第9話:闇の中で見つけた光
カルマシティの夜は冷たい霧に包まれ、街全体が不気味な静寂に飲み込まれていた。遠くから重い足音が響き、地面が微かに震える。それは凛たちの方へと迫るたびに、まるで空気そのものが影獣の威圧に屈しているかのようだった。
暗闇の中に、巨大な人型影獣が姿を現した。黒い霧が渦巻くその体、鈍く輝く無数の瞳は街そのものを呑み込む威圧感を放っている。その姿に凛は息を呑んだ。胸の奥で無明の力が激しくざわめき、体を支配しようとする。その誘惑に抗い、刀の柄を強く握る。
「……来たか」
凛の背後で玲音が静かに息を整え、封印札を取り出す。その隣にはカゲモンが身を潜めていた。カゲモンが低く囁く。「今回は、本当にヤバいぜ。お前、無茶はすんなよ」
凛は無言で頷くと、影獣の動きに集中する。玲音が冷静に助言を送る。「まずは動きを見極めて。油断しないで」
その言葉が終わるや否や、影獣が低く唸り、巨大な腕を振り上げた。次の瞬間、街路の一角が崩れ去り、土煙が周囲に広がる。その破壊力に凛は唇を引き結びながら影獣を見据えた。だが、その動きの中で異変を感じ取る。影獣の左足がわずかに軋んでいるのだ。
「左足だな……」と呟く凛に、カゲモンが頷く。「そいつが弱点だ」
凛は瞬時に影獣の懐に飛び込み、一閃の刃を放つ。しかし、刀がその硬い体に跳ね返される感触が手に伝わる。黒い霧に覆われたその体は、凛の全力の一撃すら通さない。
「この硬さ……」
影獣は苦痛を感じた様子を見せつつも、さらにその目を鋭く光らせ、凛を睨みつける。その様子を見た玲音が封印術を唱え、影獣の動きを一瞬封じる。凛はその隙を突き、再度左足に切り込んだ。黒い霧のような血が噴き出し、影獣は大きく後退する。
しかし、それでも影獣の勢いは衰えない。凛の心に再び無明の力の誘惑が押し寄せる。「力を解放すれば、一瞬で終わる――」その声が頭をよぎるたび、彼は必死に理性を保とうとする。
「俺は……力に飲まれるわけにはいかない」
玲音の冷静な声が凛を現実に引き戻す。「無明の力を使うなら、制御して。それがあなたの戦い方」
凛は彼女に頷き、再び影獣と向き合う。無明の力ではなく、自分の技と冷静さを頼りに――その決意を胸に刀を構えた。影獣が巨大な腕を振り下ろす瞬間、玲音の封印術がその動きを一瞬静止させる。
「今だ!」玲音の叫びに、凛は再び刀を振り下ろし、影獣の胸元に深く突き刺した。
影獣は激しくうめき声を上げ、霧の中に崩れ落ちていく。その場に静寂が戻り、凛は刀を収めながら肩で息を整えた。だが、安堵と共に胸に去来するのは一つの疑問だった。
「俺が守りたいものは……影の守人としての使命だけなのか?」
その疑問が心に影を落とした。光里との日々が脳裏をよぎる。あの平穏な生活を守るために戦う自分。しかし、自分自身はその平穏から遠ざかっている――。
影の守人の拠点に戻ると、医務室で光里が待っていた。彼女は凛の姿を見るなり駆け寄り、その腕を取る。
「また無茶したのね……」
その手当ての間、光里の手がわずかに震えているのに気付き、凛は言葉を失う。彼女の不安を理解しながらも、自分の使命を選ぶしかない現実が胸を締め付ける。
光里は傷に薬を塗りながら、小さな声で切り出した。
「ねぇ、凛……ずっと気になってたんだけど……時々、誰かを守れなかったみたいな顔をすることがあるよね。何かあったの?」
凛は一瞬驚いた表情を浮かべたが、やがて静かに視線を伏せ、口を開いた。
「……俺には妹がいた。香奈って名前だ。でも……守れなかった。影獣に襲われて、目の前で死なせてしまったんだ」
光里の手が止まり、彼の顔を見つめた。「妹さんが……そんなことが……」
凛は微かに唇を噛みながら続けた。「妹を守れなかったあの時から、俺は変わらざるを得なかったんだ――影獣を狩ることだけを目的にしていた俺が、黒華に引き止められて影の守人になれたことで救われた」
