理不尽な平手打ちを避ける
木の影に入っているから、それほど暑くはない。しかし、生ぬるい風が頬を撫で、目の前に見える長いポニーテールの髪が揺れた。
「大丈夫、いきなり殴りかかったりしないから。そんなのは漫画の世界だ」
「何か用ですか?」
「まずは自己紹介から。俺は朝丘
「俺は、
「よろしく」
「はい」
いや、これ、絶対に、よろしくっていう雰囲気じゃない。
「君は、
「先日、別れました」
「ほぉ、それで、すぐに
高塚さんが、いや、
「朝丘、どうして私たちが付き合っていると思うんだ?」
「男の勘だ」
「まあいい、そうだ、付き合うことにした」
「手癖の悪い、風上に置けない男だ」
「それはちょっと嫌みったらしい言い方だぞ」
「事実、事実」
そういいながら、
これは、来る。肩に力が入ってくる。突いてくる? いや、怪我をするようなことはしてこないだろう。ということは、ひっぱたかれる可能性が高い。
――ブンッ
朝丘さんの手が俺の目の前を通り過ぎた。ひっぱたく時の動作は大きい。予測さえできれば、避けることは簡単だ。
「俺に敵意があるってことでいいですか?」
「二人とも
さすがにムカつく。
――ドスッ
「あ、すいません、大丈夫ですか?」
朝丘さんが殴りかかって来たので、すかさずテナーサックスのケースを前に出したら、自分からぶつかってくれた。
俺のテナーサックスケースは、サックスや、一緒に入れてあるスタンドも含めると九キロはある。しかもハードケースだ。
目の前で朝丘さんはうずくまった。これで不慮の事故に見せかけれたはず。後は
「朝丘、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫。
良かった。
「朝丘、早く持ち場に戻らないと」
「わかった。
「わかりました」
きっと、何か因縁をつけてボコりたいに違いない。
なにも話さないまま、
いくら
なんとなく、
「
「はい、大丈夫です」
俺は恋愛関係に鈍感な方だが、
「ところで、
「いえ、うれしいです。でも……」
「でも?」
「
俺は最低な男なのかもしれない。
「
「そうですか?」
何でそんなこと、知っているんだろう?
「私にとっては君をひとり占めするチャンスなんだ。利用しているのは私のほうだ。気にするな」
「はい……」
「
あれ? さっきは鈍感な人と思ったが、実はそうではないのか?
「そうですね……俺、
「まあ、その
殴られ屋の時のことか? それとも、メインステージで演奏したあとのことか?
「提案なんだが、大学の外で今後のことを話さないか?」
「いい案だと思います。どこにしますか?」
「去年、私のアパートの近くに、ルターバックスができて、そこはどうだろうか?」
俺たちは大学の正門へ向かって歩き始めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「もしかして、駅に向かうバスの途中、右側の店ですか?」
「そうだ。君は話が早いな。私はその近くにあるアパートに住んでいて、そこからバスで通っている」
「そうでしたか。俺は自転車です」
「自転車!?」
「はい」
「どこから?」
「大きな駅……大通り図書館とか近くにある駅です」
「それ、すごくないか?」
「いえ、来る時は楽です。バスより早いぐらいです」
「なるほど、下り坂だからか」
「はい。帰りも、道が混んでいたら自転車の方が早いです」
「やっぱり、それはすごいぞ」
自転車置き場に着くと、
「良かったら、一緒にバスで行かないか? もうすぐ来る」
「そうですね、わかりました」
バス停の前に立つと、
「
「わかりました」
「KINEは?」
「俺、KINE、やってないんです。電話番号とメールでいいですか?」
「それはそれで、違う意味で凄いな」
「なんとなくです」
実は高校生の時、KINEを入れていた。アカウントを削除して以来、そのまま入れていないだけだ。嫌なことを思い出してしまった。
「大丈夫か?」
「はい」
バスに乗ると、
「もう少し、近づいてくれないか?」
なんか、ちょっとモジモジっとしながら親指の爪を噛むしぐさが可愛い。美人とは思っていたけど、こんな可愛い仕草もするんだ。
ルターバックス、憧れのルターバックス、俺の街には無かった。台湾に住んでいた頃は、親に時々連れて行ってもらったが。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
バスで十五分もかからず、ルターバックスの傍にあるバス停に到着した。そして、二人で店の中へ……。あ、でも……。
「あの、俺、ルターバックスで注文するの、初めてなんです」
「任せておけ」
二人してレジの前に立つと……メ、メニューの文字が目に入らない、どういうことだ?
