とりあえず無事に演奏終了
廊下の窓から、十月のちょっとさわやかさを感じる風が吹き込んだ。このあたりは風が強い。高塚さんの長いポニーテールが揺れる。本当に綺麗な人だ。
もう、自分の担当は終わったのか、稽古着ではなく私服だ。
ヒダヒダになっているやつ。なんて名前? プリーツだったか。
「ところで
「もちろんです。行きます」
少々、気まずいなと思いつつ、まあ、あの時から半年、もう、俺のことは忘れているだろう。人間なんてそんなもんだ。
お好み焼き、焼きそば、たこせん、チョコバナナを抜けると、空手道部の模擬店が見えてきた。
射的っぽい感じでぬいぐるみが並べられているが、そうではなさそうだ。
――殴られ屋
なるほど。昔、そういう商売をしている人の話を聞いたことがある。まず、最初に金を払い、時間内に殴ることができたら金を倍返ししてくれるってやつだ。
きっとここでは、ぬいぐるみをもらえるのだろう。
「
「いいですけど……」
「どうした?」
「たぶん、殴っちゃいます」
「ふはははっ、空手道部が殴られ屋を始めて以来、今まで殴れた奴はいないぞ」
「そうですか。じゃあ」
いつぞやの部長だ。ふーん、そっか。俺は横にいる女子大学生に五百円を渡し、ボクシング用のグローブを左手に付けてもらった。
「制限時間は三十秒、じゃあ、始め!」
――パシッ
こんなの一瞬だ。
「ちょ、ちょっとお前、何をしたんだ?」
「殴っただけですよ」
「もう一回、もう一回だ!」
「
「え、
う、痛いところを突っ込まれた。確かに忘れていないし、また一緒に暮らせたらいいなと思っている。
「忘れるもんか」
「え?」
グローブを付けていない右手で財布を取り出し、
「グローブ、もうちょっときつめにしてもらっていいですか?」
「わかったわ」
受付の女子大学生は、グローブの紐を一旦ほどき、きつく縛りなおした。軽くパンチをしてみて締まり具合を確認、よし。
「いいですよ」
「じゃあ、始め!」
――バシッ
「い、痛たたっ」
今度はさっきよりマジに、力を込めて殴ってやった。
「高塚さん、ぬいぐるみ、どうぞ」
なんか、高塚さんの目つきが変わった。いや、一発目の時から目を見開いているが、今はうるんでいるように見える。
「その、
「秘密です。知りたければ、
「
「そうです。有料の講習会だったので秘密です」
「わかった。君にはそんな経験があったのか」
「はい」
――ドンッ
いきなり
「な、
高塚さん、なんだか焦っている。そういえば、以前、俺の事を好きだと言っていたっけ。
「いいじゃないですか、先輩。今、
「いや、そういう訳ではなく……」
「そういいながら、こっそり
「あ、ふ、ふた、いや、
「うほんっ」
部長が咳払いをした。部長を見ると、その後ろで俺をにらんでいる奴がいる。なにか恨みを買うようなことをしてしまったのか。
「俺、メインステージの方に呼ばれているので、これで行きます」
「もう一回、やってくれないか? 無料でもいいぞ」
「すいません、本当に時間がないので、また来年」
「来年と言わず、用が済んでからでも、明日でもいいからな」
「わかりました。
「
「ああ。友人のステージだからな、観に行かないと」
「それじゃ、失礼します」
俺は礼をすると、人ごみの中、三人で一旦、講堂に戻り、テナーサックスを持ってメインステージへ向かった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
時間は午後二時少し前。時折、雲が通り過ぎていくが日差しは強い。メインステージでは、何か創作系っぽいダンスをやっている。
赤や黒、緑といった民族衣装的な服装が綺麗だ。
茶髪女子大生は、ステージ脇のテントにいた。
テントの中には大きなミキサーなどの音響機器が並んでいる。さすが、大学祭は違うな、地元の楽器屋にPAを依頼しているんだろう。
「Apple楽器」と印刷されたステッカーが貼ってある。
「あの、曲のキーは原曲通りですか?」
「そう。Bフラットだよ。三曲やるんだけど、ラスト。それまで待機していて」
