もうすぐ結婚する姉を好きになっていた。2

 父と姉は仲が良かった。

 夏の窓辺を、憶えている。

 年齢的には小学生のころ、私は学校へ行かなかった。

 学校に通うようになったのは父が死んで叔父叔母に引き取られてからのことだ。

 だから当時の私にとって、世界とは2Kの賃貸のなかで完結しているものだった。

 畳の一室の隙間から仲睦まじくじゃれあう父と姉を見ていた。

 遠くでセミの鳴く声がした。

 じめじめとした暑さが肌を伝っていく感覚。

 大好きな姉。そう、やさしくていつも私の傍にいてくれない姉さん。

 いつだって、私のほしいものをくれてはいない姉さん。

 私はそんな姉を―――。



 柘榴正義という男に関する印象は、ひどく変であるに尽きた。

 彼の存在を知ったのは、私が中学を卒業して高校生になってしばらくした、秋の終わりの頃。

 義務教育を終えるとともに私は叔父叔母の家を出た。

 会話もなければ居場所もない。扶養義務があるだけの他人の家に居続けるのが嫌だった。

 私は姉のようになりたかったのだ。

「きみのお姉さんって、きみの成りたいお姉さんって、どんな人なんだい」

 それは……。

「それは?」

 ―――……一人で、生きていける人。自由に生きていける人、何にも縛られずに、ほしいものを手にできる人。

「きみは違うのかい?」

 ……違う。

「きみは、そうなりたいのかい」

 そういったでしょう。私は姉のようになりたいの。

「嗚呼、少しニュアンスが違うね。僕が聞きたかったのは、きみは本当にその『一人で、生きていける人。自由に生きていける人、何にも縛られずに、ほしいものを手にできる人』とやらになりたかったのかということさ」

 なにが違うの?

「いや。僕にはきみが、そのような人物になりたいのではなく、まるでお姉さんそのものになりたいのだといっているように聞こえたんだ」

「…………そうよ」

 私はじっとりとした眼差しを彼に向けた。彼はわざとらしく肩をすくめて私の視線を受け流した。

 彼の……柘榴正義のそういうところが気に入らない。

 端整な顔立ちをしていて、穏やかな性根をしている。学級委員長をしていて、同級生や教師からの信頼も厚い。私がいくらきつい言動を投げかけても、なんでもなく流してしまう。周囲からしてみれば、なぜ彼が私に接触しているのかきっと理解できないだろう。当然、理由はあるのだが。

 私が、彼を完全に無下にしきれないのもそこに理由がある。

 その容姿も、その言動も。

 あまりにもそこに私の父親の面影を、見てしまうのだ。



「きみのお父さんについて教えてほしい」

 それがこの男の私に対する第一声だった。

 何も言えないでいた私に柘榴正義はつづけた。

「あれ? きみのお父さんって、黒鬼灯弟切さんであってるよね?」

 驚愕を隠せないまま、私は頷いた。

「うん。よかった。苗字が違うから一瞬、不安になってしまったよ」

「どうして……?」

 どうして、そんなことを聞くのか。どうして私の父を知っているのか。

 その疑問に対し、彼は実に端的に解答を示した。

「きみのお父さんが、僕の父親である可能性があるんだよ」



「まさか既に鬼籍に入られていたとは……。それは、ご愁傷様です」

「……別に」

 私はそっけなく答えた。

 父親の死に対し、いまさらどうこう思うことなどない。ないんだ。

 私は彼とならび、傘をさして歩く。足元の浅い湖に私の貌が映った。痛んだフィルムみたいに歪んでいた。

「失礼を承知で聞くけど、死因は何だったの?」

「……」

 私は答えなかった。

 彼は少し困ったように微笑んだけれど、それ以上の詮索はしなかった。

 それから、彼は自分の目的についてぽつぽつと語りだす。

 曰く。色々あって、自分と父親の間に血縁がないことが発覚したらしい。

 当然疑われるのは母親の不貞なのだが、当の母親のことを父子家庭で育った柘榴正義はよく知らなかった。

 彼がまだ幼いうちに家を出ていったらしく、彼にとって母の記憶を数えるほどにしかないらしい。

「僕はね、良く知らない母親と全く知らない父親から生まれたんだ。別に、今の父親に対して思うことはないよ。……父は僕に対して、あまりそうは思ってくれてないようだけれども……」