空手なら相手の動きを見切り、音楽ならばサックスを演奏しながらでも、ドラムのフィルインの変化だって聴き分けられる。
結局、
――シュワー
なんの音だろうか。あれがうわさに聞く、エスプレッソマシンとかいうやつか?
「
「どうしてですか?」
「いや、初めてとはいえ、そんなに食い入るように珈琲を淹れるところを見るなんて」
「俺、メカメカしいもの、大好きなんです」
「そうか、じゃあ、今度、自動みたらし団子焼き機がある店に行こう」
「全然、想像できません。楽しみです」
コテっと
いい香りがする。なんというか、どこかで嗅いだことがあるような……あ。
「
「あはは、さっき、暑くてな。あれは部費で買えるから重宝しているんだ。汗臭いよりいいだろう?」
うーん、どうなんだろう?
「
「そうかな。どうしてそう思うんだ?」
「体験入部の時に、メンホーを借りたので」
「
「いえ、その、明確に憶えている訳では……」
「冗談、冗談」
それから二時間ほど話をした。
しばらくの間、大学内では、ただの知り合いということにしておき、俺は
ついでに、親父とお袋のことについても話をしておいた。
親父の「母さんはルターバックスで働いていて、カプチーノと一緒にテイクアウトしたんだ」というセリフには、さっきまでの
そして、次の言葉は……。
「うけるけど、ちょっと寒いかも」
「そうですよね」
「さて、
「なんでしょうか?」
「一緒に暮らさないか?」
え? いきなり一緒に暮らす? どういうこと?
「あの……」
「実は、兄と一緒に暮らしている。今、住んでいるマンションは、3LDKで、ひと部屋余っている。聞けば、君は料理が得意とのこと」
「得意というほどではありませんが、好きです」
「そうか。私は掃除洗濯はできるが、料理は苦手でな。料理をしてくれるなら、家賃は無料、その他は折半……というか、まあ、固定で決めよう。これなら君もバイトを変えなくていい。お互い、メリットはあると思うのだが」
「た、確かにそうですね」
今でも、
まあ、兄さんも一緒ということなら、いきなりあれこれ急展開ということは無いか。え? 確か、
「あの、お兄さん、会っても大丈夫なんですか?」
「もちろんだとも。君のことを話したら、会いたがっていたぞ」
「そうですか」
「そういうわけで、兄からOKがもらえたら連絡する」
「う、うう、いいのかな」
ちょっとの間が空いた。なんだろう?
「あはは、君らしくない言葉遣いだな」
人差し指でテーブルをグリグリしている。
――ウィンウィン……
こんな時に限って、知っている曲がBGMで流れて来る。集中できない。確か、次のフレーズは上がって急に下がるやつだ。
横で誰かが動いた。背中しか見えないが、さっきから飲み物をまったく飲んでいない。
「あの、言いにくいのだが……」
「はい」
「その、夜の方は心の準備ができるまで待ってくれ」
可憐な
さっき、キスは初めてって言っていたじゃないか。嫌われるかも。
「すまない。
やっぱり
ひとつ向こうのテーブルに座っている男性が立ちあがった。
「
「うーむ、何となく部長に似ているような気がする。でも、部長は今、大学にいるはずだ。他人の空似だろう」
「そうですか」
「どうしてそんなことを訊くんだ?」
どうしよう、正直に話そうか。
「いえ、あの人、飲み物、結局、まったく飲んでいなかったので」
「君はそんなことまでわかるのか?」
「まあ、臆病者なのでいつも警戒体制なんです」
「そうか、おもしろいことを言うな」
いや、それにしても、本当に
寝込みを襲われるようなことはないだろうが、何かの折に、道場とか引っ張り出されて再戦を申し込まれそうだし。
それに、やっぱり、妹、
----------------
あとがき
数ある小説の中から読んで頂き、ありがとうございます。
テナーサックスですが、レルマー(例によって名前は濁していますが)のテナーサックスにケース、それにスタンドを一緒に収納すると、九キロほどになります。
そんなわけで、かなりの防御力を持ちます。
本来の使い方ではありませんので、お間違いなく。
おもしろいなって思っていただけたら、★で応援してくださると、転がって喜びます。
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それではまた!
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