問う事も

 雨音に掻き消されそうな程の声は、確かにマンセスの耳に届いた。気力もとうに尽きたはずであるのに、彼の中で強い疑問が現出した。その疑問の持つ力は驚くべきもので、思考も鈍化していた彼の全てに、喝を入れた様であった。

 しかし不思議と彼は冷静であった。本意ならざる事態に陥っていた事で、先程まで散らかっていた思考がまとめられ、怒りも恐怖も後退して行った。こうしてできた、波立つ事なき彼の平穏な心の野に残ったのは、たった1つの疑問を表す言葉だけだった。


「何故に私が君から逃げなくてはならないのか」


 背を向けたまま問うその声は、一切の感情から自由であった。喜怒哀楽のいずれにも当てはめられない、感情に成る事が叶わなかった思いが、彼の声として解き放たれた様であった。

 対する一方は、これに即答はしない。マンセスの感情に耐えられる程の、疑問に対する答えを彼は持ち合わせていなかった。無い物を何とか取り繕うともがく間に、彼はただ、足元に落ちた灯籠の光によって暗闇に浮かび上がった同僚の背中を眺め回す事しかできなかった。

 継ぎ接ぎだらけの薄情な言葉は、本心の言い訳には抗し得なかった。マンセスの背中に響いたのは、彼を心底落胆させるものだった。


「ここで問答しても無意味だ。マンセス、再度の勧告だ。審議会から出頭命令が出されている」


 この時になって初めて、マンセスは自身が何に怯え、逃げたのかを明白にする事ができた。彼の恐怖の対象は今どこにも示されていないが、恐らく上質な紙に記され、一三参事の印が押された、政命と呼ばれるものだった。ここに来るまでに追っ手の一人から写しを奪い、それに目を通していたが、そこに記されていた事はとても認められるものではなかった。


「ユーラ、何度も言う様だが、私はその罪状に覚えはない。よってその勧告に従う意味も義務もない」


 実際に彼が口に出して否定したのはこの時が初めてであった。しかし行動に表しているのだから、言っているにも等しかった。多分に人は彼にこう言うだろう。曰く、『無罪だと思うならば堂々としていれば良い。真実は無敵である』と。

 仮にもそうであるなら、元よりこんな事になってなどいなかったであろう。真実が弱き存在であるから、彼に出頭が命じられ、彼は逃げたのだ。今更彼に、真実を信じろ、などと言っても無意味であった。


「マンセス」


 だがまさしくこの時、ユーラが語ろうとしたのはこの事であった。彼の思考の世界では、何としてでも同僚を連れて戻らなくてはならないという使命感と共に、何を言ったとしても自分の同僚は素直に同行してくれるとは思えない諦観の情とが併存していた。そしてそのどちらも、彼の立場にあっては揺るぎようのない事実ですらあったのだ。

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