第13話:決意の瞬間

 凛の視界は霞み、意識が遠のきかけていた。全身に走る痛みと、まともに立てないほどの疲労が、彼を襲い続けている。それでも彼は、よろめきながらも光里を抱きしめ、足を止めることなく歩み続けていた。凛の血で汚れた手が光里の肩を支え、彼女の小さな体を守る決意だけが、彼の最後の力を振り絞らせている。


「凛さん……もう無理しないで……」光里の震えた声が耳に届く。彼女の瞳には涙が浮かび、限界寸前の凛を見ているのが辛いのだと、その表情から痛いほどに伝わってくる。


「光里、大丈夫だ。俺が……絶対に守る」凛は掠れた声で答え、微笑もうとするが、その口元には疲労と痛みの色が滲むばかりだった。それでも彼は、足を止めるわけにはいかなかった。


 ふと、記憶が蘇る。数時間前、彼は仲間たちと別れる瞬間を迎えた。カゲモンが彼の前に立ち、深く息を吸い込みながら言った。


「凛、俺たち皆、お前を信じている。お前がどうしても守りたいものを守り抜くと、そう信じてるんだ」


 その言葉が、今も凛の胸を支えていた。無明の力と向き合い、その中で感じた孤独。しかし、仲間や光里と心を通わせることで、その孤独は少しずつ和らぎ、彼らが寄せる信頼が凛の最大の支えになっていた。


「俺は……一人じゃない。光里や、皆が俺を待っている」


 その思いが、凛の内なる力を再び引き起こし始めた。しかしその矢先、不気味な唸り声が霧の向こうから響き、暗闇の中から巨大な影が姿を現した。禍々しいオーラをまとった、大型の影獣がそこにいた。


「来やがったか……」


 凛は刀を構えたが、足元がふらつき、視界がぼやけて影獣が二重に見える。体が言うことを聞かない。彼は必死にもう一度呼吸を整え、光里に向けて力なく微笑む。


「光里、お前を守るために……俺は絶対に倒れない」


 だがその言葉とは裏腹に、凛の体は限界を超えていた。痛みが全身に走り、彼の足元が揺らぐ。光里が泣きながら凛にしがみつこうとしたその瞬間、空間が不穏に揺れ、深い闇の亀裂が走るようにひび割れた。冷たい風が吹きすさび、裂け目の奥から禍々しい存在感が滲み出してくる。


「ふふ……ようやくお目にかかれたわね」


 ひび割れた空間の裂け目から、現れたのは漆黒のオーラを纏った女性。冷酷さと美しさを兼ね備えたその姿は、凛が知っている結女と瓜二つだが、彼女とは全く異なる禍々しい雰囲気を漂わせている。彼女の周囲には黒い霧が立ち込め、裂け目から冷たい風が漏れ出す。


「誰だ……?」凛は歯を食いしばりながら問いかける。


「私は黒結女くろゆめ。お前が初代の器、つまり私が奈落の深淵から甦らせた理想そのものよ。お前が無明の力に染まり、私たちの一部になる時が来たのよ」


 その言葉に、凛の胸に不安が広がった。初代の器と呼ばれる意味、そして黒結女の出現が示唆するもの。それは、凛が無明の力に浸食されつつある証なのかもしれない。


 突如現れたカゲモンが黒結女を睨みつけ、凛と光里の前に立ちはだかった。「結女、お前……いや、黒結女。この場に現れたということは、お前が望むようにことが運んでいるとでも?」


「ふふふ、その通りよ、カゲモン。凛が求めた力、それが私たち無明の闇に浸透し、影獣の存在に限りなく近づきつつある……まさに、私が待ち望んだ器そのものよ」


 黒結女は楽しげにそう告げると、再び冷たい視線を凛に向けた。「凛、私の力を試してみる? お前がどれほどの覚悟を持ち、何を代償に捧げられるか、その力を確かめる時が来たわ」


 黒結女の言葉が耳に響く中、凛の心の奥から、重く低い声が聞こえてきた。それは、無明の声だった。


「力が欲しいか……守りたいのだろう? ならば、我を受け入れよ……だが、我が力には代償が伴う。お前がその代償を払う覚悟があるなら、無明の闇と共に戦う力をくれてやろう」


