もうすぐ結婚する姉を好きになっていた。1

 姉が結婚する。

 そんな姉のことが私は好きだ。

 その『好き』は姉妹愛の物でも『LIKE』の物でもない。

 その『好き』はもっと何か、おぞましいものであると思う。

 私は―――血のつながった実の姉を、愛しているのだ。





 どこからか風鈴の音がしている。

 夏の風が揺らしているのだろう。

 いつかの父親の顔を見る。

 ふたりの子供がいたというのに、その顏にはしわやシミの一つさえない。

 青年だった時のまま、その父親は年齢を重ねなかったのだろうか。

 若く、みずみずしく、美しく整ったその貌。

 魔性と、そういってもいい。

 蝉の喧騒は遠くにあって、ぼんやりとした静けさが滴っている。

 私が生まれてまもなく、母親が死んだらしい。

 父親と、そう呼ぶべき男はその瞳に私の知らない女を幻視している。

 夏が、静かだ。

「菊」

 そう、私の名前を呼ぶ声。

 これは、誰の声だったか。

 日光が緑に反射して煌めく。

 眩い光。美しい静けさ。

 綺麗な男の貌と、大好きな姉の顔は見えない。

 夢のような眩しさに、ゆっくりと目を細めて―――。



 古びた天井と、冬の冷気が私の眼球を犯す。

 窓から漏れるざらついた日差しの中に埃がちらほらと浮いているのが見えた。

 ユメのような、ではなく本当に夢でしかない光景だったらしい。

 凍りそうな寒さに軋む体を半ば無理やりに起こした。

 氷点下ではないにしても、寒さがひどく痛む。

 重たい身体を引きずるイメージ。そうやって、階下に降りる。

 冷たい階段。冷たい廊下。

 白い吐息が漏れ出る。

 ひたひたと廊下を歩き、リビングの扉の前に立つ。

「おはよう。菊」

 リビングに入るとそんな言葉をかけられた。

 いつもの、叔父や叔母のしわがれた声ではなく。

 穏やかで、甘い、蜜のような。

 私の姉―――黒鬼灯百合の声だった。

「朝ご飯。作ってみたの。一緒に食べましょう」

 そういって、姉はテーブルに座った。

 そこには二人分の朝食が置いてある。

 ご飯味噌汁目玉焼きにキャベツの千切り。実に普通のごくごくよくある家庭料理だった。

 私は曖昧に頷くと姉の向かい側に座った。

 姉の席には冬の日差しが差し込んで見えた。

 冬の日差しというものは、どこかぼんやりとくすんでいるように思える。

 それがなんだか姉に似あう。

 黒く艶めいた長髪が白くくすんでいるのが好きだ。

 ぼうと私は姉に見惚れていた。

「菊?」

「ううん」

 私は答える。

 そして姉の前に座る。

 私の席は日陰のほう。

 そして姉を見て、言うべき言葉を言った。

「おはよう。姉さん」



 冬は灰色の季節だと思う。

 この世界の何もかもがくすんでいる。

 だから私は冬が好きなのだ。

 全部がくすんでいるから、現実感がなく輪郭がぼやけている。

 自分が視る景色がぼやけるということは、自分の世界がぼやけるということで、それは自分自身がぼやけることなのだと、そんな益体もないことを思うのだ。

 空を見上げれば、どんよりとした蓋がしてある。

 雪は、まだ降っていない。

 私の通う中学は丘の上にあって、坂がキツイ。

 わずかに息を切らしながら、上り坂を上る。

 息が白く浮き出て、消える。

 そうして長い通学路を私は歩く。

 行きたくもない学校に向かうのに、どうしてこんなに苦しい思いをするのかと独り思う。

 


 窓辺の席から窓の外を見る。

 雪の降らないくもりぞらを、頬杖をついて眺めている。

 遠く、遠く、できるだけ遠くを見るように眺めている。

 こうしていると教室の喧騒がどんどん遠ざかっていく。

 湖の中に沈んでいくみたいに静かに。

「ねえ」

 深く沈んでいく最中に声をかけられた。

 思わずびくっとなる。

「大丈夫?」

「………別に」

 私はそう言って、声の主を振り返る。

 明るい髪と声をした女がいた。

 


