第49話 松樹千年翠
今日も無事に一日の授業が終わった。
普通に授業を受けて、休憩時間にはクラスメイトと些細な会話をし、先生に怒られることも、呼び出されることもなく。
ごく普通の日常。
なんの代わり映えもしない毎日の中の一日。
そしてその一日も、残すは放課後の部活動だけとなった。
今日は6月28日。今月もいろいろとあったなー
もう7月になるのかー
今までのことを思い浮かべながら、僕はいつの間にか部室の前まで来ていた。
さあ、今日はいったいどんな事件が起きるのだろうか?
僕は覚悟を決めて、戸を開けた。
……あれ?
部屋から、いい匂いがする。
お香をたいているのだろうか、和室の中から爽やかな花の香りがする。
その匂いが、蒸し暑い今日の不愉快さを忘れさせてくれる。
どうしたんだろう?
普段の稽古では、お香なんて使わないのだが。
「失礼します」
僕は、そのことには特に気にも留めずに、中へと入った。
そんな僕が真っ先に目にしたものが、秋芳部長が床の間を前にして、姿勢を正して静かに正座している姿だった。
その姿はどことなく神々しく、神秘的なオーラを放っているかのような、女神のような美しい姿だった。
そして部長が、僕の存在に気がつくと、
「おはよう、春山くん」
と、落ち着いた整った顔立ちで僕に挨拶してくれる。
「お、おはよう、ございます」
そんな表情に、ドキッとする。
なんか今日は妙に雰囲気が違う。
それに呼応するかのように、今度は横から深谷先輩が、
「春山君、おはよう。今日は実際のお茶会にそくした稽古をするわよ」
「え? あ、はい」
急にどうして?
だから部長が変に大人しいのか?
「今日は私がお点前するから、春山くんお客さんやってくれる?」
「はい」
「お客さんのする事は、みーちゃんが一緒について、教えてくれるから」
そう言い残すと部長は準備のためか、静かに立ち上がり去っていく。
なんだなんだ?
今日はやけに本格的な稽古だなー
僕は準備を整えると、深谷先輩のところに向かう。
「あの、どうすれば……」
「先ずは、床の間と掛け軸を拝見」
「はい」
床の間に行って、かかってある掛け軸を見るのかな?
僕はゆっくりと床の間の前に行き、正座する。
そこには掛け軸がかけられ、花も添えられている。
「そこで一礼して」
「はい」
言われた通り、手をついて頭を下げる。
「書かれてある内容は、今日のお茶会のテーマやお客に対するメッセージよ」
「はい」
掛け軸に書かれてある漢字を読み取る。
『松樹千年翠』
おそらく部長が書いたのであろう。そんな感じがする。
しかし、この文になんの意味があるか?
どんな読み方をするのか?
……分からない。
「しょうじゅ? 千年……みどり?」
「
「はぁ。意味がまったく分かりません」
「年月や季節に左右されることなく、いつでも緑の葉を保ち続けている。その事から、お正月やおめでたい時によく飾られる書みたいね」
「なるほど……」
今日は別にお正月ではないけど。
おめでたい日……というわけでも、ないかな。
「よく意味をかみしめつつ、書かれた方への敬意も忘れないように」
「はい」
「ちなみにこれ、香奈衣が書いたから」
やっぱり。
「これも一期一会の精神で拝見するのよ。二度とこの掛け軸とは出会えないと思って」
「分かりました」
奥が深い……
ちょっと今の僕には、この書かれた内容は難しすぎる。
結局なにが言いたいのか、全然わからないし。
しょうがない。あとで書いた本人の部長に聞いてみよう。
「それと、花と花入れ。これもちゃんと見るの」
「はい」
床の間には、竹を切ってできた花入れに紫の花が飾られている。
「これは……」
「
スラッとしたスマートな花は、鮮やかな紫の色の花を咲かせている。
「これには、どんな意味が?」
「季節を感じるために、とか、いろいろあるわね。どんな花を使うか、どうやって飾るか、いろいろとルールがあるわ」
難しいなー
覚えることが多すぎるよ、これ。
「そうしたら、ここに座って、亭主が来るのを待つ」
「はい」
なんだか、いつもの茶室で、いつものメンバーでの稽古なのに、妙に緊張してきた。
そして、しばらく待つと……
襖が静かに開く。
そこには正座した部長の姿が。
真面目な表情、というよりは、穏やかで温かい表情がそこにはあった。
いつ見ても、どんな表情でも、奇麗な顔をしている部長を、僕は恥ずかしくて凝視することはできない。
表情を変えることなく部長は、手をつき頭を下げる。
それに倣い、僕もお辞儀をする。
部長は道具を持って立ち上がると、茶室の中へと足を踏み入れる。
その動きは風が流れるように、軽くて柔らかい。
動くたびに、後ろに結んだ髪の毛が上下小刻みにリズムよく跳ねている。
そして釜の前で腰を下ろすと、そのままお点前に入った。
僕の目に映る部長の、その姿は、お世辞でもなんでもなく奇麗だった。
こうやって静かにしてくれれば、文句の付けようのない美少女なのだが。
しばらくして、深谷先輩がお菓子をお盆にのせて、僕の前に置いた。
