錆色の月光
オレには幼馴染がいる。
どれぐらい昔だったか、それは今でも思い出せた。
――ちぃ、ルナのこと、すき――
子供の頃、あいつから聞いた台詞だった。今でもよく聞く台詞だ。あいつはずっと、かわらなかった。
ちぃには両親がいない。昔はいたけれど、少なくともオレは憶えてはいない。
子供の頃、ちぃは随分とみすぼらしい格好をしていた。
体中がしらみに食われていた。軽く擦るだけで白いものや黒いものが零れ落ちた。
時々、傷口が割れて、赤いどろりとした血が零れた。
オレが顔をしかめても、アイツはマヌケに笑うだけだった。
それからずっと、一緒にいた。オレたちはおそろいだった。
オレはずっと、にぃの後について回って、ちぃは―――。
ふたりとも、にぃの傍しか居場所がなかった。
もう、随分幼い頃のことだ。
にぃ―――オレの、にぃ。
オレを、オレたちを守っていてくれた、にぃはもう居ない。
――この国を出るよ。ここは息が詰まる。ずっと、空が真っ赤なんだもんね――
いつかのあの日。そう、オレに告げて以来。もうにぃがオレの前に姿を見せることはなかった。
――、ルナ。今でも憶えているんだ。青い海を――
空は赤錆だ。それはどこも変わらない。うみ、というのがなんなのかを、オレは知らなかった。今では、大したものでもないことを知っている。
―――信じたいんだ。――
何を信じたいって言うんだよ、にぃ。
咥えたタバコの先っぽから紫煙が風に揺られて、赤錆の空に吸いこまれた。ずっとかわりばえのしない天井がそこにはあった。
常に街中に響き渡っている工場の騒音をBGMに、背を待たれかけていた非常階段の踊り場の手すりに振動が伝わってきた。
「お待たせしました。ルナさん」
階段下から、ちんまいスーツの人影が現れた。
「別に待っちゃいねぇよ。サタケ」
オレはカンと階段の床を鳴らすと、ちんまい奴――サタケに眼を向けた。
サタケはオレがいた踊り場まで上ってくると、にやりと黄ばんだ歯を見せて、うやうやしく馬鹿でかいスーツケースを渡した。中を確認すると今後しばらくは生きていけるだけの乾いた飯と水、金が入っていた。
「確かに貰ったよ、いつも悪いな」
「いえいえ、ルナさん。どんどん頼っちゃってくださいよ。私、ルナさんの頼みなら、できるだけのことはしたいですからね」
甘ったるい間延びした口調と声でサタケは言った。
甘い水あめみたいな重油。それがオレのサタケに対する印象だった。どろりと黒い、甘さに酔って、飲み込んだらただではすまない。
だが、この国ではそういうものも飲まなくては生きていけない。
「そういえばルナさん。さきほどから何か黄昏れている様子でしたが、なにか考え事でも?」
「別に、ただ、昔を思い返していただけだ。お前と話すことなんてない」
オレはぶらぶらと右手をふるって、空色の階段を下りた。この世界には赤錆色のものしかない。空も、建物も、空気も、人も。
ズタズタに引き裂かれた銅線、そんなものを連想させるような道を歩く。無計画な建築、増築をかつて、そして現在進行形で続けているがゆえのグチャグチャ加減。絡まったイヤホンコードというのも表現としてはありかもしれない。
慣れた道を歩く。地の利が得られない道を歩こうとするほど、オレは馬鹿ではない。なぜなら
「死ねやオラァ!」
こうやって襲い掛かってくる連中がいるからだ。
チンピラがとんかち片手に殴りかかっているのをかわすと、すかさず隠し持っていたナイフを取り出して、流れるようにわき腹に突き刺した。
チンピラが驚愕と、これから起こることを予見したのか顔を強張らせた。
切れ味の悪いナイフは、そのまま力任せにチンピラのはらわたを引き裂いた。
チンピラは血やモツを取りこぼしながら道端に倒れた。
痙攣しながら喀血するチンピラを見下ろす。血の付いたナイフをそのまま振りかざし、喉元を掻っ捌いた。
爆ぜるように血が噴出して、人間は肉塊に姿を変えた。