 家に帰ると、姉は玄関先に止めてある車に乗り込むところだった。

「あ、おかえりなさい菊。帰ってきてそうそうにごめんね。私、もう帰るところなの」

 そういって姉はいたずらっ子のように笑った。

「おじさんもおばさんも、もう帰ってきてるから。よろしく言っておいてね」

 姉は簡潔に私に言った。

 そうして、ごく当たり前に姉は車のドアを開けて助手席に座った。

 私が何を言う暇も、姉の袖をつまもうとする暇もなかった。

 胸の中に蠢く縺れた糸みたいな、感情とも衝動ともつかないものが転がった。

 運転手席には男が乗っている。

 金髪に染めた髪、耳にはいくつものピアスが開いており、顎の細い二重の男だった。

 軽そうな男だなという印象。

「じゃあ、お願いね。苧環くん」

 姉は彼をオダマキとよんだ。

 それが性か名か、私にはわからなかった。

 ガラス越しに姉は私に手を振った。

 姉の服の袖をつかもうとして空を切った手のひらを、私は持ち上げて左右に振った。

 姉はいつもの甘い笑みを浮かべた。

 やがて車が発進する。

 黒いバンは夜の闇に中に溶けていくみたいに見えなくなっていった。

 冬の夜風が寒かった。

 痛いくらいに寒くて、指先が震えた。

 小さな家の中から、叔父と叔母のしわがれた声が聞こえた。

 私は踵を返して、家の中に入り玄関先で靴を脱ぐ。

 大人用の靴が散らばっている玄関の隅に私のローファーがぽつんと置かれている。

 どこか、場違いにそこにある。

 ここが自分の居場所ではないようで、肩身が狭そうに見える。

 私はリビングに向かった。

 しみったれた叔父叔母が座っている。

 二人は既に食事を始めていて、ふたりとも食い入るようにテレビのバラエティを見ている。

 ふたりの間に会話はない。

 広い部屋の中に中年の司会者の笑い声が響いている。

 私もテーブルに座った。

 広げてあるスーパーの総菜から適当にいくつか自分の皿の上にのせて食べた。

 総菜類は酷く冷めていて、まずかった。



 私に声をかけてきた髪と声の明るい、クラスメイトの女。

 名前は早乙女睡蓮というらしい。

 彼女はクラスの中でも割かし明るいほうのグループに所属していた人間だった。

 だったと過去形で言うのは、今はそうではないということだ。

 詳しいことは知らないし、どうだっていいけれど。

「ねえねえ、堅香子さん。堅香子さん」

 休み時間になると彼女は私の近くにやってくる。

 移動教室の時も大体私の近くにやってくる。

 うっとおしくないわけではないけれど、邪険にするようなものでもなかった。

 好きな人と二人一組になってくださいというアレの時はとても重宝したし、昼食時にはお弁当を分けてくれたりもした。

 悪い人間ではないと、思う。

「ねえ堅香子さん。堅香子さんってマニキュア、つけないの」

 二人で体育の授業をさぼり、女子トイレで駄弁っていると、睡蓮は不意に聞いてきた。

 私の指先を見る。

 あかぎれている、粗野な指先だ。

「つけてないよ」

「じゃあ、つけたげる」

 そういうと睡蓮は小さなカバンの中からマニキュアを取り出した。

 ピンク色の中に、これでもかとラメが入っている。なんだか安っぽいマニキュアだった。

 私の手を睡蓮は取る。

 睡蓮の指先は、きれいに手入れがされていて、傷一つなかった。

 私のあかぎれた指先に綺麗な指先が触れる。

 睡蓮は私の指先をそっとつまむと、もう片方の手で器用にマニキュアのふたを開けて中身がたっぷりとついたブラシを取り出した。

 爪の先に塗られていく。

 べったりとした感覚が爪に上につく。

 右手の人差し指。中指、薬指、小指、親指。

 左手の親指。人差し指、中指、薬指、小指。

 その順番でべたべたとラメのキツいマニキュアを塗られていく。

 十本の指すべてが塗りたくられた自分の爪は、なんだか自分のそれではないかのような妙さがあった。

「きれい」

 そう、睡蓮は言った。