光里は凛の言葉に黙って耳を傾けた後、薬を塗る手を再開しながら言った。
「…………そんな過去があったんだね。でも、あなたは今、誰かを守ろうとしている。香奈さんが見たら誇りに思うよ」
凛は少し驚いたように彼女を見たが、すぐに微笑みを浮かべた。
「そうだといいな。……ありがとう、光里」
光里も小さく微笑みを返し、彼の傷口に包帯を巻きながら言った。
「これで、少しは軽くなった? ……でもね、無理をしすぎないで。香奈さんも、私も、あなたがいなくなるのを見たくないから」
凛はその言葉に頷き、力強く答えた。
「分かったよ。俺は無茶はしない。それが約束だ」
光里は小さく頷き、彼を送り出す準備を整える。「必ず無事に帰ってきてね」その言葉を胸に、凛は使命へと歩き出す。
再び霧の中を歩く凛と玲音。凛は霧の向こうを見つめながら、光里との会話を反芻していた。香奈のことを語り、光里の優しい言葉を聞いたことで、胸の奥にわずかな安堵が芽生えているのを感じていた。
ふと、玲音が足を止めて凛を振り返る。「光里さんの言葉、重かったんじゃない?」
凛は一瞬驚いたように彼女を見たが、すぐに微笑んで頷いた。「ああ……でも、あいつが言う通りだ。俺自身を守ることも、守るってことなんだと思う」
玲音は目を細めながら凛をじっと見つめた後、はっきりと告げた。「自分を犠牲にするのはもうダメ。もう意味がないわ」
その言葉に、凛は少しだけ目を見開いた。玲音の言葉が的確すぎて反論できなかったのだろう。「……ああ、そうだな。ありがとう、玲音」
玲音は肩をすくめて歩き出しながら続ける。「次の戦いでは、その覚悟を見せてもらうわよ。それがあなたらしいやり方なんだから」
凛は彼女の後ろ姿を見つめた後、力強く頷き、刀を握り直した。香奈を守れなかった悔しさを胸に秘め、今は光里や玲音、そして街の人々を守る覚悟を新たにする。影の守人としての使命を胸に、彼は次なる戦いに向けて静かに歩み出した。
街の外れ、廃墟の中に足を踏み入れた凛と玲音。その場には、まるで空気がねじれたような異様な圧力が漂っていた。周囲の冷気が肌にまとわりつき、影獣の気配が重苦しく広がっている。
「この雰囲気……今までの影獣とは段違いね」玲音が封印札を握り締めながら呟いた。
「ああ、ここに来る途中から感じてたけど……これはヤバい」凛は刀を抜き、慎重に周囲を見渡した。
そして、廃墟の中心に姿を現したのは、異形の巨大影獣だった。その体は闇そのもののようにねじれ、無数の瞳が全方向に広がっている。その視線が凛と玲音を捉えるや否や、凶悪な唸り声が響き渡った。
「これは……ただの影獣じゃないな」カゲモンが凛の肩に降り、鋭い口調で警告する。「こいつは巣窟そのものが具現化したような存在だ。全力で行けよ」
凛はカゲモンの言葉を胸に、影獣を冷静に見据える。一方、玲音はすでに封印術の準備を整え始めていた。
「私が術を放って隙を作るわ。凛、あなただけの戦い方で」
その言葉に、凛は刀を構え直す。「分かった。お前が隙を作る間に決める」
影獣の巨体が不気味に蠢き、突如、凄まじい速さで腕を振り下ろしてきた。凛は瞬時にその動きを見切り、かわしながら反撃に移る。しかし、刃が影獣の体に触れるたびに、跳ね返されるような硬さが手に伝わる。
「玲音、今!」凛が叫ぶと同時に、玲音の封印術が影獣の動きを一瞬止める。その隙を突いて凛は影獣の懐に飛び込み、左側の弱点を狙って刃を突き立てた。
鋭い衝撃と共に、影獣の体から黒い霧が溢れ出す。しかし、それでも影獣の威圧感は全く衰えない。それどころか、さらなる凶暴さを見せ、凛を押し返してきた。
「この程度じゃ止まらないのか……!」
