理不尽な平手打ちを避ける

 木の影に入っているから、それほど暑くはない。しかし、生ぬるい風が頬を撫で、目の前に見える長いポニーテールの髪が揺れた。


「大丈夫、いきなり殴りかかったりしないから。そんなのは漫画の世界だ」

「何か用ですか?」


 春日かすが越しに話をしているのが、妙な気分だ。


「まずは自己紹介から。俺は朝丘居群いむれ春日かすがと同じ二回生だ」

「俺は、清水きよみず二海ふたみです」

「よろしく」

「はい」


 いや、これ、絶対に、よろしくっていう雰囲気じゃない。


「君は、菜可乃なかのと付き合っていたんじゃないのか?」

「先日、別れました」

「ほぉ、それで、すぐに春日かすがと付き合うと」


 高塚さんが、いや、春日かすがが、なかなか呼び方を切り替えるのは難しいな……まあ、とにかく、春日かすがが間に入った。


「朝丘、どうして私たちが付き合っていると思うんだ?」

「男の勘だ」

「まあいい、そうだ、付き合うことにした」

「手癖の悪い、風上に置けない男だ」

「それはちょっと嫌みったらしい言い方だぞ」

「事実、事実」


 そういいながら、春日かすがを押しのけて俺の方に近づいてきた。

 これは、来る。肩に力が入ってくる。突いてくる? いや、怪我をするようなことはしてこないだろう。ということは、ひっぱたかれる可能性が高い。


――ブンッ


 朝丘さんの手が俺の目の前を通り過ぎた。ひっぱたく時の動作は大きい。予測さえできれば、避けることは簡単だ。


「俺に敵意があるってことでいいですか?」

「二人ともめるんだ」


 さすがにムカつく。春日かすがの声に、俺はそのまま下がった。


――ドスッ


「あ、すいません、大丈夫ですか?」


 朝丘さんが殴りかかって来たので、すかさずテナーサックスのケースを前に出したら、自分からぶつかってくれた。

 俺のテナーサックスケースは、サックスや、一緒に入れてあるスタンドも含めると九キロはある。しかもハードケースだ。


 目の前で朝丘さんはうずくまった。これで不慮の事故に見せかけれたはず。後は春日かすががうまいことまとめてくれれば。


「朝丘、大丈夫か?」

「ああ、大丈夫。清水きよみず、悪かったな」


 良かった。春日かすががもし朝丘さんを責めていたら、悪い方に話が流れるところだった。


「朝丘、早く持ち場に戻らないと」

「わかった。清水きよみず、たまには空手道部にも顔を出してくれよな」

「わかりました」


 きっと、何か因縁をつけてボコりたいに違いない。


 なにも話さないまま、春日かすがと一緒にジャズ研が演奏している講堂へ向かった。確かに都合のいい話だよな。

 いくら菜可乃なかのが仕組んだとはいえ、菜可乃なかのと別れてすぐに春日かすがと付き合うなんて。


 なんとなく、春日かすがと一緒にいるところをジャズ研メンバーに見られるのが嫌だったので、春日かすがには廊下で待ってもらい、ひとりで講堂に入って楽器を置くとすぐに廊下に出た。


二海ふたみ、朝丘のこと、悪く思わないでくれ。あんなことがあった後で言うのもなんだが、面倒見のいい、優しい男なんだ」

「はい、大丈夫です」


 俺は恋愛関係に鈍感な方だが、春日かすがも相当なもんだ。朝丘さん、春日かすがのことを好いている。でも確信はないから、黙っておこう。


「ところで、二海ふたみ、あまりうれしそうじゃない表情だが、私と付き合うのは嫌か?」

「いえ、うれしいです。でも……」

「でも?」

菜可乃なかのと別れて、なんか、胸に穴が開いたような感じがしていて。その穴埋めに利用しようとしているかもって」


 俺は最低な男なのかもしれない。


二海ふたみ、以前より言葉数が増えたな」

「そうですか?」


 何でそんなこと、知っているんだろう?


「私にとっては君をひとり占めするチャンスなんだ。利用しているのは私のほうだ。気にするな」

「はい……」


 春日かすがは立ち止まったまま、あたりを見渡した。


二海ふたみ、大学内で一緒にいるところを見られるのは、あまり良くない気がする」


 あれ? さっきは鈍感な人と思ったが、実はそうではないのか?