 彼はからからと笑った。

 私は笑わなかった。

 ぱちゃぱちゃと、水音がした。

 冬の雨は冷たかった。

 体を貫く痛みのような冷たさだった。

「……うん、でもまあほら。如何に知らない人間であろうとも、一応血縁上の父親であるわけだし、せめてどんな顔をした人間かぐらい知りたかったんだ。それが人情ってものでしょ?」

「……知らないし」

「そうか……。うん、きみにいきなり話しかけたのは、良くなかったかもしれない。ごめん」

「……」

「きみのことは人伝とか噂とかで調べたんだ、僕の父は探偵をしていて、僕はその手伝いをよくするから調べ物が得意なんだ。どうやら黒鬼灯弟切氏は女性関係でそれなりに有名な人物であったらしく、所在を探すのは苦労しなかった。彼の娘さんが同級生であると知った時には驚いたけれどね」

「個人情報が駄々もれ」

「ああ、うん。勝手にきみの周辺を調べたことは本当に申し訳なく思うよ、でも僕にとってはそれだけ切実なことだったんだ。……ごめん」

「べつにいい。ていうか、それだけ調べたなら、べつにもういいんじゃないの?」

「だめだ」

 彼はきっぱりとそういった。

 そう、キッパリといったくせに、どこかその瞳は揺らいで見えた。

 多分、冬の雨の寒さのせいだと思う。

「だって、僕がきみのお父さんについて知っているのはただの事実と、周囲の評判だけだ。その……、根本的な人間性をまだ全然知れてないから……」

 先ほどまでのキッパリとした物言いと違って、どこか彼の歯切れが悪くなっていく。

 溌溂とした言葉がぼんやりと溶けていき、そのまなざしは結露に曇る窓ガラスのよう。

「……どうでもいいけど、私、あまり父のことを憶えていないの。だから、あなたには何も教えられないわ」

 私は嘘を吐いた。あの人との思い出は今もずっと変わらないで私の中にある。

「きみのお姉さんは……?」

「知らない。もうずいぶんあってないもの」

 これは本当のこと。最後に姉と会ったのは中学の時。苧環という男と車で夜道に消えていったあの時のこと。

「だから、私に聞いても、何も出てこないよ」

「……うん。そっか。わかったよ。でも個人的にもう少し調べてみようと思う。少なくとも、僕自身が納得するまで。……ありがとうね堅香子さん」

 私は喉の奥を鳴らすような曖昧な返事をした。

 すると彼は少しうれしそうに笑った。

「それとさ、できればでいいんだけど……また僕と話してくれないかな? 今度は普通に、同級生として。僕は優等生だけど、あまり友達が多いほうではないんだ」

 彼はそう言い残すと、雨の中、私とは別の方角の帰路についた。

 鳩尾のところに温かい水が溜まるような感覚がした。

 不意に、私の携帯のバイブレーションが鳴った。

 取り出すと姉からのメールだった。

『結婚しようと思うの』

 との旨が書かれていた。



 姉との思い出を模索する。

 物心ついた時から私の世界には姉がいた。

 いつも同じ布団で寝て、同じ食事をして、同じ服を着て、同じことをしていた。

 幼かったころ、私と姉は同じだったのだ。

 姉妹という言葉が、どこか不思議だ。

 私にとって、姉は私だった。

 私と姉は同一の存在だった。

 同じだった。同じ人間だった。だから大切だった。

 姉妹というよりも二つで一人の人間のようなものだった。

 それが、いつのころか違っていることに気が付いた。

 姉が私ではなくなっていた。

 姉は、私ではなくて、父のものになろうとしていた。

 それが私には、ひどく怖いもので、孤独だった。

 2Kの世界の中で私は孤立していた。

 私だったものが、私ではなくなっている恐怖はすさまじいものだった。

 私は、私から私を奪った男を見た。

 不定期にどこかに消えては、気まぐれに家に帰ってくる男だった。

 いつも違う女の匂いをさせている男だった。

 私は男に突っかかった。そしたら軽くいなされてしまった。

 父親と呼ばれるその男から、私は姉を取り返したかった。

 姉は私だったから、私にとって大事なものだったから、その男から取り返したかった。

 その男は他人だった。

 学校にすら行っていなかった私にとって唯一人の他人だった。

 姉はその唯一の他人を愛し、私は憎んだ。

 私だったものが他人を愛し、私がそいつを憎んだ。

 その2Kの部屋は、それだけの世界だった。



「きみのお父さんは一体誰に殺されたんだい?」

 柘榴正義との付き合いは三か月に及んでいた。

 それなりに、仲が良くなったとは思っている。人付き合いが苦手な私からしてみれば、随分な進歩だと思う。

 先週は、デートだって、したんだ――。

 ――空を見た。

 どんよりと曇って、重たい灰色の蓋がしてあるみたいだった。

 今にも雪が降ってきそうな空だった。

 吐いた白い吐息は宙に霧散して消えていった。

 私は、冬が嫌いだ。

「私だよ」

 柘榴正義がどんな顔をしているのか、私にはわからない。

 私はただ、泣きたかった。



 物心ついたときからずっと二つで一人だった私たち。

 男は――黒鬼灯弟切は、およそ父親らしいとされることをしてはくれない人だった。

 食事はそのほとんどがコンビニの弁当かインスタント食品で、食事以外の生きていくのに必要な最低限のことは稀に来る叔父や叔母やその他交代交代で来る親戚がしていたような気がする。

 たまに彼らは怒声を上げて男を罵っている様子だったが、男にはまるで理解が及んでいない様子だった。

 どうして自分が目の前の人間からこんなに怒られなくてはいけないのだろうといった様子で、そのたびにしくしくと泣いていた。

 ある日、姉は――私の片割れだったものは立ち上がって男のもとに向かった。

 いつもいる畳の部屋から抜け出して、私の傍から離れてしまった。

 私の……姉は、男を抱きしめた。

 男は姉の胸の中で泣いていた。

 自分がいかにかわいそうであるかを語りながら泣いていた。

 ザザ鳴りの雨が、やたらに五月蠅かったことを憶えている。

 胸の奥に焦げ付くような衝動が駆け巡ったことを憶えている。

 初めてのその感情に、私は未だに名前を付けていない。

 


