第18話:廃墟に響く白い足音

 カルマシティ郊外、廃工場跡地――。

 夜風が低くうねりながら廃工場の廃墟を撫でていた。慈端はコートの襟を立て、顔を上げて目の前の巨大な構造物を見据えた。建物全体は年月に蝕まれ、瓦礫や鉄骨が無造作に散らばっている。その光景には、かつてここで繁栄していた時代の影が微塵も残っていなかった。


 彼は息を整え、携行型の測定装置を取り出す。それは影獣や未知のエネルギーの痕跡を感知するための特殊なツールで、彼が自ら改良を重ねてきたものだ。


「また、厄介な現場だな……」

 

 低く独りごちると、彼はゴーグルを装着し、装置を起動させた。視界には赤外線やエネルギー波動の分布が鮮明に浮かび上がる。それはただの廃墟ではなかった。通常の場所では観測されない、高濃度のエネルギー反応が複数点で強く輝いている。


 廃工場に足を踏み入れると、内部は外観以上に荒廃していた。天井の一部は崩れ落ち、床には金属の破片が散乱している。彼は足元を注意深く進むと、焦げたような黒い跡が続いているのに気づいた。その跡は、何かがこの場所を引き裂いたような鋭さを帯びていた。


「この焦げ跡……影獣のものとは違う。もっと強い力で、一瞬にして生じた痕跡だ」


 慈端は跡を慎重にたどりながら、装置の読み取りを続けた。波形は通常の影獣のものとは異なり、複雑に乱れている。さらに調査を進めると、金属の破片の中に微かに光る物体を発見した。それは通常の素材とは明らかに異なる純白の輝きを放っていた。


「……これが白い魔人の残したものか?」


 彼はしゃがみ込み、手袋をはめて慎重にその金属片を拾い上げた。触れると微かな振動が手に伝わり、体の奥にまで響くような感覚がした。その表面には複雑な模様が刻まれており、それらがゆっくりと動いているようにも見える。


「ただの金属片じゃない……まるで生きているようだ」


 慈端が観察を続けていると、突然、装置がけたたましい警告音を発した。金属片から異常に高いエネルギー反応が放出されている。次の瞬間、金属片が青白い光を発し、周囲の空間に一瞬の衝撃波を放った。


「くっ……!」


 彼は咄嗟に金属片を手放し、後退した。衝撃波の影響で、周囲の瓦礫が小さく崩れる音が響く。工場全体に冷たい風が吹き抜け、何かが目を覚ましたような不気味な気配が漂い始めた。


 慈端が警戒を強めていると、視界の隅で何かが揺らめいた。振り返ると、そこには黒い影のようなものが一瞬だけ形を成し、すぐに霧散するのが見えた。


「……ただの残骸じゃない。まだ何かがここにいるのか……?」


 彼はゴーグルを操作して周囲をスキャンしたが、影の正体を捕らえることはできなかった。それでも空気は明らかに変化しており、そこに存在しないはずの何かが漂っている感覚を彼は感じていた。


 再び金属片に向き直り、測定装置を慎重に操作してその分析を進めた。画面には複雑な波形と、通常の影獣エネルギーを遥かに凌駕する濃密な数値が表示されていた。


「これほど純粋なエネルギー……まさか、奈落の意思そのものか? いや、それ以上に……これは、まるで世界そのものを歪める力だ」


 金属片を専用の保管ケースに収めると、慈端は深く息を吐き出した。彼の表情には緊張と疲労の色が浮かんでいる。


 工場の外へ向かおうとしたその時、背後から金属が軋む音が聞こえた。振り返ると、崩れかけた鉄骨の間から黒い霧が漏れ出し、再び揺らめく影が姿を現そうとしていた。


「……白い魔人か?」


 慈端はゴーグル越しにその影を見据えたが、霧は再び瞬時に消えた。残されたのは、冷たい静寂だけだった。


「……あの存在が関与していることは間違いない。だが、これはただの序章に過ぎないだろうな」


 慈端は保管ケースを背中に固定し、工場の外へと歩き出した。夜空に浮かぶ冷たい月が彼の歩みを見下ろしている。その中で、ケースの中の金属片が僅かに脈動し、淡い光を放っていた。


