逃水に溺れる
夏だった。
暑く、熱い。
そんな夏の日差しがじりじりと、私を苛むように降り注いでいた。
どこからか、風鈴の音がする。
ちりりん、ちりりん。
涼し気な、その風鈴の音色だけがむせ返るようなアスファルトの逃げ水の中で泳いでいた。
今日は、弟の命日だ。
弟の墓前で、ぼんやりとあの日のことを思い出している。
弟が覚せい剤をやっていたことを知ったのは、弟がそれが原因で死んだ日の夕方だった。
まるでこの世の終わりのように、赤黒い夕景の中だった。
「あ」
声がした。
男性の声だった。
振り向くと見知った顔があった。
無精ひげを生やした、背の高い男だった。
弟の死を通報した男だった。
彼は弟の恋人で、つい先日出所してきたばかりのせいか頬はこけ、頭は丸刈りだった。
彼は軽く会釈をした。
私は何もしなかった。
彼は私の横、弟の正面に陣取るとしゃがみ込み、両手を合わせた。
ぶつぶつと何かを唱えていた。
私は弟の前から立ち去った。
彼は弟と一緒に薬物を摂取してから性行為に及ぼうとしていた。
そしてその過程で弟は死んだ。
私と弟は仲の悪い姉弟だった。
だったはずだった。
はずだったのに、弟の死体を前にしたとき、私の胸にはぽっかりと穴が開いていた。
その穴は底なしで、コンクリートで埋め立てることもできなかった。
その穴は、今も空いたまま。
夏風だけが、その穴の隙間を通り過ぎていった。
※
彼は私の恋人であった。
少なくとも私はそう思っている。
お姉さんがいることは聞いていなかった。
だが意外性はなかった。
なんとなく、そういう雰囲気が彼にはあったから。
ずっと、誰かの下にいて、鬱屈していたような雰囲気が。
夏の下で彼のことを思い出す。
繁華街の路地裏、胸やけのするような匂いの中で、彼はクスリを売っていた。
彼は売人だったのだ。
当時、良くないタイプのゲイバーで働いていた私は酷く憔悴していた。
苦しくて仕方がなかった私はクスリに手を出そうとした。
そして彼に出会った。
私は彼にクスリをねだった。
くるしくてくるしくて仕方がないのだとねだった。
彼は私に言った。
お前にはこれをやる。そこらの客には売らない、純性の薬物だ。粗悪品ではないものだ。これをおれはおまえに売ってやる。
お前に同情したんだ。まだ新人だったからな。と、のちの彼は語った。
その時、ラブホテルのベットの上で彼は煙草をふかしていた。
その横顔を、私は綺麗だと感じた。
ある日、彼はボロボロになった状態で私の住処に転がり落ちてきた。
ひどい血と酒の匂いがした。
介抱をしようとした私の手を彼は払いのけた。
ヤろうぜ、早くさ。
そういって彼は私を押し倒した。
あれほど激しいのは初めてだった。
私は激痛に声を上げた。
私が声を挙げると彼は手を挙げた。
彼が暴力を振るうところを私は初めて見た。
おもむろに彼はクスリを取り出した。
一目見て粗悪品だと分かった。
乱雑にそれを注射器に詰めて彼は刺した。
首筋にがりがりと薬物が押し込まれていった。
死んでしまうと私は思った。
でも言わなかった。
彼は嗤った顔で泣いていた。
直後に彼は絶頂を迎えた。
私はあまりの衝撃に気を喪ってしまった。
目覚めた時、彼は死んでいた。
※
両親が死んで私と弟は二人暮らしを始めた。
ほとんど話すことはなかった。
奨学金で生活を切り盛りする私に対して、弟がどうやって金を稼いでいるのか、普段何をしているのか。私は知らなかった。
弟は私に対して何もしなかった。何も言わなかった。何も知らなかった。
ただ義務的に金だけを家に落としていた。
私は孤独だった。
ある日、雨に濡れて弟が帰ってきた。
いきなりのことだった。
私を独り、自分を慰めていた。
弟は私をじっと見つめていた。
私は、どういうわけか性器をいじる手を止めなかった。
止めると、何かに負けてしまう気がしていた。
自慰は激しさを増し、私はイった。
噴き出した潮が弟にかかった。
弟は無表情のままだった。
私は弟を罵倒した。
素っ裸のままで食いつくように弟に殴りかかった。
やがて弟はおもむろに腕を伸ばした。
私の首に手がかかり、息が出来なくなった。
やがて意識がなくなった。
翌日、弟は死んだ。
※
夏の逃げ水の中でセミが鳴いていた。
何年も地の中で、誰にも見つけてもらえない蝉はこの一週間だけ叫びをあげる。
必死で、自分以外の同族を探すために鳴いている。
やがて一匹が鳴くのをやめた。
咽かえるようなアスファルトの逃げ水の中に落ちていった。
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