そのお菓子は、三角定規の直角三角形のような形をしている。
三角のお餅の上には赤黒い小豆がのっている。
なんだろう? この和菓子。
初めて見る和菓子だなー
部長はお点前で使うお茶碗を清め、抹茶を入れるタイミングで、
「お菓子をどうぞ」
と、僕に声をかける。それに続けて、
「本来なら
いつもと違い、大人っぽい口調で語る部長。
「これは水無月という伝統的な和菓子よ」
深谷先輩がいつものように解説してくれる。
「みなづき?」
「本当は6月30日に食べる習慣があるのよ。昔からある風習で、その日に食べることで夏バテを防止するとか、一年の半年分の穢れを落とすとか」
へー お菓子一つでも、いろいろと意味があるんだ。
僕はそのお菓子を、突っついたり、ひっくり返したりと、まじまじと観察しながら口に入れた。
ひんやりしていて、美味しい。
直前まで冷蔵庫に入れてくれたのだろうか。
この部活に入って、よくお菓子を食べるようになったけど、実は僕は、和菓子とかお茶とか好きかもしれない。
そうこうしているうちに、部長は手際よくお茶を点ててくれていた。
部長はお茶の入ったお茶碗を、こちらに差し出して、畳の上においてくれる。。
僕はそれを受け取る。
触り心地のよい白いお茶碗の中には、なめらかな黄緑色をした薄茶がおさまっている。
「お点前頂戴いたします」
僕は部長に一礼する。
部長の立ててくれるお茶はいつも綺麗で、美味しい。
そう思いつつ、お茶を味わうが、やっぱり部長のお茶は、ほかの先輩方のよりも美味しいのだ。
僕は飲み終わったお茶碗を返すと、部長はそれを洗いはじめ、片付けに入る。
と、ここで深谷先輩が……
「春山君、お
「え? え?」
急によく分からないこと言われて……
「お棗、お茶杓の拝見を」
「お棗……お茶杓の……拝見を?」
「お願いします」
「おねがい、します」
僕は深谷先輩が話すのをまねて、口を動かす。
そう言うと、部長はお棗とお茶杓を僕の方へと差し出して、畳の上においてくれる。
部長はそのまま片づけを続け、一度その場から退場する。
「ここでお道具の拝見をお願いするの。ちゃんと見るのよ」
「はい」
お棗は抹茶の入った小さな入れ物。今、目の前にあるのは、朱色で蒔絵が施されている。
お茶杓は、抹茶をすくう竹でできたスプーンみたいなもの。よく見ても良し悪しは分からない。
一通り目を通すが、あまり理解できるはずもなく、道具を返すと、部長が取りに戻ってきて、腰を下ろす。
そこで深谷先輩が耳打ちする。
「春山君、ここで挨拶」
「え? なんて言えば……」
「お茶をいただいたお礼よ」
「えーっと、美味しいお茶ありがとうございます」
「ここで拝見の問答が始まるから」
「もんどう?」
「まずは棗の形はどんなのか聞くの。お棗の形は? って、ききなさい」
「お棗の……形は?」
「
そう、部長は答える。意味は全く分からない。
「次は、お塗は」
「え……お塗は?」
「
これ……なに言ってるんだろう?
学校の授業よりも、わけが分からない。
「次はお茶杓のお作は」
「お茶杓の? お作は?」
「
「最後に、ご銘は?」
「えー ご銘は?」
「
「ここで、お礼と感想を述べるの」
「え?」
「今日はもう、『大変結構な品、ありがとうございます』でいいわよ」
「あーっと、大変結構な品、ありがとうございます」
んー まったくよく分からない。
このやり取りに、いったい何の意味があるのだろうか?
僕は何となく意味も分からぬまま、流されるようにお茶をいただき、ひとまず稽古は終わった。
稽古を一通り終え、妙な疲労感がある僕のもとへ、部長がやってくる。
「どうだったかな? 春山くん」
いつもの明るい声と笑顔に戻った部長は、僕の顔を見ながら感想を尋ねてくる。
「えーと、なんか緊張しましたけど、よかったです」
「楽しかった?」
「まー 楽し……かった、ですかね」
正直、楽しむほど、意味や良さを理解していなかった。
お菓子とお茶は美味しかったのは確かであるが、やたら面倒なやり取りがあって、どうなのかなとは思った。
そんな微妙な僕の表情に気付いたのか、深谷先輩は詰め寄ってくる。
「あなた、あれだけやって、なんの感想もないわけ?」
「……ちょっと僕には、難しいというか、早いというか」
「まったく、これのためにどれだけ準備したことか……鈍感にもほどがあるわね」
なにをプリプリしているのか分からないが、深谷先輩は奥へと消えていってしまった。
それとは対照的に、ニコニコしている部長は、
「今度は春山くんに、お茶、立ててもらおうかな」
「今度は僕ですか?」
「うん。私、春山君のお茶飲みたいなー」
今度は選手交代しての、僕が部長にお茶を点てる番。
そうして今日の部活は、いつもとは打って変わって、僕の予想外に穏やかに過ぎていった。
こうして何事もなく、
今日という日、
6月28日、
僕の誕生日は、
終わろうとしていた……
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