 自分が塗った私の指先を見ながら、どこか悦に入っているように頬を紅潮させていた。

 呼吸のできなくなった爪を私はぼんやりと見ていた。



 雪が降っている。

 しんしんと、白い雫のように降っている。

 冬、父親の命日に墓参りに来ると、いつだって雪が降っていた。

 ざくざくと積もる雪を踏みして坂を上る。

 墓地傍で水を桶に汲んで、父親の墓石の前に来た。

 『黒鬼灯』

 そう書かれた墓石の頭には随分と雪が積もっていた。

 供えられていた花は枯れ落ちて、碌に手入れもされていない。

 私以外のだれも、ここには来ていないのだろう。

 父――黒鬼灯弟切のことを回想する。

 父は、その容姿から多くの女性と関係を持っていた。

 母がいないからなのかと考えたこともあるけれど、父の女好きはどうやら母が存命の時から変わらないものだったらしい。

 父はよく、多くの女性を愛し、愛された女性もまた父を愛していたようではあったけれど、それらの女性の多くはまるで悪い夢から醒めたかのように父の傍から離れていった。

 そのたびに、父は姉に縋り付くように泣いていた。

 そんなことを思い出し、桶を持った手に力が入る。

 柄杓で水を取り出し、墓石にかける。

 雪が融けて、どさどさと落ちていく。

 掛けた水は、やがて氷るだろうか。

 水を全部かけて、枯れた花を近くのゴミ捨て場に捨てた。

 そうして、墓地を後にする。

 簡素になった父の墓に振り返ることはしない。



「ね。堅香子さん」

 お昼ごろ。教室をはずれ、体育館傍のだれもいない空間の中で睡蓮と二人、昼食を食べている。

 昨晩のお惣菜のあまりもの。冷めていてまずい。食事というよりも餌に近いものを感じる。

 睡蓮は私の隣に座っている。

 ぴったりと体を合わせて、彼女の体温が伝わってきた。

「堅香子さん」

 不意に彼女が私に聞いてくる。

 いつもは一方通行な会話で楽し気にしている彼女にしては珍しいことだった。少なくとも私はそう思っている。

「お弁当、わたしが作ってこようか?」

「……いいの?」

「うん」

「…………」

 私は少し考えて、「お願い」をいった。

 睡蓮は嬉しそうにうなずいた。



 翌日。私が睡蓮のお弁当を食べることはなかった。

 彼女はいつもの、体育館傍の一室にしゃがみ込んで泣いていた。

 何でもかばんごとお弁当を捨てられてしまったらしい。

 彼女がいじめられていることはなんとなく察していた。

 もともとクラスでも姦しい類の連中とつるんでいた彼女が私の傍にいるというのはそういうことなのだと。

「ごめんないさい……ごめんなさい……」と泣いている彼女に対して私は。

「そう」としか答えられなかった。

 私には、ただしい人の励まし方なんてわからない。

 そんな正しい人間ではないのだ。

 だから彼女の傍にいても、何もできなかった。

 結局、彼女が作った食事を食べる機会が私に訪れることはなかった。



 その夜。私の携帯に写真付きでメールが届いた。

『交際一周年』

 といった旨の文面が並んで、後ろに姉と苧環といった男とのいかにも仲睦マシ気な写真だった。

 私は一読してそのメールを破棄した。

 姉から送られてきた数十のメールのなかで破棄したものはこれで三件目だった。

 私は携帯を傍らに投げ捨てて、床に敷いた布団の上に制服のまま転がった。

 電気のついていない暗い和室の中。

 障子ごしの雪明りだけが室内を照らしている。

 しんしんと雪が降っている気配がしている。

 静かだ。

 遠くで走る車の走行音が心地よい。

 目を瞑り、すこしだけ遠くの場所をイメージする。

 ゆっくりと、ゆっくりと世界に溶けていくような心地がしてくる。

 それは水の中に沈んでいく感覚に近かった。

 そうしてゆっくりと意識が沈んでいく刹那、私に優しい姉の貌が浮かんだ。


 幼少の砌から人になじめずに孤立していた私にとって、近しい人間は姉と父だけだった。

 姉が私の頭を撫でてくれると嬉しかった。