 工場の外へ出た慈端は、冷たい風を感じながら一度足を止めた。振り返ると、廃工場の巨大な建造物が夜空の下で威圧的な影を落としていた。その中で、彼の視線は保管ケースに集中する。その金属片が持つ力の本質を理解するほどに、彼の心は不安と疑念に満たされていく。


「白い魔人……お前は一体、何を目的としている?」


 独り言のように呟いたその声は、夜風に流されて消えた。


 彼はケースに触れると、ふと過去の記憶が蘇る。数年前、初めて影獣の調査任務に就いた時のことだ。その頃、影獣は今ほど凶暴ではなく、奈落の意思の影響も断片的だった。しかし、それでも彼の仲間たちが次々に命を落としていった光景は、彼の中に深いトラウマを刻み込んだ。


「俺がこの装置を作り始めたのも、無力感からだった……」


 その手で作り上げた測定装置が、今日のように白い魔人の痕跡を捉えることができるまでになった。それは技術者としての誇りであり、同時に自身への呪いでもある。力を知るほどに、戦いの先にある結末の恐ろしさが浮かび上がってくるからだ。


 しかし、彼は立ち止まることができなかった。保管ケースの中の金属片を分析するため、さらにサンプルが必要だと判断し、再び工場の中へと足を踏み入れた。今回は、装置の感知範囲を広げ、より詳細な波形データを収集するために全力を注いだ。


 彼が奥へ進むにつれ、空気はますます冷たくなり、異様な感覚が全身を包んでいく。壁のひび割れから漏れ出す闇のようなものが、どこか生き物のように脈動しているように見えた。


「エネルギー濃度が上昇している……通常の影獣とは完全に異質なものだ」


 彼の測定装置は、再び「警告」のアラートを鳴らし始めた。視界の中には、床や壁に付着した黒い痕跡が鮮明に浮かび上がる。それらはまるで触手が這ったような跡を描いており、壁の一部は焼け焦げているかのようだった。


 さらに奥に進むと、廃工場の中枢と思われる広間に辿り着いた。中央には巨大な鉄製のタンクが崩れたまま横たわっており、その周囲には奇妙な紋様が刻まれている。その紋様は、慈端がこれまで調査してきた奈落の意思の儀式痕に酷似していたが、より洗練され、強力な力を秘めているようだった。


「この紋様……まさか、ここで何かが召喚されたのか?」


 彼は慎重に紋様の中心部に近づくと、床の一部がまるで焼け焦げたように真っ黒に変色しているのに気づいた。その焦げ跡から立ち上る微かな臭いは、何かがここで生物的な変化を遂げた証拠のようだった。


 彼が紋様に手を触れると、突然、床全体が青白く発光し始めた。その光は次第に強くなり、紋様がまるで何かを訴えかけるように動き出す。


「これは……まずい!」


 彼はすぐに手を引っ込め、装置を操作してエネルギー波動の分析を試みた。だが、装置の画面にはエラーコードが次々と表示され、解析が追いつかない。


 その瞬間、紋様の中心部から黒い霧が立ち上り、形を成し始めた。それは、まるで人の形を模したような不安定なシルエットを作り出し、その中で赤い光がじっと彼を見つめているように見えた。


「……誰だ?」


 慈端は反射的に身構えたが、霧のシルエットはすぐに形を失い、再び霧散した。だが、その残滓は紋様全体に染み込むように消えていった。


 慈端は急いでその場を離れ、再び工場の外へと向かった。背後で軋む音や霧の揺らぎを感じながらも、彼は振り返ることなく歩みを進めた。


 工場を出たとき、夜空の月が雲間から顔を覗かせ、廃墟全体を冷たく照らしていた。彼は保管ケースを背中に固定し、ふと手を握りしめる。


「この力を知る者が白い魔人だとすれば……奴は既に、この世界の法則すら支配しようとしているのかもしれない」


 慈端の表情には、彼がその力の恐ろしさを理解しているからこその苦悩が滲んでいた。それでも彼は足を止めず、凛たちの待つ拠点へ向けて歩き出した。


 拠点にて――。


 拠点の一角、冷たい夜風が壁越しに微かに吹き付ける中、薄暗い照明が部屋の中をぼんやりと照らしていた。凛は一人、静かに刀の手入れをしていた。彼の手は慣れた動きで刃を拭き、光沢を確認している。その様子は静かだが、どこか緊張感が漂っていた。