「そうですね……俺、菜可乃なかのと別れたばかりですし」

「まあ、その菜可乃なかのに背中を押してもらったわけだが」


 殴られ屋の時のことか? それとも、メインステージで演奏したあとのことか?


「提案なんだが、大学の外で今後のことを話さないか?」

「いい案だと思います。どこにしますか?」

「去年、私のアパートの近くに、ルターバックスができて、そこはどうだろうか?」


 俺たちは大学の正門へ向かって歩き始めた。



  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



「もしかして、駅に向かうバスの途中、右側の店ですか?」

「そうだ。君は話が早いな。私はその近くにあるアパートに住んでいて、そこからバスで通っている」

「そうでしたか。俺は自転車です」


「自転車!?」

「はい」

「どこから?」

「大きな駅……大通り図書館とか近くにある駅です」


 春日かすがの長いポニーテールがふわっと揺れた。時折、強い風が吹く。空を見ると、結構な速度で雲が動いている。きっと低いところにある雲なんだろう。


「それ、すごくないか?」

「いえ、来る時は楽です。バスより早いぐらいです」

「なるほど、下り坂だからか」

「はい。帰りも、道が混んでいたら自転車の方が早いです」

「やっぱり、それはすごいぞ」


 自転車置き場に着くと、春日かすがはスマホでバスの時刻を確認した。


「良かったら、一緒にバスで行かないか? もうすぐ来る」

「そうですね、わかりました」


 バス停の前に立つと、春日かすがは再びスマホを取り出した。


二海ふたみ、一応、先に連絡先を交換しておこう」

「わかりました」

「KINEは?」

「俺、KINE、やってないんです。電話番号とメールでいいですか?」

「それはそれで、違う意味で凄いな」

「なんとなくです」


 実は高校生の時、KINEを入れていた。アカウントを削除して以来、そのまま入れていないだけだ。嫌なことを思い出してしまった。


「大丈夫か?」

「はい」


 バスに乗ると、春日かすがはバスの一番後ろに座ったので、俺もゆっくりと横に座った。


「もう少し、近づいてくれないか?」


 なんか、ちょっとモジモジっとしながら親指の爪を噛むしぐさが可愛い。美人とは思っていたけど、こんな可愛い仕草もするんだ。


 ルターバックス、憧れのルターバックス、俺の街には無かった。台湾に住んでいた頃は、親に時々連れて行ってもらったが。



  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



 バスで十五分もかからず、ルターバックスの傍にあるバス停に到着した。そして、二人で店の中へ……。あ、でも……。


「あの、俺、ルターバックスで注文するの、初めてなんです」

「任せておけ」


 二人してレジの前に立つと……メ、メニューの文字が目に入らない、どういうことだ?


 空手なら相手の動きを見切り、音楽ならばサックスを演奏しながらでも、ドラムのフィルインの変化だって聴き分けられる。


 結局、春日かすがと優しい店員さんのおかげで、俺はカプチーノを注文することができた。春日かすがはフラペチーノ。俺はめっちゃかっこ悪かったと思う。


――シュワー


 なんの音だろうか。あれがうわさに聞く、エスプレッソマシンとかいうやつか?


二海ふたみはおもしろいな」

「どうしてですか?」

「いや、初めてとはいえ、そんなに食い入るように珈琲を淹れるところを見るなんて」

「俺、メカメカしいもの、大好きなんです」

「そうか、じゃあ、今度、自動みたらし団子焼き機がある店に行こう」

「全然、想像できません。楽しみです」


 春日かすがの斜め前に座ると、ヒョイヒョイと手招きをされた。隣に座れと言う意味だろうか。俺は立ち上がると、春日かすがの横に座った。

コテっと春日かすがの頭がこちらに倒れてきた。正解だったようだ。


 いい香りがする。なんというか、どこかで嗅いだことがあるような……あ。


春日かすが、もしかして、冷却スプレー、頭にかけていませんか?」

「あはは、さっき、暑くてな。あれは部費で買えるから重宝しているんだ。汗臭いよりいいだろう?」


 うーん、どうなんだろう?