オレは無感情にソレの身包みを剝いだ。その肉塊は金目のものも食い物も、何も持ってはいなかった。持ち物は精々着ていたぺらぺらの服ぐらいで、そんなものしか手に入らなかった。
全裸になった死体を道端に捨て置き、オレはまた歩き出した。
人が死ぬ。人を殺す、奪う。死体がそこらじゅうに転がっている。生きてる上で当たり前のことだ。
街の一角、どこにでも転がっていそうな廃工場。廃工場だらけのこの街では珍しくもない。
がんじがらめに施錠されたフェンスを乗り越えて、工場内に入る。もう、なんの工場だったかさえわからない、スカスカの建物内、そのなかの元職員用休憩室。鍵が掛かっている。
「ちぃ」
オレが扉に声をかけると、鍵が開いた。中からちぃが飛び出してきた。
「ルナ!」
飛び出した小柄な身体を抱きとめる。昔より随分、小さくなったような身体。正しくはオレがちぃより早く、より大きくなっただけ。
「いい子にしてたか?」
「うん。ちぃ、いい子にしてたよ!」
オレの胸元に頭をこすり付けるちぃ。その頭をできるだけやさしく撫でた。ぽろぽろとしらみが零れた。もう慣れたことだ。シャワーなんて、ちぃはほとんど浴びたことがない。
子犬がじゃれつくように甘えるちぃを一通りいなした後、オレはスーツケースを部屋の真ん中に置いて、蓋を開けた。
中にはペットボトル詰めの水。乾麺。缶詰。ビタミン剤、申し訳程度の金、エトセトラ。
「久方ぶりのまともな飯だ」
喜ぶちぃに取り出した鯖の味噌煮缶詰の蓋をカンきりで開けてから渡した。
オレは乾麺を手に取った。袋を開けて齧る。
ちぃは鯖の味噌煮を手にとって、口と右手をよごしながら、がっつく。
オレは乾麺に塩辛い粉を振りかけてから砕いて口に含んだ。焼けるような喉に瓶入りの薄く濁った水を流し込む。これが一番効率がいい。塩も水もタンスイナンタラとかいうのもまとめて取れるから。幼い頃に自然と編み出せた食事で、以来、ほとんどそれは変わらない。
―――そんなごはん、味気ないよ。
にぃの言葉。いつも思い出す。やさしくて、あたたかで、意味のない言葉ばかり。
水中に浮かぶ泡みたいな雑念は取り払う。
一分も掛からずに腹は膨れた。まだ塩辛さが喉の奥に残っているが、無視できるものだった。
ちぃを見る。
「べたべただ、もったいない」
「んー。」
オレが口元を指差すと、ちぃは顎をくいとあげた。「舐めて」と言った。
仕方がないのでオレは重い腰を上げて、べたついたちぃの口元を舐めた。舌を口周りに這わせる。味噌煮の甘さと何かの苦さで舌はとっくにいかれてた。
食事が終わると、ちぃは満足げに、オレの唾液がこびりついた自分の口元に手や舌を這わせると、ごろりと寝転がって寝息をたて始めた。
ちぃが眠ったのを確認すると、オレも寝転がった。
重たい瞼を閉じようとして、蒼白い光に目が眩んだ。
格子が嵌った窓の外に月がうつっていた。泥のように濁る宙にいても、月光だけは綺麗なまま。
―――ふいに思い出す旋律、懐かしい音色。
ピアノの旋律。
赤錆とネオン、金属音と電子音だけの世界のなかで唯一、綺麗な月の、その海の底にいるみたいな、たゆたう音色。波の胎動のような。
ああ、また、にぃの夢を見ている――。
いつかの、日。ピアノを弾いているにぃの後姿が、簡単に折れてしまいそうなほど、細くて、綺麗だった。
手の届かない月光を幻視して、オレはヘドロの眠りに堕ちていく。
翌日、昨夜の月は嘘だったかのように消えていつもの赤錆びた空が窓に写っていた。
「ちぃ、オレ以外の誰がきてもあけちゃダメだぞ」
「うん」
「ちゃんと、飯、食うんだぞ」
「うん」
「じゃあ、オレ、行ってくるから。ちゃんと帰ってくるよ」
「うん! 待ってる! ちぃ、ルナのこと大好きだもん、幼馴染だし!」
「……そうだな、幼馴染だもんね」
小さな骨みたいなものがつかえたような気がした。喉の奥がまだ熱いらしい。
○
でかくて長い銃を構える。スコープから同じ景色を見ている。馬鹿みたいにネオンがギラギラしていて、どこも代わり映えしない。
