」


「日向くんがよく、クラスメイトとこうして触れ合いながら話しているのを見たので……これがコミュニケーション、なんですよね?」


 どうやら、俺がクラスメイトとフランクに接しているのを真似しようとしているらしい。

 しかし、手を握るのはちょっと予想外だ。異性なら尚更だ。


「いや、それ、ちょっと違うかも……」


「あ……そうですか。すみません」


 椎名さんが慌てて手を離す。そのぎこちなさが、なんだか微笑ましくて、俺は笑ってしまった。


「いやいや、全然いいよ。むしろ面白かった」


「……からかわないでください」


 少し拗ねたような顔をする椎名さん。でもその表情はどこか柔らかい。


 その後も、自然に会話が続いた。

 近くに座ったことで肩が偶然触れあったり、風に靡いた椎名さんの髪が俺の頬を掠めてくすぐったかったり、ふわっと甘い匂いがしたり、色々と刺激的が合った。

 でも、お互いに気まずくなることはなく、むしろそれが心地よく感じられるほどだった。


 二人だけの静かな時間の中で、俺は彼女の意外な一面に触れ、椎名さんもまた少しずつ、自分の殻を破り始めているようだった。



 これが文化祭初日の一番の思い出となった。




 ◇◆◇◆



 


 文化祭の二日目は、初日の喧騒が嘘のように落ち着いて進んでいた。

 模擬店も順調そのもので、お客さんの波が一段落した午後からは、みんな次第に余裕を持って楽しむ雰囲気に変わっていた。


 椎名さんも今日はリラックスした表情を見せていて、接客もどこか自然体だった。

 クラスメイトとのやり取りも昨日よりずっとスムーズで、俺はその姿を見てほっと胸を撫で下ろしていた。


 椎名さんはすっかり変わった。

 クールで寡黙な雰囲気はまだまだ拭えていないが、それでも自分なりに懸命に人と関わろうとしている。そして、それを楽しんでいる。周りもそれに応えている。

 微笑ましい空間がそこにはあった。


 椎名立華 改造計画とかいう、よくわからないことを考えていたあの時が懐かしい。今ではもう椎名さんは自分の感情を存分に引き出せているし、以前よりもずっと感情が豊かになった。



 それから、つつがなく時間が進み、気がつけば夜になっていた。


 夜になると、文化祭最後のイベント、花火大会の時間がやってくる。

 校庭には生徒や保護者たちが集まり、夜空を見上げる中、俺は椎名さんを誘い、少し離れた体育館裏の静かな場所へと向かった。


「ここなら、人も少なくてゆっくり見られると思ってさ」


「……ありがとうございます」


 椎名さんは微笑んで、小さく頷いた。

 体育館裏から見上げる空は遮るものがなく、夜風が心地よい。二人きりという状況に、俺は少し緊張していたけれど、椎名さんの横顔を見ると不思議と落ち着く気持ちになった。


 夜空に、花火が咲き始める。

 大きな音とともに光が広がり、周囲を一瞬だけ明るく照らす。椎名さんはそのたびに目を細めて、夜空を見上げていた。


「きれいだね」


 俺が何気なく言うと、椎名さんは少し間をおいてから答えた。


「……ええ、とてもきれいです」


 その声はどこか感慨深いようで、俺は彼女の横顔に目を向けた。


「椎名さんさ、今日すごく楽しそうだったね。なんか、少し変わった気がする」


「……そうでしょうか?」


「うん。前よりずっと自然体になったっていうか、クラスのみんなとも上手くやれてたし」


 俺がそう言うと、椎名さんは少し視線を落として静かに口を開いた。


「……それは、日向くんのおかげです」


「え?」


「私、ずっと一人で何でもやらなくちゃって思ってました。でも、日向くんが周りを気にかけて声をかけている姿を見て……私も、少しずつ人に頼ってみようと思えたんです」


 彼女の声は静かだったが、心の奥から絞り出すような響きがあった。


 その瞬間、大きな花火が夜空に広がり、俺たちの顔を明るく照らした。

 椎名さんが俺のほうを見つめているのに気づき、思わず目が合う。


「日向くん……」


 椎名さんは少し迷ったように


「日向くん……本当にありがとう」


 椎名さんの声は、花火の音にかき消されそうなほど小さかったけど、はっきりと俺の耳に届いた。


「いや、俺なんて大したことしてないよ。ただ、椎名さんが少しでも楽に過ごせたならそれでいいんだ」


 そう返しながら、俺も自然と椎名さんを見つめ返していた。彼女は小さく笑みを浮かべて、ふと夜空を見上げた。


「私、ずっと人付き合いが苦手で……上手くやれないことが多かったんです。だから、クラスメイトともうまく馴染める気がしなくて。でも、日向くんはいつも自然に人の輪の中にいて、私とは全然違う……って、最初は思ってました」


 椎名さんはそこまで言ってから、少しだけ間を置いた。そして、また俺の目を真っ直ぐ見つめる。


「でも、日向くんも私と同じで、たくさん考えて悩んでいたんですよね。だから、なんだか……私も頑張らなきゃって思ったんです」


 その言葉に、一瞬胸が詰まった。俺が誰かに影響を与えるなんて、これまで考えたこともなかったから。


「椎名さん……」


 気づくと、俺は椎名さんの方に一歩近づいていた。彼女も驚いたように一瞬だけ目を見開いたけれど、すぐに柔らかい表情に戻る。


 また一つ、花火が夜空に咲いた。

 その光に照らされた椎名さんの顔は、ほんのりと赤く染まっているように見えた。


「日向くん、私……」


 椎名さんが何か言いかけた瞬間、俺は心の奥から湧き上がる気持ちに突き動かされて口を開いた。


「椎名さん、俺……ずっと君のことが気になってたんだ。最初はクールでちょっと取っつきにくいって思ってたけど、話してみたら全然そんなことなくて……むしろ、一緒にいるとすごく安心するし、もっといろんなことを知りたいって思った」


 彼女の目が大きく見開かれる。けれど、俺は止まらなかった。


「たぶん、いや、間違いなく……俺、椎名さんのことが好きなんだ」


 一瞬の静寂。打ち上げられた花火の音すら、遠くに感じる。


 椎名さんは驚いたように俺を見つめていたが、次の瞬間、小さく息を吐くように微笑んだ。


「……日向くん、私も、同じです」


「え?」


「日向くんと過ごすうちに、私も気づいてしまいました。これまで感じたことのない気持ちを、日向くんがくれたんです。だから……私も、日向くんのことが好きです」


 その言葉に、俺の心が大きく揺れる。

 目の前の椎名さんの顔は、いつもよりずっと柔らかく、どこか愛おしい。


「そっか……ありがとう。嬉しいよ」


 自然と俺は笑みを浮かべた。そして、椎名さんも同じように微笑んでくれる。


 最後の花火が夜空を彩る。

 俺たちは隣同士、少し近づきながらその光景を見つめていた。


 気づけば、椎名さんの肩がそっと俺に触れている。その温もりが、これからもずっと続いていく気がしてならなかった。


(たぶん、今日のことは一生忘れられないな……)


 そんなことを思いながら、俺は椎名さんの横顔にそっと視線を向けた。

 そして、俺たちはまた次の瞬間から始まる日々を楽しみにしながら、静かに夜を見上げ続けていた。





 

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寡黙でクールなあの子(美少女)のことが、めちゃくちゃ気になる件 チドリ正明 @cheweapon

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