 私は男を憎んだ。憎もうと努めた。

 姉と男が仲睦まじくじゃれあっていると、胸の奥がかき乱されて、目の奥が熱を持つのだ。

 姉は、どんどんと私ではない人間になっていった。

 姉は寝静まるとき、一緒に総菜やインスタント食品を食べるとき、男の話をした。

 その様は酷く楽しそうで、なんだかうらやましかった。

 それでおなかの奥がむかむかした。

 私は、私の半分を姉にしてしまった男を憎むべきだった。

 なのに、姉から聞かされる男の話があんまりにも幸せそうで、男を憎むことが何だかよくないことのようでためらわれてしまう。

 ある日、姉が寝静まったころに、男は帰ってきた。

 久方ぶりの男が帰ってきたときに姉は起きなかった。

 そして、私は起きてしまった。

 男は優しい笑みを浮かべていた。

 男は手にお菓子がたくさん入った紙袋を持っていた。

 一緒に食べよう。といったことを男は言った。

 お姉ちゃんには内緒だよとも言った。

 私の中に湧き上がる何かがあった。

 それはゾクゾクと私の肌の上を走っていく虫みたいなものだった。

 私は畳の部屋で眠っている姉を一瞥した。

 知らずに口に端が上がりそうになるのをこらえた。

 その晩、私は男から渡されたお菓子群を男と一緒に食べた。

 男は嬉しそうに笑っていた。

 お菓子を食べながら、男のするくだらない話を私は聞いていた。

 私は、それが、嬉しかった。

 嬉しく感じてしまった。

 それは私だけが知っている男の貌だった。

 男は私に抱き着いた。

 男からは不思議な匂いがした。

 今なら、酒の匂いだとわかる。

 けれど、あの頃の私にはわからなかった。

 男は私の頬にキスをした。

 それは私だけの称号だった。



 それは冬の雪の日。

 姉が血を流す年齢になった時のことだった。

 私は姉を心配した。

 その時、男が帰ってきた。

 男は姉を見て、大丈夫だよといった。

 その晩、男は寝ている私たちのもとに来た。

 そして姉だけを起こした。

 私は、寝たふりをしていた。

 姉のあんな声を聴いたのは初めてだった。

 そっと覗き込むように私は二人の様子をうかがった。

 ふたりはじゃれあっているように見えた。

 男が体をすり合わせながら姉の体を撫でているのだ。

 ただ、いつもと違うのは、姉も男も裸だったということで。

 二人は裸になって暴れる一つの生き物のようにのたうち回っていた。

 私の中で強烈に暴れまわる衝撃のような感情があった。

 姉のそんな顔は見たことがなかった。

 男の顏は見えなかった。

 私の中の激情が炸裂するようだった。

 私は男を突き飛ばした。

 男は私のひっぱたいた。

 私が感じる、初めての痛みだった。

 男は私に馬乗りになった。

 私は、初めて本当の意味で男の――自分の父親の顔を見た。

 手元に細く硬い感触があった。

 床に転がっていたコンビニの割りばしだった。

 私は箸を男の眼球に突き刺した。

 世界を貫くような絶叫が響いた。

 刺した眼窩から男は血を流した。

 それは私の顔にかかった。

 男は、まもなく動かなくなった。

 私はへたり込みながら男を見た。

 そして泣いていた。