 対面のテーブルには光里が座っていた。彼女の前には矢筒が置かれ、一本ずつ矢を整えているが、その手つきにはどこかためらいが見える。彼女の視線は何度も凛に向かっていたが、言葉を出すタイミングを測っているようだった。


「凛さん……」


 静寂を破るように、光里の小さな声が部屋に響いた。


 凛は手を止めず、刀の刃に視線を向けたまま答える。


「どうした?」


 その声はいつも通り落ち着いていたが、光里にとっては少し距離を感じさせるものだった。彼女は矢をそっと置き、胸の前で手を握りしめた。


「影獣と戦うとき……怖くないんですか?」


 光里の問いに、凛の手が一瞬止まる。その質問は、単なる興味から出たものではなく、何か深い悩みから来ていると感じ取った彼は、目を上げずに答えた。


「怖くないわけじゃない」


 静かにそう答えた彼の声には、長い戦いを経験した者特有の重みがあった。光里はその言葉を聞きながら、続けて問いを投げかけた。


「それでも……戦えるのは、どうしてですか?」


 凛は刃を最後に一拭きすると、刀をそっと膝の上に置いた。しばらく黙ったまま、部屋の外から聞こえる風の音に耳を傾けているようだった。やがて、彼は静かに口を開いた。


「最初は、俺も怖かった。毎回そうだった。だが、怖さに飲まれたら守るべきものが守れない。それだけだ」


 彼の言葉は簡潔だったが、その背後には多くの感情が潜んでいるようだった。光里はその答えに納得しきれず、少し震えた声で問い続けた。


「それって……辛くないんですか?」


 光里の声には、彼女自身の迷いや恐怖がにじんでいた。彼女は影獣との戦いに直面するたび、凛のような覚悟が持てない自分に対する苛立ちを感じていた。


「辛いかどうかなんて考えたことはない」


 凛は目を細めながら答えた。その視線は鋭く、まるで目の前の光里ではなく、もっと遠い過去を見ているかのようだった。


「戦場で考えるのはただ一つ――どうすれば次の瞬間も死なずにいるか。それ以外を考える余裕なんてない」


 その言葉は冷たく聞こえたが、光里には凛がどれほど厳しい現実の中を生き抜いてきたかが伝わってきた。


 光里は視線を落とし、テーブルの端を見つめた。手元の矢筒に手を伸ばすが、指先が震えている。


「でも……私にはそんなこと、できそうにありません……」


 その小さな声は、彼女の心の底から漏れた本音だった。凛のように強くなりたいと願う一方で、自分の弱さに押しつぶされそうになっていた。


 凛は光里の言葉に反応し、彼女に目を向けた。その目には、わずかだが優しさの光が宿っていた。


「光里、怖がることは悪いことじゃない。むしろ、それが普通だ」


 彼の声は少しだけ柔らかくなった。それは、彼が光里の気持ちを理解しているからこそ紡ぎ出された言葉だった。


「お前は、お前なりのやり方で戦えばいい。俺の真似をする必要はない」


 それでも光里は、下を向いたまま言葉を続けた。


「でも、私はもっと強くなりたいんです」


 彼女の声には、今度は迷いではなく、決意が込められていた。光里は顔を上げ、凛を真っ直ぐに見つめた。


「私は、ただ守られるだけじゃなくて……一緒に戦いたいんです。街を守る力になりたいんです!」


 その言葉に、凛はわずかに目を見開いた。光里の中に宿る覚悟が本物であることを感じ取りつつも、彼の胸には複雑な思いが込み上げてきた。


「俺の背中を追うのは簡単じゃない。それでも、覚悟があるか?」


 凛の問いかけに、光里は力強く頷いた。その目には、恐怖を超えた確固たる意思が宿っていた。


「はい。私は、もっと強くなります」


 凛は静かに立ち上がり、刀を腰に収めた。彼の動きはゆっくりだったが、その表情にはどこかほっとしたような安堵が見えた。