影獣は強烈な咆哮と共に、周囲に黒い霧を撒き散らした。その毒気に満ちた空気が凛たちを覆い、視界を奪おうとする。
「凛! 毒霧に気を付けて!」玲音が鋭く警告を放つ。
「分かってる!」
凛は冷静さを保ちながら影獣の動きを見極め、再び動き出した。影獣が振りかぶる巨大な腕、その動きの隙間をすり抜けながら、一撃一撃を正確に狙う。玲音の封印術が随時影獣の動きを鈍らせ、その隙に凛が攻撃を加える連携が、徐々に影獣を追い詰めていった。
しかし、影獣は最後の力を振り絞り、凛に向かって突進してきた。その瞬間、凛は心の中で無明の力の誘惑を感じた。だが――。
「俺は、この力に頼るだけじゃ勝てない!」
凛は玲音に向けて叫ぶ。「術をもう一度頼む!」
玲音は短く頷き、全力で封印術を放った。その光が影獣を縛り、動きを完全に封じる。その一瞬の間に、凛は全力を込めた一撃を振り下ろした。
「――終われ!」
刀が影獣の胸元を深く裂き、その体が崩れ落ちる。影獣は凶悪な咆哮を上げ、やがて黒い霧と共に消えていった。
静寂が訪れ、凛は肩で息をしながら刀を収めた。玲音がそっと歩み寄り、「お疲れさま」と小さく声をかけた。
「これで……終わり、だな」
「ええ。でも、次が来るのも時間の問題よ」
玲音の言葉に、凛は小さく頷いた。影の守人として戦う使命の重さと、それを支えてくれる存在の大切さを胸に抱きながら、彼は静かに呟く。
「ありがとう、玲音。お前がいなければ、俺は……」
「礼ならいらないわ。私たちは仲間よ」
その言葉に、凛は微かに笑みを浮かべた。二人は霧の中を歩きながら、それぞれの胸に次の戦いへの覚悟を秘めていた。
街に戻ると、医務室の扉が開かれ、光里が凛を出迎えた。彼女は真っ直ぐに駆け寄り、その顔には安堵と心配が混じっていた。
「凛、大丈夫? また無茶をしたんじゃないの?」
凛は微笑みながら「平気だ」と手を振るが、光里はすぐに彼の腕を取って傷を確認する。その仕草の一つ一つに、彼女の不安と愛情が込められているのを凛は感じた。
「またこんなに傷だらけで……本当にあなたって人は」
光里が慣れた手つきで傷の手当てをする中、凛は彼女の言葉を静かに聞いていた。
「守人の仕事だからな。でも……ごめんな」
光里は手を止め、凛の顔を見つめた。「大丈夫。でも、約束して。絶対に無事に帰ってくるって」
その言葉に、凛は力強く頷いた。「ああ、必ずだ」
光里はその答えに微笑みを浮かべ、手当てを終えると静かに凛の肩を叩いた。「これで大丈夫。次も絶対無理しないでね」
その言葉を胸に、凛は再び使命の道へと足を向ける。待ってくれる人のため、守り続けるべき日常のために――。
影獣との激戦から一夜明け、凛と玲音は影の守人たちの拠点に戻っていた。廃墟での戦いの詳細を伝えると、指揮官たちは安堵と緊張が入り混じった表情を浮かべた。
「廃墟の影獣を倒せたのは大きい。しかし、これで終わりではない」指揮官が地図を広げながら続ける。「新たな巣窟が発見された。今までよりも遥かに奈落の力が強まっているとの報告だ」
凛と玲音はその報告に身を乗り出し、地図を覗き込んだ。赤い印で示された場所は、カルマシティの中心に近い区域だった。
「市街地に近いとなると、被害が拡大する危険性が高いわね」玲音が静かに分析する。
「そうだ、時間がない。この巣窟を封じるには、以前にも増して迅速で効果的な作戦が必要だ」指揮官の声に、守人たちは一層の緊張感をみなぎらせる。
凛は地図を睨みつけながら呟いた。「また、あの規模の影獣が出てくる可能性があるってことか」
玲音が冷静な声で返す。「その可能性は高いわ。でも、今回は無明の力だけに頼るのではなく、全員で力を合わせることが大事よ」
会議室のテーブルには、巣窟を囲む詳細な地図と、これまでに収集された影獣の情報が並べられている。玲音が地図を指し示しながら話し始めた。