「はい」
「あと、サックス用の有線マイクも用意してもらったから、ステージに上がる時、受け取って」
「わかりました」
それから十五分ほどしてステージの転換が始まり、スタッフたちがマイクなどをセットし始めた。ドラムは最初からステージの奥側に置いてある。
しまった、俺の立つ場所、確認するのを忘れた。
まあいいか、マイクは有線、足元のダイレクトボックスに接続するはずだから、見ればわかるはず。
茶髪女子大生は、なんとボーカルだった。なるほど、QCサクセション、結構、ピッチが高いからな。声が低めの女性ならちょうどいい。
ファンクラブの連中、あ、いや、さっき見に来てくれたから……ファンクラブの皆さん、がんばって応援している。
俺はちょっと離れた所でサックスを組み立て、小さな音で鳴らし始めた。本来、こうやって気温になじませていかないと、ピッチが安定しない。
サックスの調子はいい。ジャズ研で暴れたせいか、或いは、今、しっかりと準備できているという感覚を持っているせいか、緊張はしていない。
一曲目が終わると、ステージ脇のテントに戻った。
「
「はい。え?」
「もう、先輩ったら、さりげなく距離詰めちゃって」
そう、俺のことを下の名前で親しげに呼んだのは、高塚さんだった。
「い、いや、
「先輩、顔、赤いですよ」
「ま、まあ、今日は天気がいいから、日焼けしたのかもな」
「たったの三秒で日焼け、しますか?」
「するものはする、うん、する」
二曲目が終わり、俺はスタッフと一緒にメインステージに上がった。
「ファンタム電源、お願いします」
「大丈夫ですよ、任せてください」
茶髪女子大生に軽く紹介してもらった後、カウントが始まった。いきなり一発目から音を出していく。
この曲は大好きな曲、動画通りの展開ならそれらしく演奏するのは難しくない。
ん? 動画通りの展開? もしかして……。
この曲、後半、ロックの定番スリーコード繰り返しが入り、各メンバーが紹介されながらアドリブ演奏をする。まさかと思うけど、俺にも回ってくるのか?
来た、しかも茶髪女子大生、後ろから俺に抱きついてきた。ちょっとそこ、触るな、そんなことされたら……フレーズがエロくなってしまう……。
そして大いに盛り上がった三曲目、無事、終了。ファンクラブからのアンコールを無視してみんなでメインステージを降りた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「
「
「ありがとうございます」
軽音部のメンバーからも、握手を求められた。
「ぜひ、また一緒にやろう。正式な部員にならなくてもいいから」
「わかりました。俺も楽しかったです。また手伝わせてください」
――ボコッ
見ると、茶髪女子大生が高塚さんに頭を叩かれていた。
「いったいな、もう」
「抱きつくのはともかく、あんな抱きつき方はダメ」
「いいじゃん、ノリよ、ノリ」
「
「大丈夫よ。こういう世界だから」
「もう! じゃあ私も……」
高塚さんは俺の正面に立つと、いきなり近づいてきた。これは抱きつかれるやつだ。
「危ない!」
俺は首から下げているサックスを横に倒し、高塚さんが倒れる可能性を考えて、少し腰を下げて抱き受ける体制を取った。
サックスを横に倒したのは、マウスピースに付いている尖ったリードで、怪我をすることがあるからだ。
高塚さんは、そのまま俺にキスをした。目は開けたまま。この目は、驚きの表情だ。少し、腰を下げたのが裏目に出た……が、さっきの高塚さんの勢いだったら、転んでいたかもしれない。
サックスを持ったままじゃ、できることは限られている。正解と言うことにしておこう。
「す、す、すまない……」
「大丈夫ですか?」
「いや、楽器がある前提で抱き着こうとしたら、楽器が無くなってしまって……その、勢い余って、事故だ、これは事故なんだ」
「先輩、『故意の事故』じゃないんですか? もう」
「
「と、とにかく、俺、楽器、片付けますので」