「なら、自分のやり方で進むんだ。それが、お前の強さになる」


 光里はその言葉に微笑みを浮かべた。そして、再び矢筒を手に取り、一本ずつ矢を収め始めた。その手つきは先ほどよりも力強さを増していた。


 窓の外では、薄明かりが夜の闇を静かに切り裂き始めていた。二人の間に交わされた言葉は、これからの戦いに向けた小さな希望の光となり、部屋を照らしていた。


 夜の拠点。静寂に包まれた廊下を、凛は重い足取りで歩いていた。彼の心には、香澄との最後の瞬間が重くのしかかっていた。刀を振り下ろした感触、香澄の安らかな微笑み、それらが繰り返し脳裏をよぎる。


「おーい、お前さん、どこまで行くつもりだ?」


 ふと、軽妙な声が背後から聞こえた。振り返ると、カゲモンがふわりと現れ、彼の横に浮かびながら揺れていた。その小さな影の体は、廊下の薄明かりの中でぼんやりと輪郭を変えている。


「俺を無視するなんて、随分と冷たいじゃねぇか」


「……そんなつもりはない」

 

 凛は低い声で返したが、どこか疲れているようにも聞こえた。


 カゲモンは一瞬彼の顔をじっと見つめた。いつもの軽口とは違う、少し鋭い視線を送る。


「お前さん、まだ香澄のことを引きずってるな」


 その言葉に、凛の足が止まった。だが、彼は何も言わずに壁際にもたれかかり、視線を逸らした。


「……引きずってなんかいない」

 

 短い返答だったが、その声には微かに揺れるものが感じられた。


 カゲモンは大きくため息をつき、彼の肩に乗るようにふわりと浮かび上がる。


「嘘つけ。そんなんで誤魔化せるほど俺は鈍感じゃねえぞ」


 凛はカゲモンを一瞥したが、すぐに目を伏せた。


「影獣化した奴を斬る。それが影の守り人の宿命だ。でもな、宿命だって簡単に割り切れるもんじゃねえんだよ」


 カゲモンの声が少しだけ低くなる。彼の言葉は軽妙さを失い、どこか悲しみを帯びていた。


「お前さんはまだ若い。だから迷うのも無理はねえ。でもな、迷い続けたら、影獣だけじゃなく自分も食われちまう。影の守り人ってのは、そんな甘っちょろいもんじゃねえんだ」


「俺だって……そんなこと分かってる」

 

 凛の声には苛立ちが滲んでいた。彼は壁に拳を軽く打ちつけるようにして立ち上がる。


「でも、俺は……あの時、本当に香澄を斬るしかなかったのか……?」


 カゲモンは静かにその言葉を聞き、わずかに首を傾けた。


「その答えが分からないうちは、お前さん、きっと進めねえな」


「進むって……?」


 カゲモンはふっと宙に浮き、廊下の窓際へと移動した。外の冷たい月光が彼の輪郭をかすかに照らし出す。


「俺もな、昔は人間だったんだぜ」


 その一言に、凛は息を呑んだ。彼の目がカゲモンに向けられる。


「お前が人間……だった?」


「驚くなよ。俺だって影の守り人の一人だった。今みたいにぬらぬらした影じゃなくて、ちゃんとした肉と骨のある人間さ」


 カゲモンは少し笑うような仕草を見せたが、その笑みにはどこか寂しげな色があった。


「俺にもな、大切な仲間がいたんだ。いや、家族と言った方が正しいかもしれねぇな。でも、そいつが影獣化した時……俺は斬るしかなかった」


 その言葉に、凛の心が揺れる。


「それが正しかったのか、今でも分からねえ。ただ、あの時、俺が斬らなかったら……もっと多くの命が失われてたのは確かだ」


 カゲモンの声が少し低くなる。その小さな目が、まるで遠い過去を見つめるように瞬きもせず宙を漂っている。


「だからか? お前は、俺に香澄を斬らせた」


 凛の問いに、カゲモンは静かに頷いた。


「そうだ。俺の経験が正しいとは言わねえ。だけど、少なくとも影獣を放置することがどれだけの悲劇を生むか、俺は知ってる。お前さんに同じ後悔を味わってほしくなかっただけだ」