ただ、じっと待っている。支給されたオムツのなかのアンモニア臭がきつくなってきた頃に目標の車が視界に入った。
引き金を引く。
ただそれだけで、オレの身体はフロアの天井まで吹っ飛ばされて、地上では爆発が起こった。
どっかの誰かの乗ってた煌びやかなリムジンだかは、馬鹿みたいな威力の弾丸をもろに喰らって、冗談みたいに爆ぜた。轟々とうねる火柱をあげていて、さながら火炎弾を飲みこんだ蛇みたいだった。
「なんだよ、この銃」
悪態をつくと、オレは服と、尿に濡れたオムツをその場で脱いで全裸になり、もう二度と使いたくはない獲物も置いて廃ビルを後にした。そうして指定された路地裏に出たところでオレがいた廃ビルのオレがいたフロア一帯が爆発した。火炎が二つになった。
早いタイミングでサイレンの音が聞こえた。早すぎる対応に思わず笑いそうになる。それじゃ、仕込みだっていっているようなもんじゃないか。ケタケタと意味のない笑い声はサイレンにかき消されて誰に聞こえることもない。
まもなく、「お疲れ様です、ルナさん」とサタケが裸のオレに声をかけてきた。
「はやく、シャワーでも浴びせろ」
「もちろんでございます」
サタケは後ろ手で、自分の乗ってきたワゴン車の戸を開けて、にやりと黄色い歯で笑みを浮かべた。
オレは裸体のままワゴン車に乗り込んだ。サタケが勃起していることには気づかないふりをした。
都市部のホテルだかでシャワーを浴びた。埃と汗に絡まった髪を入念に梳かし、体にこびりついた垢をへずりおとし、オムツのせいで尿に濡れた性器を泡で擦る。一瞬、オナニーにふけようかと思ってやめた。性欲なら、すぐに満たされるから。
シャワーをあびて、体をふかずに寝室に戻ると気が早いことに準備万端のやせぎす女がいた。
女は上気した頬と半分白目を剥いた眼差しでオレを見た。乳首は勃ち、馬鹿な犬のように開かれた股座にある鬱蒼と絡まり切った陰毛はバケツの水でもぶっかけたのかというほどびしゃびしゃだった。
別にこれならオレはいらないだろと思ったが、これも仕事の一つなので、一応押し倒した。それだけでやせぎすの女はビクンビクンいいだす。これではまともに相手にならない。完全に外れの客だった。サタケのやつもひどい奴をオレに押し付ける。いちいち、駆け引きだの焦らしだのもかったるいので、オレは雑に女を胸を揉みしだき、指を膣に挿入て、こねくり回した。あほみたいに愛液と母乳が出た。オレは引いた。けれどやせぎす女は見てくれからは想像もつかないような力でオレの首根っこを掴んで、抱き返した。息が苦しくなった。寂しい女が抱かれて呻いた。
シャワー室で吐いた。
女に抱かれた後、ずいぶんとひどいクスリを飲んだせいだろう。吐しゃ物は排水溝に流れ切らずに汚泥のように溜まっている。
「……っ、糞!」
誰ともなくついた悪態とともに残ったゲロが出てきた。びちゃびおちゃと音を立てて、胃の中身はすっからかんだ。
ゲロの詰まったシャワー室をほったらかして後にする。このホテルに泊まることはもうないだろうし、どうせ金を払うのはサタケだ。オレはカードキーを部屋に置いたまま、部屋を出た。
雑多な屋台の並びたつ繁華街。ぎりぎりと高音の電子音ばかりで頭が痛んだ。
夜風を浴びようかなんて、おかしなことを考えたものだと、咳をしつつ思う。この世界の風なんて、やたらと赤茶けた、空色の風なのに。
どこかの言葉と、食べ物なのか定かでさえもない代物ばかりが並んでいる。
カオスな音、カオスな匂い、カオスな色、カオスな空気。
清涼なものなどどこにもない。都市も町も田舎も。オレの居場所も――
――眩暈がする。
どこか、ここではないところへ、ふらふらとあてもなく歩いた。
ダンダンと連なる夜景を往く、死人のうめき声が聞こえる。
ここがどこだか、だんだん胡乱になってわからなくなる。
月光がさした、蒼白い光は変わらずにある。手を伸ばしても、走っても、届かない場所に。
――ピアノの音を聴いた。