テントからちょっと離れた所で、サックスを片付け始めると、傍で人影が揺れた。ヒラヒラと長い髪の揺れが影の動きだけでわかる。高塚さんだ。
「あの、
「なんでしょうか?」
「実は、初めてだったんだ」
「え?」
メインステージでは、次の演目、ヒップホップ系のダンスが始まった。音が大きくて会話しにくいと思ったのか、高塚さんは俺の横にしゃがんだ。
「高塚さん、綺麗なのに彼氏、いなかったんですか?」
「実は彼氏とか彼女とか、できたことがないんだ」
彼氏はともかく、彼女ってなんだろう? GLの世界にもいた人なのかな。
「その、なんか、すいません」
「いいんだ。その、前々から君のことは好きだったんだが、殴られ屋を初めて殴ったという歴史的瞬間に立ち会った。それに、さっきの演奏、なんというか、身体の中が熱くなるのを感じた」
「たぶん、エロい感じで触られながら演奏したからだと思います」
「つまりだ、私は君のことをもっと好きになった」
う、ここはなんて答えたらいいんだろうか?
「君は私のことをどう思う?」
「素敵な方だと思います」
「どんなところが?」
「とても
高塚さんは、しゃがんでいるのが疲れたのか、地面に膝をついた。
「付き合おう」
え? ポニテ美女から、まさかの告白? 振り返ると、少し離れた所で
「でも、俺、
「知っている。今、君は寂しさを感じている。私が埋めてやる」
「
「バイトが忙しいこと、同棲していたが、話し合って納得したうえで別れたことぐらいだ」
「そうですか」
確かに、今までに感じたことのなかった虚無感みたいなものが、胸の中でずっとくすぶっている。でも、また、この流れでいいのか? 三人目だぞ。
「じゃあ、こうしよう。半年、つまり三月まで、まずは付き合ってみる」
「は、はい」
「そして、継続するかどうか話し合おう」
う、なんか、すごい迫力……。歳はひとつしか違わないのに、なんて大人っぽいんだろう。
「わかりました」
思わず答えてしまった。高塚さんは振り返り、
「ついては、まずは私のことを
「わかりました。
「タメでいいから」
「それはちょっと……緩めの敬語でいいですか?」
「わかった。そこは妥協しよう」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
テナーサックスを講堂に持っていくため、他の人にサックスケースをぶつけないよう気をつけながら、一旦、大学祭のメインストリートになっていない道まで移動した。
部室はまだ鍵がかかっているため、ジャズ研が演奏している講堂に楽器を保管するためだ。
「
後ろから声が聞こえた。振り返ると、稽古着を着た男子大学生が立っていた。
「朝丘、どうしたんだ? 君、今、模擬店の担当じゃなかったのか?」
「いや、ちょっとそいつのことが気に入らなくてさ」
「
「そう」
なんだか不穏な空気になって来た気がする。遠くからはコントの声が聞こえる。ヒップホップはもう終わったんだ。
――あきまへんな~
今、まさしくそんな雰囲気だ。
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あとがき
数ある小説の中から読んで頂き、ありがとうございます。
サックスに取り付けるタイプのマイクは、ほとんどコンデンサーマイクといって、四十八ボルトの電源を供給してあげる必要があります。
ダイレクトボックスの方の設定、或いはミキサーに直接接続している場合は、ミキサーの設定を変更する必要があるので、事前に連絡しておくと慌てなくてよいです。
管楽器でライブをする場合は、ご参考に。
おもしろいなって思っていただけたら、★で応援してくださると、転がって喜びます。
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それではまた!
貧乏大学生の恋事情は③年上女子大生の初めて 綿串天兵 @wtksis
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