 凛は拳を握りしめた。彼の心の中には、香澄の笑顔が何度も浮かんでは消えていた。


「でも、それでも……俺は納得できない」


 凛の声は震えていた。カゲモンはその言葉に耳を傾けながら、ふわりと彼の近くに漂う。


「納得なんてできなくていい。それが人間ってもんだ。後悔は一生消えない。だが、それを抱えたまま進むしかねえ。それが影の守り人の宿命だ」


 凛は目を閉じ、深く息を吐いた。そして、ゆっくりとその目を開け、カゲモンを見つめる。


「進む……か」


 その呟きに、カゲモンは小さく頷いた。


「お前さんにはその資格がある。影獣を斬り、後悔して、それでもなお進む覚悟を持つ。それができた時、お前は本物の影の守り人になる」


 カゲモンの言葉が、凛の胸の奥深くに突き刺さる。彼は無言でその場に立ち尽くし、静かな月光が二人を包み込む中で、次第に覚悟の色を宿し始める瞳を見せた。


 光里は朝焼けの中、特訓用の杖を握りしめていた。それは普通の杖とは異なり、青白い光を纏った滑らかな造形を持っていた。握るたびに手に伝わる温かさが、この杖がただの武器ではないことを感じさせる。


「これが、私を強くしてくれる……」


 訓練場の模擬影獣が動き始めると同時に、光里は杖を構えた。その動きはまだぎこちないが、目には明らかな覚悟が宿っている。


 杖を振ると、先端から薄い光の刃が放たれた。だが、その攻撃は模擬影獣に届く前に消えてしまう。


「……全然だめじゃない……」


 光里は歯を噛みしめた。汗が額を伝う中、再び構え直す。杖の光を強く集中させることができれば、模擬影獣の動きを止められるはずだと信じていた。


 隠れるようにしてカゲモンが訓練場の端から覗いている。

 

「やれやれ、朝っぱらから真剣だねぇ。そんなに気負ってたら疲れちまうぞ、お嬢さん」

 

 だが、彼は光里の決意を見て取ったのか、声をかけるのはやめてそのまま見守ることにした。


 光里は杖を強く握り、集中を高める。模擬影獣が突進してくる瞬間、彼女は杖を突き出した。杖の先端から放たれた光のエネルギーが、模擬影獣の動きを一瞬止める。続けて杖を振り、模擬影獣に強烈な一撃を与えることに成功した。


 光里は深く息を吸い込み、汗で湿った髪をかき上げた。模擬影獣の倒れた姿が徐々に消えていくのを見届けながら、彼女は杖を静かに下ろした。その表情には安堵と、わずかな自信の芽生えが見て取れる。


「少しは進歩したかな……?」


 彼女の小さな独白に答えるように、杖の先端が一瞬だけ輝きを放った。まるで「よくやった」と囁くように。


 その時、訓練場の隅で影が揺らめいた。光里が振り返ると、そこにはカゲモンがふわりと浮いていた。彼の大きな目が光里をじっと見つめ、軽口を叩く代わりに珍しく静かに頷く。


「見てたの?」


 光里は少し恥ずかしそうに目をそらしたが、カゲモンはその態度に構わず言葉を紡いだ。


「まぁな。お嬢さん、なかなかやるじゃねえか。でも……」


 カゲモンは影の触手を伸ばし、杖を軽く突いた。光里が驚いて杖を握り直すと、彼は目を細めた。


「その杖、本当に扱えるようになったと思うか?」


 光里は黙った。確かに先ほどの一撃は模擬影獣を倒すには十分だったが、それが完璧な使いこなしとは言えないことを彼女自身も理解していた。杖を手に入れて以来、その力をどう使うべきか模索し続けていたのだ。