 自分がどうして泣いているのかがわからなかった。

 それが安堵なのか、後悔なのか、怒りなのか哀しみなのか。

 私にはわからなかった。

 私は12歳。姉が15歳のことだった。



 柘榴正義は黙って私の告白を聞いていた。

 彼が何を思うのか、彼の沈痛な面持ちを見ればそれはよくわかることだった。

「……それからね、いろいろあったよ。叔父叔母の家に引き取られて、戸籍がなかったものだから作ってもらって、学校に通ってなかったから、頑張って勉強した。

 逮捕されるかもと思ったけど、されなかった。

 頑張って覚えなくちゃ、できるようにならなくちゃいけないことばっかりで。

 でも、頑張れたのは、私のせいだったから。

 私のせいで、姉がずっとふさぎ込んでて、でもそれは私のせいだから……私は頑張らなくちゃいけなくて……ずっと姉の傍にいたの。姉のことをずっと大事にしたかったの」

「辛かった……かい?」

「……どうだろう。大変だと思うことが多かったけど……つらいと感じることはなかったな。……感じなかっただけかもしれないけど」

「……そうか」

「うん」

 私は、へなへなとしゃがみ込んだ。

 俯いたアスファルトには蟻の死骸が転がっていた。

「……私を通報でもする?」

「しないよ」

「そう、残念」

 私は乾いた笑いを溢した。

 寒くなってきて、空から雪が降ってきた。

 雪は、死の匂いがする。

 赫い血の気配がする。

「私ね――」

 手に残る感触を押し殺して、空を見上げる。

 雪が目に入って、痛い。

「頭がおかしいって思われるかもしれないけれど、姉のことが好きなの。

 そして多分、あの男のことが好きだった。

 でも、殺してしまった。殺すしかなかった。

 そしてあの男は私からいなくなった。

 次に好きになったのは、女の子なの。

 でも彼女は悪い家の娘で、彼女自身も悪いことをしていたの。

 だからその人は私からいなくなった。

 その次に好きになったのは、多分あなただった。

 けれど、あなたはあの男についての話を求めていて、私はそれに答えてしまった。

 だからきっと、あなたも私からいなくなる。

 そしてずっと、ずっと姉さんが好きだったの。

 なのにね、なのに姉さんは私からいなくなってしまう。

 私じゃない誰かと幸せになって、私からいなくなってしまう」

 それはいつか、畳の縁を彼女が踏み越えてしまった時のように。

「私は……好きになっちゃいけない人ばかり好きになる……」

 私は姉さんになりたかった。

 それは、姉さんと同じになりたかったということ。

 私は、好きになった人と同じになりたい。

 でも、それはできない。

「僕はね、堅香子さん……。僕は本当は、自分の父親かもしれない男のことなんて、本当はどうでもよかったのかもしれない」

 彼は、そう語った。

「ただ、その男の存在を通して、母を知りたかっただけなのかもしれない。……けれど、難しいね……」

 雪が、降っていた。

 私は冬が、嫌いだ。



 後に、招待状が届いた。

 姉の結婚式の招待状だった。

 『出席』

 と書いてあるほうに〇をつけた。


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