 その声は冷酷さと誘惑の混じった響きで、凛をさらに揺さぶる。無明の力には奈落が宿り、影獣と限りなく近い存在となる代償が伴うことを告げられた。凛はその言葉に一瞬ためらったが、光里の姿が目に映り、彼女を守り抜くためには迷っている時間などないと感じた。


「俺は……選ぶ。どんな代償があろうと、光里を守るためなら、この力を使う」


 凛の決意が固まった瞬間、彼の体内に黒い波動が溢れ出し、凛の周囲に闇が集まり始めた。その圧倒的なエネルギーが黒結女にさえ圧力を感じさせ、彼女は微笑みながらも、その瞳には少しの驚きが浮かんでいた。


「我を求めよ! 我を呼べ!」無明の声が凛の胸の内に響く。


 そして、凛は覚悟を決めた――。


「夜叉参る!」


 凛がその言葉を結ぶと、漆黒の翼が背中から現れ、瞬く間に黒い鎧が彼の体を包み込んでいく。

 黒と金が織りなす鎧は、闇に咲く孤高の輝きだった。漆黒の装甲は体に密着し、筋肉を際立たせる。刃のような金の装飾は炎のごとく煌めき、見る者の心に刺さる冷たい威厳を放つ。

 ヘルメットは悪魔の王を彷彿とさせ、赤く燃える瞳が冷酷な光を宿す。風に揺れる黒いマントは夜の闇そのもの。動くたび鳴る金属音は、死神の訪れを告げる鐘のようだ。


 その姿は、戦場に降り立った覇者。圧倒的な威容で、ただ立つだけで周囲のすべてを支配していた。


 光里はその凛の変貌に息を呑み、カゲモンもまた、その圧倒的な闇の力に表情を固めて見入っていた。


「なるほど、見事な覚醒ぶりだな、凛。だが、その力で私にどれだけ抗えるか、見せてもらおうかしら?」


 黒結女は鋭い目つきで凛を見つめ、ゆっくりと距離を詰める。彼女の漆黒の衣装が闇に溶け込むように揺れ、周囲の空間が歪む。黒結女が手をかざすと、周囲の影が濃くなり、まるで自らが奈落の闇そのものになったかのように凛へと迫ってくる。


「カゲモン、光里を頼む。ここは俺が……」


 凛の言葉に、カゲモンは無言で頷き、光里をそっと背後に守りながら後退する。彼の表情には凛に対する信頼と、目の前の圧倒的な敵への警戒が滲んでいる。


「凛さん……気をつけて……!」光里の小さな声が、凛の背中を押すように響いた。


 凛は黒羽の夜叉として覚醒した力を感じながら、冷静に黒結女を見据えた。その背後に広がる漆黒の翼が微かに動き、空気が震えるように冷たく張り詰める。


「お前に、ここで全てを終わらせる力があるのか試してみよう」黒結女が口元に薄く微笑を浮かべると、その手に漆黒のオーラが集まり始め、暗黒の刃を生み出した。その刃は凛の黒羽の鎧と似た漆黒の輝きを放ち、無明の力が二人の間でぶつかり合い、周囲の空間が軋みを上げる。


「覚悟はいいか、凛? その力で私に抗えるかどうか――」


 黒結女が一瞬で間合いを詰め、闇の刃を振り下ろす。凛もまた、黒い鎧の中に蓄えた暗黒の力を解き放ち、漆黒の刀を構える。二人の刃がぶつかり合った瞬間、凄まじい衝撃波が辺り一帯を吹き飛ばし、地面がひび割れる。


 凛の体に、無明の力がさらに深く浸透していく感覚があった。黒羽の夜叉の力は凄まじいが、その代償として、自らが影獣や無明に近づいていくという恐怖も同時に感じていた。


 凛の内面には、無明の力が深く入り込むことで、影獣と同化していくような暗い恐怖がじわじわと広がっていた。圧倒的な力を手に入れた代わりに、心の奥底で何かが失われていく感覚――それは、自分が自分でなくなっていく兆候のようだった。