「正直、まだわからない。でも、使いこなせるようになりたい……!」


 光里の声には決意が宿っていた。カゲモンは満足げに浮遊しながら、再び彼女を見た。


「いい答えだ。だが、その杖はただの武器じゃない。お嬢さんの意思と力、その両方がなきゃ、本当の力は引き出せねぇ」


「私の……意思?」


 光里は杖を見つめた。その滑らかな表面に刻まれた微細な模様が、彼女の息遣いに応じて淡く輝いているように見えた。


「そうさ。この杖は、お前自身を試してるんだよ。お前が迷えば、力も曖昧になる。逆に、覚悟が定まれば――」


 その言葉を遮るように、訓練場の入り口から凛が姿を現した。彼は光里の持つ杖に視線を落とし、少し驚いたように眉を上げた。


「まだ訓練してたのか。休まなくて大丈夫か?」


 光里は振り返り、凛に笑みを見せた。疲労が顔に浮かんでいるが、その瞳には決意の光が宿っていた。


「大丈夫です。私も、この杖と一緒に強くなりたいから」


 凛は彼女の言葉を聞いて一瞬だけ言葉を詰まらせた。彼自身が抱える責任や孤独を、光里もまた自分なりに背負おうとしていることに気づいたからだ。だが彼は、彼女のその覚悟を否定するような言葉を選ばなかった。


「なら、しっかり休め。疲れてる状態で戦っても、何も得られない」


 その言葉には冷たさではなく、優しさが滲んでいた。光里は素直に頷き、杖を握りしめたまま訓練場を後にした。


 その夜、光里は杖を抱えて眠りについた。彼女の夢の中で、杖は彼女を導くかのように淡い光を放ち続けていた。これまで守られる立場だった彼女が、自らを守り、他者を守るための力を手に入れる――そんな未来への予感が、夢の中で彼女を温かく包み込んでいた。


 翌朝、光里は新たな覚悟を胸に秘め、再び訓練場へと足を運ぶ。その姿には、彼女の中で何かが変わり始めたことを示す確かな力強さが漂っていた。


 朝が近づくカルマシティは、街全体を覆うような重苦しい空気に包まれていた。通常は夜明け前の準備に活気づく商店街も、この日は異様な静けさに包まれている。どこからともなく聞こえる風の音と、住民たちが小声で交わす会話が不安感を煽る。


「昨夜、南の広場で影獣が現れたってさ……」


「いや、それだけじゃない。白い魔人も見たって噂だ」


「白い魔人……まさか、街全体が奴に呑まれるんじゃないのか?」


 会話の断片が、次第に他の住民たちの耳に広がり、街の噂話として形を成していく。それをよそに、凛は商店街を一人歩いていた。彼の肩にはいつものように黒い刀が掛けられている。周囲の人々は彼を認識すると、恐れと期待が混ざった視線を送りながらも、口をつぐむ。


 だが、ある店主が勇気を振り絞り、彼を呼び止めた。


 市民の声が響く。

 

「おい! 守り人さん!」


 丸眼鏡をかけた年配の店主が、戸口から慌てた様子で手を振る。凛は足を止め、冷静な表情で彼を見つめた。


「影獣や白い魔人の噂は本当なのか? 俺たちはどうすればいい?」


 店主の声には、怒りと不安が混じっていた。彼の言葉に反応して、周囲の住民たちが次々と集まり、凛の周囲に人だかりができる。


「守り人は何をしているんだ? 最近の影獣は強くなりすぎてる!」


「白い魔人が現れたら、どうすればいいんだ?!」


 群衆の声が次第に大きくなり、凛を取り囲む人々の表情には、恐怖と苛立ちが混ざり合っていた。彼らの目は、凛に希望と解決を求めるものでありながら、その裏にある不信感も隠せない。


「守り人が何とかしてくれるって言うけど、毎回間に合わないじゃないか!」


 その言葉が放たれた瞬間、群衆がさらにざわめく。彼らの不満と恐怖が一つになり、凛に向けられる視線が一層鋭くなった。


 凛はその場で静かに立ち止まり、群衆を見回した。その瞳には冷静さと疲労が混じり合っている。


「俺たちは街を守るために全力を尽くしている。それだけだ」


 短く冷たい口調でそう答えると、凛は再び歩き出した。


 光里の報告が耳に刺さる。

 