 心臓の所があたたかくなる。

 父に抱きしめられると嬉しかった。

 頬が赤くなるのを感じていた。

 私にとって世界とはこの二人だけだった。

 だからその絆を、小学生の私は信じたがっていた。

 それでも、私は、どこかで……………………。



「キスしたい……」

 睡蓮が私にそういった。

 私たちは誰にも見つからない場所で二人きり、寒いその場所で身を寄せ合っていた。

 先に、手をつないだのは私のほうだった。

 私のその行動に彼女は一瞬びっくりした後に耳を赤く染めながら、より強く握り返してきた。

 私を見つめるそのまなざしから、目を逸らすことはできなかった。

「いいよ」

 私はそう答えた。

 私と睡蓮はキスをした。

 かちん、と前歯が当たった。

 唇と唇が触れ合って、彼女のリップが私の唇に付着した。

 生暖かい人の体温が伝わってきて、なんだか居心地が悪かった。

 初めてのキスは、奇妙な味がした。

 これが他人の味なのだと私は知った。

 やがて口の中に異物が入ってくる感覚。

 睡蓮の舌が入ってきたのだ。

 口腔のなかが侵略されているみたいで、私は彼女のなすがままにされていた。


 長かったのか短かったのかすらわからない時間が終わって、ようやく呼吸ができるようになった。

 荒く、息を切らしながら天井を眺めている。

 肩を上下に揺らしながら、着崩れた制服を直した。

 ……キスに乗じて変なところを触られた気がする。

 恨みがましく睡蓮に視線を向けると彼女はいたずらっ子のように笑った。

「はじめてなのに、舌入れちゃった……ぇへへ……」


 それから私と睡蓮は学校から抜け出した。

 田舎町から電車に乗ってショッピングモールがある町まで行った。

 田舎基準では十分大きいであろうモールの中を目的もなくふらついていくつかの店を冷やかした。

 隣を歩く睡蓮の笑顔は眩しかった。

 夕暮れが終わり、日が暮れてきた後、彼女は自宅に私を誘い、私はそれに頷いた。

 彼女の家に、彼女の両親は不在だった。

「私の家ね、パパもママもいつもいないの」

 広い、寂しい家の中で彼女はぽつりとそういった。



 ふたりでお風呂に入った。

 早乙女家の風呂場は広かった。

 ふたりでじゃれつくように体を洗いながら、彼女はぽつぽつと自分のことを語った。

「わたしのパパね、悪い人なのよ。お金をたくさんだまし取って、たくさん恨まれている。

 だから、いじめられてたの。

 でもいいんだ。堅香子さんに逢えたから」

 睡蓮の肌は、心地の良い冷たさだった。

 睡蓮の唇は、心地の良い暖かさだった。

「わたしね、お父さんの悪い仕事、良く手伝ってるの。……堅香子さんに、わたしの全部を知ってほしい。堅香子さんのすべてをわたしに教えてほしい……、堅香子さんにはないの? きっとあるよね。悪いところ。だってわたしとおんなじ匂いがするから……」

 睡蓮は私の首筋を噛んだ。蕩けるように指先を絡めて、カラダを重ねる。

「ずっと、堅香子さんに惹かれていたの。あなたの中に闇を見たから。わたしと同じかそれ以上の重たいもの……。ねぇ、教えて、貴女のこと」

 甘い声で、彼女は語る。

 深い闇に沈んでいくような心地になって

「……私ね――」



 まもなく、睡蓮は学校に来なくなった。

 家族と共に蒸発したのだ。

 さよならさえ、私は言うことが出来なかった。

「お前はさ、好きになっちゃいけないやつを好きになったんだよ」

 かつて彼女がつるんでいたグループのだれかがそう言った。

 私は何も言わなかった。


 ふと睡蓮にした、私の告白を思い出す。

 彼女はきっと他言しないだろうと思う。別にしてもいいけど。

 私は、彼女に私の罪を告白したのだ。

 それは甘美で、月のない夜空のように黒い、


「……私ね――父親を殺したの」


 そんな告白。

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