第2話 責任のなすりつけ合いが招く停滞
日本社会では、問題が起こるたびに「誰の責任か」を問う声が飛び交う。しかし、最終的に責任を取るべき立場の人が明確にされることは少なく、なすりつけ合いの末、問題は曖昧なまま消えていくことが多い。この構図は政治や行政だけでなく、企業、教育現場、さらには私たちの日常生活にも深く根付いている。
たとえば、大規模な災害が発生した際に、復興が進まない原因がどこにあるのかを議論している間に、多くの被災者が救済を受けられないまま取り残される。あるいは、経済政策が失敗したとき、政策決定者たちは「外部環境が悪かった」と言い訳を並べ、自らの失策を認めることはない。その一方で、現場で働く労働者や国民がそのしわ寄せを受ける。
この「責任のなすりつけ合い」が生むのは、問題解決の遅れと、社会全体の無力感だ。特に政治の世界では、失敗を認めることが「敗北」と見なされ、責任の所在を明らかにしようとする動きはほとんど見られない。結果、問題は先送りにされ、次世代にその負担が押し付けられる。
これは障害者支援の分野でも顕著だ。たとえば、施設での虐待事件が明るみに出た際、運営者や監督機関は互いに責任を押し付け合う。必要な支援が届かない現実についても、行政は「予算が限られている」と弁明し、現場は「人手不足」を訴える。その間に、本当に助けを必要としている人々は置き去りにされてしまう。
さらに、こうした状況を助長しているのが、情報を正確に伝えるべきメディアの姿勢だ。ニュース番組や記事では、問題の背景に踏み込むことなく、単なる事実の羅列や、責任を押し付け合う関係者のコメントを垂れ流すだけの報道が目立つ。真実に迫る報道が減り、結果として国民が正しい判断を下すための材料が不足している。
では、私たちはどうすればよいのだろうか。まず必要なのは、「責任の所在を明確にすること」を当たり前の文化にすることだ。失敗は誰にでもある。しかし、それを認め、学び、次に生かすことができなければ、社会は成長しない。問題が起きた際には、「誰が悪いか」ではなく「どうすれば改善できるか」を共に考える姿勢が必要だ。
また、私たち一人ひとりが情報を鵜呑みにせず、批判的な視点で物事を捉えることも大切だ。メディアの報道だけでなく、多様な情報源に触れ、自分の頭で考える習慣を持つことで、真実を見極める力を養うことができる。
責任をなすりつけ合う社会に未来はない。誰もが責任を持ち、行動することでしか、停滞した社会を前に進めることはできない。この国を変える力は、他でもない私たち一人ひとりの中にあるのだ。
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