「どうした、凛? その力はお前に過ぎたものだったかしら?」黒結女が冷笑し、凛のわずかな躊躇と苦しみを楽しむように見つめる。


「俺は……まだ終わらない……!」


 凛は必死に自分の内側で暗黒の力に抗いながら、体の中に湧き上がる闇の波動を利用する決意を固めた。自分が影獣に近づき、奈落の深みに引き込まれようと、守るべきもののためには、この力を放棄するわけにはいかない。


 黒結女はその凛の強い意思を見透かすように、一瞬驚きを浮かべたが、冷たく微笑んでいた。


 「私たちの闇を受け入れながら、それでも抗い続けるだなんて……愚かで愛おしいわ」


 凛が再び黒羽の夜叉の力を解き放つと、背中の漆黒の翼が大きく広がり、黒結女に向かって一直線に突進した。闇を裂くかのような一撃が、空気を引き裂いて轟音を響かせる。


 黒結女も一瞬の隙を見逃さず、暗黒の力を宿した刃で応戦する。二人の間に激しい闇の衝撃波が生まれ、黒結女の周囲を取り巻く影が徐々に砕け散っていく。だが、凛もまた、無明の力を解放するたびに、影の奥底へと引き寄せられるかのような感覚に囚われていった。


「お前の力がどれほど強くとも、闇に飲まれていくお前に私を打ち破ることはできない」


 黒結女の冷徹な言葉が凛の耳に突き刺さる。影獣に限りなく近づいていくという事実が、彼をさらに追い詰めていた。


「俺は……守るために戦っている。この力がどんな代償を伴おうとも、俺は光里を……仲間たちを守る!」


 凛が再び叫び、力を振り絞ると、黒結女の防御が一瞬崩れ、その姿がわずかに後退する。彼女の表情にわずかな驚きが見え、瞬間的に気持ちを引き締めた。


 黒結女はそのまま冷たく笑みを浮かべ、凛の覚悟とその力を讃えるように言った。


 「凛、よくここまで抗ったものだわ……。けどね、この先も闇の道を歩み続けるのなら……。その魂がどうなるか――楽しみにしているわ」


 その言葉と共に黒結女は裂け目の中へと姿を消し、影はゆっくりと闇の中に溶け込んで消えていった。再び静寂が戻り、凛はその場に立ち尽くしながら深く息を吐いた。闘いの中で解き放った無明の力が、今なおその身に残り、彼を浸食しているような感覚があった。


「凛さん!」光里が駆け寄り、彼の肩に手を置く。その温もりが、凛の疲弊した心と体を少しずつ癒やしていくようだった。


「大丈夫か、凛?」カゲモンも傍に寄り、彼を支えるように見守る。凛は息を整えながら、仲間たちの視線を感じて微かに頷いた。


「俺は……まだ戦える。黒結女が示唆した通り、俺の中に闇が浸透しているとしても、それで守れるものがあるなら……俺はこの力を使い切る覚悟だ」


 凛の言葉に、光里とカゲモンもまた力強く頷く。それぞれの表情には、不安と同時に凛に対する信頼が宿っていた。


「凛、俺たちはお前と共にいる。この先、どんな困難が待ち受けていようとも、お前が望む限り俺たちも共に戦う」


 カゲモンの言葉に、凛の心がわずかに温かさで包まれた。それでもなお、黒結女の言葉が胸の奥で重く響いている。闇の力と奈落の深淵が、いずれ凛を飲み込むのではないかという不安。しかしその不安を越えて、凛は決意を固める。


「ありがとう、カゲモン、光里。俺はこの先も戦い抜く……どんな代償を払ってでも、皆を守り抜く」


 彼は静かに立ち上がり、仲間たちと共に次なる戦いへと歩を進めた。闇に包まれる先に待つ運命を見据えながら、凛の心には光里や仲間への想いが燃え続けている。そしてその想いが、彼に闇の力をも支配する希望を与えていた。


 破滅という名の希望にすがり、凛は最終決戦へと向かって静かに動き出していた。

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