あねひめさま
昔々、あるとき、あるところで。
暗いろうそくだけが頼りの酒場で、旅の詩人はいつもの出だしで歌い始める。
そいつはぼろ着で靴にも穴があいていたが、しかし、その実、名うての旅詩人。
どこからか奇妙で奇矯で摩訶不思議な物語を仕入れては、語ってあるく村の
村のはずれの酒場にひょいと現れれば、噂はたちまち千里を走り、飯炊き中の母親も、農作業にいそしむ父親も、教場でつづり方を学んでいた子供たちも、そしてそのまた教師たちも酒場に向かって飛んでくる。そんな詩人であった。
今日は三月ぶりに訪れた黄昏の語りどきである。老いも若きも、男も女も、村人たちは、その歌声とつま弾かれるリュートに耳を傾けていた。
「それは、この国が西の端から東の端まで、広大な土地を支配していた頃のこと、なんとも破廉恥な姫君がおりました」
じゃらん、とリュートがかき鳴らされる。
「その名も
*
ありったけの美女をあつめた後宮というものは、たいていどこの国にもあるものですが、その主はまず間違いなく当代の王さまでございます。
これは当たり前のことで、なぜなら後宮というものはそもそも王族が子を為すための設備だからです。
しかし、あのとき、あの頃、この国の後宮の主は一人の姫君でした。
肌の白い、美しいかんばせの持ち主だったとは伝わっております。しかし、名の方はまったく。少なくとも真の名は。
時の王の姉上でありながら、いつまでたっても月のものが来ず、早いうちから石女という屈辱の烙印を押され、歴史から消されてしまったからでしょう。
王族に生まれるということは、種を残し、子々孫々の繁栄に励むことがその務め。勤めを果たせないからには、政略の道具にも使えません。
男種こそあるものの、手数は多いに越したことはありません。この国の未来はどこへ行く。
しかし、幸いにも先の王夫妻はさらに子宝に恵まれ、五体満足の妹姫が誕生し、俗国へ嫁ぎに出すことは、生後五か月で決まりました。
そして、使い道のない姉姫は。
後宮の管理人として、天上に侍らせることとしました。
それは、つまりもっとも日当たりがよく、広い庭園があり、高くそびえる眺めの良い部屋をあてがわれるということです。もちろんたくさんの侍女たちとともに。好きなときに食べ、好きなときに眠り、やりたい放題に過ごしておりました。
とはいえ、まったくもって仕事を放棄していたわけではありません。新しい姫が後宮にやってくると、姉姫は自分のところへ来るよう呼び出しました。
ほら、今日もやって来たばかりの幼い姫君は身体を固くし、ぷるぷると身を震わせます。
それもそのはず、王族の部屋に呼び出されたとくれば、出ていくときには首と胴体がつながっているか怪しいものですから。
姫君はそのいとけない様子を見て、優しく声をかけます。
「やだやだ、そんなに固くならないで」
そして頭を撫でてあげる。
「後宮に上がったということは、王さまのお嫁さんということよね? つまり私の妹ってこと。後宮に住まう皆は私のかわいい妹たち、そして私は一番上の長女。長姉の務めとして、あなたとも仲良くなりたいってわけ」
分かるでしょ、と頬を手のひらで包みます。
「でも、いきなりそんなこと言われたって困るわよね。そうだわ、まずはあだ名を付けましょう。私のことは親しみのことを
仕上げに額に軽いキスを。
嫉妬と陰謀が渦巻くと言われる後宮ですが、この義姉姫が圧倒的な長女力とでも呼ぶべき支配力でもって、秩序正しく回っておりました。
ここだけ切り取れば、義姉姫はなかなかやるじゃないか、と思うでしょう。
けれど、この仲良くしたい、というのが曲者でした。
義姉姫は、とんでもない色情狂であったのでございます。
やって来たかわいい義妹たちにかわるがわる手を出し、口吸い、足を舐めといった有様でした。そりゃあもう、王さまもびっくりという閨事情だったと聞きます。
特に、この頃は西方から召し上げられた赤毛の娘にご執心でした。
「ねえねえ、今夜もあの娘を連れてきて。昨日も朝まで一緒だったけど、もう昼間のうちから恋しくって仕方がないの」
天蓋つきのベッドの上で、シーツに埋もれながら、義姉姫は命じます。着物などほとんど意味をなさない体ですが、これが彼女の流儀でした。
命じた相手は、幼馴染の侍女でございます。
この侍女、こちらも名前は残っておりませんが、王族に長く使えてきた家の出身で、兄は右大臣を務めており、義姉姫が後宮へ上がる際にお目付け役として一緒に迎え入れられた、いわば後宮大姉妹の次女でございました。
義姉姫のめちゃくちゃなお気持ちに、次女は「御意でございます」と、うやうやしく一礼を返しましたが、一方で床に向かって、なんて節操のない姫ぎみなのかと呆れの白目をむいていました。
しかし、次女は仕事人中の仕事人。血筋も容姿も申し分ないのに、王のお通いがないのは、義姉姫に手を焼いていてその暇がないからと噂されるほどの生真面目の持ち主でした。
すぐに黒目を戻して顔を上げると、くるりと向き直って部屋を後にします。西のお香や東のガラスランプで下品な匂いと色に飾られた部屋を。俊工事には雲形の曲線を描いていた扉の取手までも、いつの間にか陰茎をかたどった卑猥な造形に付け替えられていました。
次女の両手はわなわなと震えます。
まあ、破廉恥だわ。
それに、恥ずかしくないのかしら、女衒のような真似を私に頼んで。
だいたい、やることがないからと言って、やってばかりいるだなんてどうかしてるわ。
しかも、先週までは黒い肌、今は赤毛。見境もない。
それにしたって、何より不愉快なのは、終わらない嬌声を聞かされ続けること。
ああ!下品!私には誘いをかけてこなくって本当に良かった!