「巣窟の中心部には、影獣が複数潜んでいる可能性がありそうね。これまでの巣窟と違い、同時に出現する数が増加している恐れがあるわ」
「封印術だけで間に合うのか?」凛が疑念を口にする。
「それだけでは難しいわね。術が完成するまでの時間を稼ぐ必要がある。そこで、影獣を分断し、少しずつ対処する作戦を考えたわ」
玲音は落ち着いた口調で作戦の概要を説明し、凛もそれに耳を傾けた。無明の力を抑えつつ、影獣を相手にするための戦術は、緻密に練り上げられている。
「玲音、俺たち二人だけで足りるのか?」凛が眉をひそめながら尋ねる。
「他の守人たちも応援に入るわ。ただし、中心部に突入するのは私たち二人が最適よ」
凛は一瞬考え込んだ後、小さく頷いた。「分かった。お前を信じる」
作戦決行を翌日に控え、凛は医務室を訪れた。そこで光里が忙しそうに薬草を調合している姿を見て、少しだけ足を止める。
「お疲れ様、光里」
凛が声をかけると、光里は顔を上げ、すぐに柔らかな微笑みを見せた。「凛、また無茶をしに行くんでしょう?」
「無茶はしないつもりだ。でも……影の守人として、やらなきゃいけない」
光里は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに優しく笑った。「なら、ちゃんと帰ってきて。それだけをお願いするね」
その言葉に、凛は軽く笑みを返し、彼女に向かって静かに誓った。「必ず、戻るよ」
翌日、凛と玲音は仲間たちと共に新たな巣窟に向かった。街の中心にあるその場所は、異様な静寂に包まれていた。建物は崩れかけ、空間全体が奈落の力に満ちている。
「この中に入れば、もう後戻りはできないわよ」玲音が封印札を取り出しながら言う。
「分かってるさ。行こう」
二人が一歩足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が変わった。影獣たちが姿を現し、彼らを包囲するように集まり始めた。その数は、これまでの戦いをはるかに凌駕している。
「これは、厳しいな……」凛が刀を構えながら呟く。
「だからこそ、私たちがいるのよ」玲音が封印術の準備を進めながら冷静に答える。
影獣の猛攻が始まり、凛と玲音は全力で応戦した。玲音の術が影獣の動きを鈍らせるたびに、凛がその隙を突いて攻撃を加える。しかし、影獣の数と強さは次第に二人を圧倒していく。
「これじゃ持たない……!」凛が焦りを口にする。
「無明の力は最後の手段。それまでは耐えるわよ!」玲音の鋭い声が彼の背中を押す。
やがて、中心部に潜む巨大な影獣が姿を現した。その威圧感と恐るべき力に、凛は無明の力を引き出す誘惑を感じる。
「ダメだ、こんな時こそ……冷静になれ!」
凛は心を奮い立たせ、玲音の封印術を頼りに戦いを続けた。最後の隙を見逃さず、全力の一撃を影獣に叩き込む。その刹那、玲音が術を完成させ、巨大な影獣が封印の光に飲まれていった。
影獣の消滅と共に訪れた静寂の中、凛は刀を収め、肩で息をついていた。玲音も疲労で膝をついたが、わずかに微笑んで凛を見上げた。
「よくやったわ、凛」
「ああ、玲音のおかげだ」
二人はそのまま街へと帰路についた。守人としての使命を果たした達成感と、次の戦いへの覚悟を胸に秘めながら。
街に戻ると、光里が再び凛を迎えてくれた。彼女は彼を見て安堵の表情を浮かべながら言う。
「凛、また帰ってきてくれてありがとう」
その言葉に、凛は静かに頷いた。「ああ、帰るべき場所があるからな」
光里や玲音、そして街の人々。守るべき存在を胸に刻みながら、凛は再び影の守人としての道を進む覚悟を新たにしたのだった。
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