海の底を呻るようなピアノの音が何も亡い廃墟に響いた。
ああ、いつの間にか、随分と辺鄙なところに流れてきていたらしい。
郊外の、乞食たちが一掃された後の廃墟。街中の網膜を突き刺すネオンの明かりも、鼓膜をつんざく電子の痛みもない。
――美しく、蒼い、月光の誘いと、ピアノの調べ。
導かれるように崩れかけの階段を上る。夢遊にくれるような足取りを引きずって。ピアノの音源に向かう。
廃墟の屋上に、一台のピアノが奏でている――いや、そんなことはどうでもよくて……それを弾いているのが、浅緑のドレスを纏うその背中は――。
目の前が赤く染まった。ぐらりと体が揺れる。体幹がぐらついて、視界が闇になる。
意識が喪失される瞬間に至って、後頭部を殴られたことをオレは理解した。
また、おんなじ夢。
にぃの夢。
お世辞にも綺麗とは言えない、みすぼらしいぼろきれを無理に着た、にぃのピアノを聴いている。
私たちの住処からほど近いところにある『がっこう』とかいう場所に残っていたでっかい口みたいな代物。それを指さして、にぃは「これはね、ピアノだよ」と言っていた。
それから、にぃは私の前でピアノとやらを弾いた。私はずっと、座り込んで、その姿を見ていたの。
それは、とても綺麗な音で。暖かで、やさしい光みたいに私を包んだの。
うん、それはきっと、にぃの紡ぐ旋律だったからなのよね。
奏が終わった後、にぃはそっと私を抱きしめてくれた。
にぃの傍にいるときだけ、私は静かな夢を見れた。
どれだけ哀しくても、それだけでよかったの。
にぃ、だから私、また貴女に会いたくて……。
目が覚めた時、服を脱がされていた。
下腹部に違和感がある。それと、未知の痛み。
下半身を見ると、サタケがオレを犯していた。
どろりとした唾液がオレの性器をなめ続けている。
両手足は手錠でつながれていて。身動きが取れなかった。
状況から鑑みるにオレを襲ったのはサタケだろう。ずっと、オレが隙を見せるのを待っていたのだろう。ずっとつけられていたのに気づけなかったのだろう。
サタケの目には理性がない――いや、思えば最初からそうだったのかもしれない。この男は、最初からオレという女が欲しかっただけだったのだから。
オレはただじっと、サタケの凌辱に耐えていた。なにも、考えないで。
ただじっと、にぃのことを思い出しながら。
サタケは一通りオレを犯しつくした後、オレの手錠を外した。
「……ピアノ……あのピアノを弾いていた……」
「ぴあの? 一体何のことです? 私が用意してくれた薬剤を飲んで、あんな何もない場所までいったのになにか理由が?」
「……」
知らないならいい。手錠を外した後、間髪入れずオレはサタケの喉笛に手刀を叩き込んで黙らせた。まさかさっきまでレイプしていた女がそんな真似するとは思ってさえいなかったのだろう。馬鹿な男だった。
ふらつく足で、帰宅する。
「あ、お帰りなさい、ルナ!」
「なあ、ちぃ。」
オレは聞いた。今日の、あのピアノを聴いた瞬間に思い出した幼い日々のこと。
「お前は誰なんだ」
だってオレとにぃとの思い出のどこにも、こんな小汚いおっさんはいなかったんだから。
「なんだ。いじった記憶が戻ったのか。じゃあもうお前はいらない」
撃たれた。
どこに拳銃が仕込んであったのか。ずっと、幼馴染だとばかり思っていたから油断しきっていた。
こいつは最初から幼馴染でもなんでもない、ただの寄生虫だったのに。
血だ。
赤い血が、白い雪に落ちる。
赤さびの空が白い欠片を零していく。
そう、そうよね。だって、今は冬なのだから。
冬の静けさは、ピアノの夢に似ている。
にぃ、もう私、疲れてしまったの……。この冬に休みたくて……。
にぃ、私。貴女の腕の中で……、それだけで、悲しい夢も耐えられたから……。
月の光に導かれて、私は貴女のところに――。
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