第10話:絶望の影

 夜も深まり、カルマシティは濃い霧に包まれていた。空気には張り詰めた緊張が漂い、街の隅々までが冷え切っている。凛、玲音、そしてカゲモンは、ついさっき巨大な影獣を倒したはずだったが、その亡骸はすぐに霧の中へと消えてしまった。そして、ただならぬ異様な気配が周囲に広がり始めている。


「倒したと思ったが、これで終わった気がしないな……」と凛は鋭い視線で辺りを見渡し、緊張の面持ちを崩さなかった。


「いやな感じだぜ、まるでさっきの影獣がどこかからまた湧き出してくるような……」カゲモンが小さな声でつぶやく。


「影獣の気配が増している……一度倒したはずなのに、何度でもよみがえるつもりかもしれない。」玲音の声も重く響く。


 その時、霧の中から複数の影が再び現れ始めた。それは倒したはずの影獣にそっくりの姿をしており、次々と黒い霧を纏いながら無言の圧力を二人にかけている。


「また……復活したのか?」凛は信じられないという表情で呟いたが、すぐに刀を握り直した。


 玲音はその場で封印術の準備を整えながら、冷静に霧の向こうを睨みつけた。「影獣の復活が以前よりも早いわ。奈落の意思が、影獣を強化し続けているように思える。」


「まるで……奴らが俺たちをじわじわと消耗させようとしているみたいだ……」凛の言葉には、自らを奮い立たせるような怒りが滲んでいたが、その瞳にはかすかな迷いが浮かんでいた。


 ふと通信機が鳴り、司令官の冷静な声が響いた。「凛、玲音、すぐに退避せよ。影獣の数が予測を超え、カルマシティ全域で大規模な侵攻が始まっている。お前たちだけでは対処不可能だ」


 その冷酷な判断に、凛は動揺を隠せなかった。「街の人々はどうなるんだ? 俺たちが引いたら誰がこの街を守るんだ!」


「現状ではお前たちが生き延びることが最優先だ。援軍も遅れている。即時退避しろ」司令官は非情にも、無線越しにそう告げる。


 玲音も言葉を失っていた。「……人々を守るための影の守人だったはずなのに、どうして……」


 その時、再び通信機に雑音が混じり、司令官の声が途切れた。代わりに聞こえてきたのは、遠くから街の各地で戦闘が起こっている音や、叫び声だった。援軍が到着する様子もなければ、状況が安定する兆しもない。


「このままじゃ、俺たちも街も……」凛は苦しげに言葉を呑んだ。すべてが手遅れになるのではないかという不安が心を締め付けていた。


 玲音が凛の顔を見つめ、険しい表情で頷いた。「凛、援軍が来ないなら、私たちだけでこの状況を打開するしかないわ」


 その言葉に凛は力強く頷き、刀を構え直した。しかし、その瞬間、闇の中からさらに数体の影獣が現れ、二人を囲むように立ち塞がった。影獣たちはまるで凛と玲音が立ち向かう意思を持ったことに反応したかのように、牙を剥き出しにして一歩一歩じわじわと近づいてくる。


「数が増えている……影獣の力が、何かに引き寄せられているみたいね」玲音はその異様な気配を感じ取り、低くつぶやいた。


「奴ら……俺たちを追い詰めるために現れてるのか……」凛もまた、影獣たちの底知れない恐ろしさに背筋が凍る思いだった。


 影獣たちは一斉に襲いかかり、凛と玲音はその猛攻に必死に応戦し始めた。刀と封印術で次々と影獣を撃退するが、倒しても倒しても新たな影獣が霧の中から湧き出てくる。無限のように湧く影獣たちに、二人の体力は徐々に消耗していく。


「このままじゃ、奴らに飲み込まれる……」玲音は額から流れる汗を拭い、術の力を振り絞って封印術を放ち続けたが、その効果もわずかな間しか続かない。


「でも……俺たちにはもう、退く場所なんてない……!」凛は刀を握りしめ、残された力を奮い起こすように叫んだ。


 やがて、凛と玲音の周りにいる影獣の数はこれまで見たこともないほど膨れ上がり、彼らを取り囲むようにして霧の中で黒く渦巻いていた。その姿は、まるで奈落の意思そのものが形を変えて二人を飲み込もうとしているかのようだった。