次女はいら立ち、黒い後れ毛をいじります。いつか「黒髪! なんてつまらないの!」と義姉姫に笑われた毛を。
けれど、お家のためにも命令を聞かないわけにもいきません。赤毛の娘を探しに、次女は後宮をさまよいます。
さて、そんな赤毛の日々が続いたある朝のこと、義姉姫さまは珍しく服を着て、椅子に座って、折り目正しく西国風の赤いお茶を飲んでおりました。
びっくりした次女は言いました。
「正気ですか、義姉姫さま」
「正気よ、もちろん。いつだってね」
そう、正気だったのです。
正気の義姉姫は言いました。
「西の風が吹くわよ」と。「ただの風じゃない。大嵐」とも。
赤いお茶に白いミルクを足して、続けます。
「兄上は領土を広げるのは上手だけれど、内政になるとてんでだめ、とんまのとんま、凡愚中の凡愚。城の中はこの前征服したばかりの西の連中にすっかり牛耳られているわ。見ていなさい、そのうちこの国はひっくり返る」
昨日まではただの色情狂だったのに、突然不吉な予言をくり出した義姉姫に侍女は呆然とするばかりです。
「どうしてそんなことをご存じなのですか?」と聞くのがやっとでした。
義姉姫は怪しげな笑みを浮かべます。
「私がなにも考えずに赤毛とばかり寝ていると思っていたの?」
立ち上がって、血色のいい紅顔をぐっと近づけて。高い声を上げる唇から、不思議な言葉がこぼれます。
「あんなに私のことを見ていたのに何も知らないのね。あなたもこの嵐に巻き込まれるというのに」
年が明けて春。
義姉姫さまの言う通り、嵐が起こります。
まずは西から火の手があがります。反乱です。馬郡の先頭を率いているのは、征したはずの赤毛の一族。遊牧民で馬の扱いが上手い彼らは、あっという間に王都へと駒を進め、城を占拠してしまいました。
あまりにも手際のよすぎる下剋上。当たり前です。右大臣の手引きがあったのですから。傀儡の玉座を報酬として。
王(今は一介の愚民)と先王夫妻(こちらも一介の平民)はもちろん、嫁入り前の妹姫(やっぱりただの小娘)も斬首の悲劇に落ちていきます。
ところで、我らが元義姉姫はどうなったのでしょうか。
助命されました。どうせ使いどころがないのだから、と。
そして、後宮はつくりかえられます。
一等明るく、一等高く、一等広い部屋の中でかつての次女は所在なげに佇みます。嫁にやるには高齢で使い道がないからと、新たな後宮の主に収まったはいいものの、手の中に転がり落ちてきた幸運は身にあまり、何をしていいか分からなかったからです。
そこにぺたぺたと裸足で近寄ってくる音がしました。かつての義姉姫です。
「何をしてらっしゃるの、義姉姫さま。手入れされたお庭? 綺麗な眺め? そんなつまらないものを見ているの? ほしいものはなんだって手に入るのに? だって、あなたは、この後宮の主なのよ?」
しかし、二人は良く知っていました。本当に欲しいものは手に入らないし、行きたいところにもいけず、自分の命さえも誰かの掌。
だからこそ、せめてほしいもの、あるでしょう?
侍女となった元義姉姫は不思議そうに問いかけます。お香に火をつけ。カーテンを閉め。玻璃のランプに灯を入れて。
「今やあなたはこの後宮の一番上の長女なんですよ。なんでも所望してくださいな。一目でクラっときちゃうほどの美丈夫? それとも入れ墨だらけの危険な女?」
願いを言って。あなたのことを私はよく知っているから。
閨にずっと耳をそばだてていたことも。助命を請うてくれたことも。
それから、私からのお誘いを、ずっとずっと待っていたことも。
淫靡な香りが漂う中、紅顔の顔を唇が触れそうなほど近づけて。
ずっとためらってから、新たな義姉は言いました。
「……うんと白い玉肌の私の御姉さま」
新たな次女は高く笑います。ずっとそうして、求められるのを待っていたように。
「あなたって、本当、ずっと私にご執心ね」
*
リュートのアルペジオが物語の終わりを告げた。
「じゃあ、それからの二人がどうなったって? 長い歴史の中に揉まれ、名前もない二人がどうなったか。それを知っているのは、この二人だけ」
我々が知る由もない運命なのですよ。
それを最後に、旅の詩人はろうそくの火を吹き消した。
どこからかやって来る隙間風が、二人の女の嬌声のような高く昇るような音を立てていた。
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