春日かすがは汗をかいても、いい匂いだと思います」

「そうかな。どうしてそう思うんだ?」

「体験入部の時に、メンホーを借りたので」

二海ふたみ、結構、マニアックなんだな。私の匂いを覚えているなんて」

「いえ、その、明確に憶えている訳では……」

「冗談、冗談」


 それから二時間ほど話をした。春日かすがは、ここから徒歩数分のところにある、今は他界してしまった祖父母のマンションに住んでいること。

 しばらくの間、大学内では、ただの知り合いということにしておき、俺は菜可乃なかのとほどよく、くっついておくこと。


 ついでに、親父とお袋のことについても話をしておいた。


  親父の「母さんはルターバックスで働いていて、カプチーノと一緒にテイクアウトしたんだ」というセリフには、さっきまでの春日かすがからは想像できないような笑い声をあげた。


 そして、次の言葉は……。


「うけるけど、ちょっと寒いかも」

「そうですよね」


「さて、二海ふたみ、提案なんだが」

「なんでしょうか?」

「一緒に暮らさないか?」


 え? いきなり一緒に暮らす? どういうこと?


「あの……」

「実は、兄と一緒に暮らしている。今、住んでいるマンションは、3LDKで、ひと部屋余っている。聞けば、君は料理が得意とのこと」


 菜可乃なかの、何か春日かすがに吹き込んだな……。そんなに世話になっていいものだろうか。流されダメ男の代表だな。


「得意というほどではありませんが、好きです」


「そうか。私は掃除洗濯はできるが、料理は苦手でな。料理をしてくれるなら、家賃は無料、その他は折半……というか、まあ、固定で決めよう。これなら君もバイトを変えなくていい。お互い、メリットはあると思うのだが」


「た、確かにそうですね」


 今でも、菜可乃なかののアパートに住んでいたことを前提としたバイトなので、かなり通学が辛い。無理しない程度まで減らすと、休日がまったく無くなる。


 まあ、兄さんも一緒ということなら、いきなりあれこれ急展開ということは無いか。え? 確か、春日かすがの兄って……。


「あの、お兄さん、会っても大丈夫なんですか?」

「もちろんだとも。君のことを話したら、会いたがっていたぞ」

「そうですか」

「そういうわけで、兄からOKがもらえたら連絡する」

「う、うう、いいのかな」


 ちょっとの間が空いた。なんだろう?


「あはは、君らしくない言葉遣いだな」


 春日かすがの頭が俺の肩から上がり、俺の顔を見た。俺も春日かすがの顔を見たが、俺と目が合った瞬間、すぐにテーブルへと視線を落とした。

 人差し指でテーブルをグリグリしている。


――ウィンウィン……


 春日かすががつぶやいた。もしかしたら、電動ドリルの真似なのかもしれない。頬と耳が赤くなっていく。


 こんな時に限って、知っている曲がBGMで流れて来る。集中できない。確か、次のフレーズは上がって急に下がるやつだ。


 横で誰かが動いた。背中しか見えないが、さっきから飲み物をまったく飲んでいない。


「あの、言いにくいのだが……」

「はい」

「その、夜の方は心の準備ができるまで待ってくれ」


 可憐な春日かすがに言わせてしまった。これは俺が言うべきセリフだった。鈍感にもほどがある。

 さっき、キスは初めてって言っていたじゃないか。嫌われるかも。


「すまない。菜可乃なかのみたいにできなくて」


 やっぱり菜可乃なかの、なにか話している。


 ひとつ向こうのテーブルに座っている男性が立ちあがった。


春日かすが、あの人、知っていますか?」

「うーむ、何となく部長に似ているような気がする。でも、部長は今、大学にいるはずだ。他人の空似だろう」

「そうですか」

「どうしてそんなことを訊くんだ?」


 どうしよう、正直に話そうか。


「いえ、あの人、飲み物、結局、まったく飲んでいなかったので」

「君はそんなことまでわかるのか?」

「まあ、臆病者なのでいつも警戒体制なんです」

「そうか、おもしろいことを言うな」


 いや、それにしても、本当に春日かすがの兄貴、俺を歓迎しているのか?


 寝込みを襲われるようなことはないだろうが、何かの折に、道場とか引っ張り出されて再戦を申し込まれそうだし。

 それに、やっぱり、妹、春日かすがのことが気になるだろうし……監視カメラでも付けられそうだ。




   ----------------




あとがき

数ある小説の中から読んで頂き、ありがとうございます。


テナーサックスですが、レルマー(例によって名前は濁していますが)のテナーサックスにケース、それにスタンドを一緒に収納すると、九キロほどになります。


そんなわけで、かなりの防御力を持ちます。


本来の使い方ではありませんので、お間違いなく。



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それではまた!

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