 玲音が小声で凛に言った。「このまま戦っても無意味かもしれない。でも、私たちはここで全てを投げ出すわけにはいかない」


「そうだな、玲音。俺たちが影の守人として戦う意味を、ここで見失うわけにはいかないんだ」凛の声はかすれながらも、その目には決意が宿っていた。


 そうして二人は再び影獣たちの群れに向かって立ち向かったが、その戦いは一層厳しく、消耗の色が二人の顔に浮かび始めていた。援軍が来ないという現実が重くのしかかり、霧が深まるごとに凛と玲音の孤立感が増していった。


 さらに影獣たちの数は増え続け、街全体が次第に黒い霧に覆われつつあった。この戦いが終わりの見えないものであることを実感しながらも、凛と玲音はただ静かに刀を構え直し、互いを見つめ合った。


 その時、二人の周囲に漂う霧の中に、暗く巨大な影が浮かび上がり、彼らの行く手を阻むように立ちはだかった。漆黒の立方体のようなそれは、「奈落の意思」の核に違いなかった。


「玲音、あれが……影獣を生み出している核……」


 凛の言葉が震えると同時に、奈落の意思が黒い霧を広げ、強烈な威圧感を放ち始めた。影獣たちはさらに凶暴な動きで二人に襲いかかり、その暗黒の波動が二人の体力と精神を蝕むように圧し掛かる。


 玲音は必死に術を唱え、奈落の意思の核に対抗しようとしたが、その強大な力の前では封印も一瞬でかき消されてしまった。


「凛……このままでは……」


 玲音の言葉が途切れる中、凛もまた限界を感じながら、それでも刀を握り締め、奈落の意思の核を見据えた。しかし、その瞬間彼の視界は霞み、全身に襲い掛かる疲労が力を奪っていく。


「玲音、ここで引き下がるわけにはいかない……!」


 彼の言葉にはかすかな迷いがあったものの、二人は再び力を振り絞り、奈落の意思と対峙する覚悟を決める。だが、影獣たちは絶え間なく二人に襲い掛かった。もはや援軍が来ない状況で、戦いの終わりが見えないことを悟りながら、二人の希望は少しずつ薄れつつあった。


 霧が一層深くなり、空気は凍りつくように冷たかった。凛と玲音は、押し寄せる影獣たちに次々と立ち向かうが、増援もなく、徐々に限界が近づいているのを実感していた。


「くそっ、終わりが見えない……」凛は血をにじませた手で刀を握りしめ、必死に闘志を奮い立たせるが、その腕には疲労が重くのしかかる。


 玲音もまた息を切らし、封印術を何度も放つが、霧の奥から新たな影獣が次々と現れる。「凛……私たち、こんなに戦っているのに、一体いつまで……」


 その時、不意に霧が静かに動き、先ほどよりも一層暗い影が二人を包囲するように広がった。目を凝らすと、凶悪な形状の影獣が、黒い波のように二人の周りを取り囲んでいる。


「まるで奴らに……挑発されているようだな」凛は苛立ちと絶望が混じる表情で言い、刀を構え直した。


 玲音も霧の奥に潜む影獣の目をにらみ返し、静かに言った。「きっと奴らの意図は、私たちを疲弊させ、そして……奈落の意思に飲み込むこと」


 影獣の群れはじりじりと距離を詰め、まるで二人を完全に包囲しようとするかのようだった。彼らの息遣いすら聞こえるほどに近づく中で、凛の心は恐怖と迷いに揺れ動いていた。


「玲音、もし……もし俺たちが、ここで戦いを終えるために全てを賭けるなら……」


 玲音は凛を真剣に見つめ、震える手をそっと凛の肩に置いた。「凛、この状況で後悔なんてできない。私たちがここで立ち向かわなければ、奈落の意思はきっと、街の人々を、すべて飲み込んでしまう」


「玲音……」


 二人は互いを見つめ合い、覚悟を確かめ合った。援軍が来ない現実に、背後に退く道はもうなく、自らの力で突破する以外に道は残されていなかった。


 影獣の群れはついに二人に向かって突進を始めた。玲音は再び封印術を放ち、凛も無明の力を刀に込め、一体一体を懸命に斬り伏せていく。しかし、倒しても倒しても次から次へと影獣が現れ、凛と玲音の体力は限界に達しつつあった。


「これで終わりじゃない……」


 玲音は息を切らしながらも、再び霧の中に立つ影獣たちを見据え、力を振り絞った。しかし、術の効果も長続きせず、影獣の力が増していることに気づくたび、二人の希望は少しずつ打ち砕かれていった。