「凛さん!」


 人だかりをかき分けるように、光里が慌てて駆け寄ってきた。その顔には焦りと緊張が浮かんでいる。


「どうした?」


「北の地区で新たな影獣の出現が確認されました。複数体で、規模が大きいらしいです。守り人部隊は向かっていますが、手が足りないとのことです」


 その報告を聞いた瞬間、凛は小さく頷き、光里に続くよう促した。


「すぐ向かう。準備はいいな?」


 光里は頷いたが、その表情にはわずかな不安が残っていた。


 凛と光里が歩き出すと、背後から群衆の声が再び響いてきた。


「守れるのか? 本当にこの街を守れるのか?」


 その声が凛の耳に届き、一瞬彼の足が止まる。彼は振り返ることなく、前を向いたまま小さく呟いた。


「……守る。それだけだ」


 その言葉には、誰にも見えないほどの重圧と孤独が込められていた。光里は凛の横顔を見つめながら、彼の背負う責任の重さを改めて感じ取った。


「凛さん……」


 光里が言葉をかけようとしたが、凛はそれを遮るように静かに言った。


「光里、お前もこの街を守る一人だ。自分の役割を全うしろ。それで十分だ」


 その言葉に、光里は小さく頷きながらも、彼の孤独をどうにかして和らげたいという気持ちが膨らんでいった。


 北の地区へ向かう道中、街の外れに差し掛かった凛は、立ち止まって目を閉じた。深く息を吸い込み、握りしめた刀の感触を確かめるように静かに目を開ける。


「俺が守る。それ以外のことは考えない」


 彼の言葉には決意が込められていたが、その奥には迷いと疲労が見え隠れしていた。光里は凛の横でその様子を見守り、静かに口を開いた。


「私も……一緒に戦います。凛さん一人で抱えないでください」


 その言葉に、凛は一瞬だけ彼女を見つめ、小さく頷いた。


「分かった。だが無理はするな。俺たちが守るべきものは、この街だけじゃない――お前自身もだ」


 光里はその言葉を胸に刻み、二人は再び歩き出した。カルマシティの灯りが背後で揺らめく中、彼らの足音が静かに響いていった。


 北の地区が見えてきた頃、凛は遠くに漂う黒い霧を目にした。その霧は影獣の存在を示すものであり、彼らを待ち受ける危険を知らせていた。


「……行くぞ」


 凛は刀を握りしめ、静かに足を速めた。光里も彼の後に続く。彼らの背中には、カルマシティ全体の期待と不安が重くのしかかっていた。


 その先に待つ戦いが、街の未来を左右するものになる――そんな予感を胸に、二人は霧の中へと足を踏み入れていった。


 廃工場から戻った慈端は、拠点の一室に籠っていた。部屋の中には最新鋭の分析機器が整然と並び、壁際には影の守り人たちが使用する特殊装備が収められている。彼の眼前には、廃工場で回収した白い金属片が鎮座していた。その表面は滑らかで冷たく、微細な紋様が脈動するように変化していた。


 慈端はゴーグルを装着し、端末のキーを素早く操作する。金属片から読み取られるデータが画面に次々と表示されるたびに、彼の眉間には深い皺が刻まれた。


「くそ……見たことのない波形だ。このエネルギーは何だ……?」


 彼の手元の端末がけたたましい警告音を鳴らし始めた。「異常エネルギー反応検出」という赤い文字が画面いっぱいに点滅している。慈端は焦ることなく冷静にデータを読み解き、そのエネルギーの性質を解析しようとしていた。


「通常の影獣エネルギーではない……これはもっと純粋で、破壊的なものだ。まるでこの世界に属していない……」


 彼は深く息を吸い込み、冷静さを取り戻すと、金属片の周囲に特殊な保護フィールドを展開する装置を起動した。青白い光が金属片を包み込み、その脈動が徐々に静まりかえった。


