第2話 あてもなく
時刻は少し遡り、隆弘が彼女の浮気現場を目撃する少し前。
隆弘の彼女の妹──
結月の視線の先には、数人の男女グループが彼女の近くの席で談笑している。中には、結月のイスに座っている生徒もいた。
(は、入りづらい……なんで私の席はあんな陽キャたちの巣窟なの……陰キャには辛い……)
カバンを取りに行く途中、話しかけられたことを考えるだけで、ゾッと背中に冷たいものが奔る。そうでなくてもだ。あんなに楽しそうにしている中、自分が教室に入ることでみんなの視線が自分に集中し、空気を台無しにしてしまう。その可能性を考えただけで、もうダメだった。
(仕方ない、図書館で時間をつぶそう。これは私が臆病なんじゃない、そう戦略的撤退なだけ……)
結月がその場から離れようとした時。
「おーす、黒沢ちゃん。そんな所で何してんだ」
「えっ? あ、し、志摩君……そ、その……」
結月に声をかけてきたのは、
結月の視線の先を辿る泰我が「あー、そういうこと」と納得したような声を出す。
「黒沢ちゃんも相変わらずだなぁ……ほら、手伝ってやっから、さっさと行くべ」
「あ、ありがとう……!」
目をウルウルとさせ、感激した様子の結月。
そして泰我と一緒に教室に入る結月は、ずっと下を見たまま誰とも目を合わさず、すぐさまリュックを回収する。そして、早足になるのも必死に抑えながら教室を出た。
二人は、下駄箱に向かって歩いていく。
「そんで、黒沢ちゃんは今のままでいいのかよ?」
その瞬間、結月の顔が歪む。
「そんなリアクションすんなって。黒沢ちゃんはいいって思ってるかもしんねーけどよ、事情を知ってるこっちからすれば、見ていて痛々しいんだよ」
「べ、別に……隆弘が幸せなら、私はそれで……いいもん……」
それは結月自身、自分に何度も言い聞かせていた言葉でもあった。
そんな結月の言葉の先をすくいあげるように、泰我が話す。
「けど未練があんだろ?」
「………………」
結月は返事をしない。
最も、それが答えのようなものだが。
「言っちゃ悪いが、黒沢ちゃんの姉、俺は好きじゃねーんだよ。こーう、ナチュラルに人を見下してるっていうか、自分を中心に世界が回ってるって勘違いしてるっていうか」
「さっきも言ったけど、私は隆弘が幸せならそれでいいもん……それに、私なんかじゃ、お姉ちゃんには……」
背中を丸めて、俯く結月。反対の手で手首をギュっと握るその姿は、痛みを堪えて自分自身に言い聞かせているようにも見えた。俯く結月に泰我はため息をつくだけで、何も言わなかった。
これ以上、何を言っても無駄だと分かっていたからだ。それは、これまでの付き合いで分かっていた。他に何かを言っても、姉と自分を比べて卑下するだけ。結月は姉に対して強烈な劣等感を抱いている。不毛な押し問答になるだけだった。
「じゃ、黒沢ちゃん、最後の一個だけ。もしチャンスがあったら遠慮すんじゃねーよ。隆弘のことが好きで仕方ないなら、どんな手段でもいいから奪っちま──」
「あー! あー! 聞こえなーい。何も聞こえなーい」
両手で耳を塞ぎ、結月はそのまま逃げるように、泰我から離れていく。
最後まで聞いてしまうと、その誘惑に負けてしまうと分かっているからだろうか。
「ったく、隆弘。お前のせいだからな……」
※
(
大好きな彼女が、知らない男と腕を組んで歩いている。鮮烈な光景に、俺は足を動かすことができなかった。混乱しすぎて、口を閉ざして二人の姿を見ることしかできない。すると急に息苦しくなって、呼吸をすることさえ忘れていたことに気づいた。
見つかってしまえば、自分がみじめになるだけだと分かっているからだろうか。
浅い呼吸を繰り返し、風に流れてくる二人の声に耳をすます。
「ねぇ~、早く。ね、いいでしょ?」
「早くって何のことだ? 暗くなってきたし、そろそろ帰らないと」
「もーう、ゆうと君のイジワル……そんな気ないくせに。でも、そういうところも好き♡」
「はははっ! 俺も日向のことが好きだよ。じゃあ、今日はずっと一緒にいる?」
「うんっ!」
そう言って、二人はホテルに向かって歩いていく。その時だった。急に立ち止まった男が、後ろを振り向いたのだ。そして俺の方を見るや、パチッとウインクをしてきた。
「──っ!」
胸がえぐれたんじゃないかって、痛みが奔った。
俺がいることに気づいていたんだろう。
いてもたってもいられなくなった俺は、そのままあてもなく走りだした。同時、雨が降り始めた。
胸が苦しい。
息をするのも辛い。
体の芯から体温がなくなっていく。
ずっと走り続けているせいだ。きっとそうに違いない。
雨の中走る俺を振り返る通行人が「可哀そう」とか言うのも気のせいだ。俺は別に可哀そうじゃない、みじめじゃないから、消えてくれよ……日向の笑顔も、ラブホ街に行くあの光景も、これまでの日向との記憶も全部、全部、全部……。
※
それからのことは、あまり覚えていない。ただ、何も考えたくなかった。だから、雨でずぶ濡れになろうが、構わなかった。どれくらいの時間が経ったのかも分からない。
「帰るか」
足が鉛のように重かったし、これ以上、外にいるのはしんどかった。
自宅まで歩いていると。
「…………結月? なんで」
幸か不幸か、自宅の前に結月がいた。
遠くから独り言のように呟いた言葉だったのに、彼女にはしっかりと届いていたようだ。
「あ、隆弘。遅かったじゃん。借りてた……漫画を……か、かえ……」
嬉しそうに話す結月が、ずぶ濡れになった俺を見て口を閉ざした。
だが、すぐに。
「どうしたの、隆弘っ!?」
悲鳴にも近い結月の声が、閑静な住宅街に響く。
「……なんもない」
こんなみじめ姿、誰にもみられたくなかった。
「……今日はもう帰ってくれ」
八つ当たりしそうで、甘えてしまいそうで嫌だった。
だというのに。
「お姉ちゃんと何かあった?」
ひどく優しい声音をした結月が、簡単に確信をついてくる。隠したかったのに、結月の言葉で肩がビクッと跳ね上がってしまった。
「何があったから話せる? 雨も降ってるし、とりあえず家の中で話を聞くね」
俺に何の反論も許さないまま、結月は俺の手を引っ張って自宅に入る。
※
「……チャンスって思っていいのかな」
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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