「凛、私たちにとって、この戦いには本当に意味があるのかしら……」


 玲音の言葉に、凛もまた答えに詰まり、視線を霧の奥へと向けた。倒れゆく影獣が次々と黒い霧と化して消え、再び闇の中に溶け込んでいくのを見ていると、まるで自分たちの努力がすべて無に帰していくような絶望感が、凛の心を締めつけた。


「玲音、俺たちは、こんなにも戦ってきたのに……」


 しかし、その瞬間、霧の奥にぼんやりとした光がかすかに見えた。凛と玲音は、暗闇の中でふと視線を合わせると、再びお互いを鼓舞するように微笑みを交わした。


「もしかしたら……あれが俺たちの最後の望みかもしれない」凛が静かに言った。


 玲音も力強く頷き、その光に向かって再び前進する決意を固めた。「行きましょう、凛。最後まで、私たちの信じるものを守り抜くために」


 再び刀を構え直し、影獣の群れをかき分けるように、二人は光へと進んでいった。その光が何を意味するのかはわからなかったが、凛と玲音はわずかな希望にしがみつきながら、孤立した戦場を進み続けた。


 影獣たちが迫りくる中、二人はただ、自らの信念と希望だけを胸に抱き、再び奈落の意思の核心へと向かっていくのだった。


 光がわずかに遠のくたびに、凛と玲音の足取りも重くなっていく。疲労と苦痛が全身に染み渡り、影獣たちは休むことなく彼らを攻め立てていた。二人は無数の爪や牙をかわし、時には防ぎながら、必死に最後の望みへと歩みを進めていた。


「玲音、あと少しだ、あの光まで……」凛が声を振り絞るが、その声もかすれている。だが玲音は無言で凛の背中に寄り添い、支え合うように進む。


 光は確かに近づいている。しかし、それに比例するかのように影獣の勢いも増し、彼らの意志を打ち砕こうとしていた。巨大な影獣が黒い霧を纏って立ちふさがり、まるで出口を封鎖するかのように二人を囲む。


「やっぱり、奴らはここで私たちを絶望させるためにいるんだ……」玲音が囁くように言った。彼女の顔には不安と疲労が浮かんでいたが、その瞳にはまだ消えぬ光が宿っていた。


 凛も覚悟を決めるように深く息を吸い、刀を握り直した。「玲音、俺たちで道を切り開くしかない。これが最後のチャンスだ」


 玲音は静かに頷くと、再び封印術を詠唱し始め、影獣の動きを一瞬でも止めようと試みた。術が成功するたびに、凛はその隙を逃さず、一撃ずつ影獣たちを斬り裂いていった。だが、それでも影獣の数は衰えることなく、まるで無限の源から湧き出しているように、次から次へと現れてくる。


「まるで……まるで終わりがないんじゃないかと思える……」凛がついに口にしたその言葉は、彼らの心の奥底に潜む恐怖と絶望を映し出していた。


 玲音も目を伏せながら、小さく首を振った。「でも、あの光がある限り、私たちは進むしかない」


 その瞬間、影獣の一体が猛然と突進してきた。凛が刀を振り下ろすが、影獣は一瞬で霧のように分散し、別の場所から再び現れる。まるで彼らの疲労と焦りを狙うかのように、影獣は不規則な動きで二人を攻め立てた。


「やはり、俺たちが倒せば倒すほど、奴らは増えているんだ……」凛は愕然とした表情で立ち尽くす。


 玲音はその言葉に一瞬動揺を見せたが、再び彼を励ますように目を合わせた。「この戦いが無意味に見えても、信じるものを守るために進まなければならないわ」


 凛も玲音の言葉に再び気力を奮い起こし、刀を構え直した。「そうだな。俺たちでこの戦いを終わらせるしかないんだ」


 二人は再び息を合わせ、影獣たちの間をかき分けるように進んだ。だが、影獣の攻撃がどんどん激しくなる中、光までの距離はまだ遠いように感じられ、彼らの体力は限界に近づきつつあった。


「玲音、俺たちがどこまで行けるか分からないが……」凛が疲れ切った声で言った。


 玲音は静かに頷き、彼の手をそっと握った。「どんな終わりであっても、私たちが信じた道を進もう」


 そして二人は再び立ち上がり、最後の一撃に全てを込めるように、目の前の影獣たちに突き進んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る