 その時、部屋の扉が勢いよく開かれた。凛が険しい表情で部屋に入ってくる。その背後には、焦りを隠せない光里の姿があった。


「慈端、報告を聞かせてくれ」


 凛の鋭い声に、慈端は一瞬だけ手を止め、振り返る。彼の顔には疲労の色が浮かんでいた。


「これを見てくれ」


 慈端は端末の画面を凛に見せる。そこには不規則に跳ね上がる波形が映し出されていた。その波形は通常の影獣が持つエネルギーのそれとはまったく異なるものだった。


「廃工場で見つけた白い金属片から検出されたエネルギーだ。この波形を見れば分かるだろう――これは影獣のものじゃない」


「影獣のものじゃない……?」


 光里が驚いたように呟く。その言葉を聞いた慈端は深く頷き、説明を続けた。


「おそらく、これが『白い魔人』の力の一端だ。通常の影獣エネルギーの倍以上の密度を持つ、未知の力だ。それだけじゃない――この波形は、かつて記録した『奈落の意思』と酷似している」


「奈落の意思……?」


 凛が低い声で問い返す。その言葉を聞いた光里の顔が青ざめた。奈落の意思。それは影獣の起源とも言われる禁忌の存在であり、影の守り人たちが何世代にもわたって阻止し続けてきた脅威だった。


 慈端は冷静に画面を指し示しながら続ける。


「『奈落の意思』とは異なるが、これに近いエネルギーを放つ存在が他にいないとすれば、白い魔人が奈落の門を開くための力を蓄えている可能性が高い。もし門が開けば……この世界は終わる」


 その言葉に、光里が息を呑む。凛もまた、一瞬だけ表情を強張らせた。


「奈落の門が開けば、影獣の力が無尽蔵に溢れ出し、この街だけでなく、人間の社会全体が飲み込まれる。白い魔人がそれを目論んでいるとしたら……」


 慈端は言葉を区切り、金属片を見つめた。その眼差しには恐怖と疑念が混じっている。


「慈端、その金属片を使って白い魔人の居場所を追跡することはできるのか?」


 凛が冷静な声で尋ねると、慈端は一瞬だけ視線を伏せ、答えた。


「……理論上は可能だ。ただし、リスクが高い。このエネルギーは尋常ではない。追跡を試みれば、逆に奴にこちらの存在を感知される可能性がある」


「それでもやるしかない」


 凛は断固とした口調でそう告げた。その目には迷いがなかった。しかし、慈端はため息をつきながら首を横に振る。


「問題は、それだけじゃない。この金属片が放つエネルギーは、人間の理解を超えたものだ。これを扱うには慎重を期す必要がある。下手をすれば、俺たちが手を下す前にこの街全体が影に呑まれるかもしれない」


 慈端の言葉は静かだが、その一語一語が重く響いた。


 静寂が部屋を包む中、凛が口を開く。


「それでも、俺たちは進むしかない」


 その声には確固たる決意が込められていた。光里が不安そうな顔で凛を見つめるが、彼の目は鋭く、迷いを微塵も感じさせなかった。


「慈端、お前の知識が必要だ。奴を追跡し、奴の計画を止める。それが俺たちの役目だ」


「分かった」


 慈端は短く答え、再び端末のキーを叩き始めた。その姿を見つめながら、光里が小さく呟いた。


「本当に……止められるんでしょうか?」


 その言葉に凛は振り返り、彼女を真っ直ぐに見つめる。


「止める。それしかない。俺たちがここで諦めれば、街も、人々も、すべてが消える。それを俺たちは許せない」


 光里はその言葉を聞いて小さく頷いた。その目にはわずかな迷いが浮かんでいたが、次第に覚悟が宿り始める。


 慈端が再び金属片を調べていると、端末が再び警告音を発した。保護フィールドに包まれた金属片が、一瞬だけ強く輝き、その紋様が大きく変化した。


「……これは……?」


 慈端は驚きの声を上げた。その金属片はまるで意思を持っているかのように、脈動を強めていた。その光景を見つめる凛と光里も、ただその場で立ち尽くすしかなかった。


「白い魔人……お前は一体何者だ?」


 慈端の呟きが、部屋の静寂に溶けていく。その背後で、金属片の光が再び静まりかえる。だが、その静寂の中には、確実に次なる戦いの気配が漂っていた。


 凛と光里は決意を胸に秘め、次の行動へと向かう準備を整える。新たな戦いは、既に彼らのすぐ傍まで迫っていた。

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