花惑う少女は幻想スローライフの物語を紡ぐ

第一章 最果て島のリリィとロア

第1話 寝起きの花の惑い

 花が咲いている。


 絹のような花びらをいくつも重ねた白い蕾。

 茎は細く、葉はしっとりとして硝子がらす細工のように澄んでいる。

 花は死者の心臓から芽を出し、蕾の中には亡き人の魂の欠片が眠る。その姿はどこまでも儚く、惹きこまれるような美しさを保つ。


 花の名前は白妙しろたえつぼみ


 蕾のまま咲く姿からそう名付けられた。


 たくさんの白妙しろたえつぼみが風に揺れる。

 真白の花畑が広がり、小鳥のさえずりが快晴に澄み渡る。幸福な空だ。驚くほど暖かく、日向ぼっこをしたくなる。


 これは夢だ。

 この世界が本物だと誤解をしないうちに、本来の場所へ帰ろう。


 夢の中で目を閉じる。闇の中へ吸い込まれるようにして、小鳥の鳴き声が離れていく。全身が不安定になり、飛びながら地を這う奇妙な体感が続く。

 耳鳴りが始まった。厚い氷をスプーンで叩くような響き、聞きなれた冬の音だ。

 耳たぶが痛み、手足の先がこわばり凍えそう。それでも肌に馴染む冷気にほっとする。


 帰って来たんだ。


 重いまぶたを持ち上げる。うつ伏せの上体を起こせば、ベッドから上掛けの毛皮が落ちていることに気づく。


 どうりで寒いわけだ。


 毛皮をたぐり寄せるようにして拾い、抱きしめる。

 指先の震えが止まらず、頭の中で先ほどの夢がよみがえる。

 落ち着かない朝がきた。


 私は疑っている。ここは現実ではなくさっき見た夢の続き、白妙しろたえつぼみに宿る魂の欠片が作り出した死後の世界なのかもしれないって。


 今朝はとても寒く、睡眠中に凍死してもおかしくはない。


 亡くなった後、意識は花の内側に閉じ込められ、終わりのない夢を見続ける。私は死んでいることに気づかず一日を始めようとしている、なんて考えてしまう。

 ここ、最果て島はなんでもありだから、なにが起きても不思議ではない。


 確かめよう。この体が死んでいるのか、生きているのか。


 両手で頬を包むが、氷のように冷たく体温を確かめるのは難しい。ならばと片手を胸に当てる。


 どく、どく、どく。


 手のひらに触れる一定のリズムは昨日と変わらず規則的だ。胸がゆっくり上がり、酸素を吸い込み、白い息を吐く。肉体が生命維持活動を続けているなら生きている、はずだ。


 頭を振る。

 はずってなんだ。朝からネガティブすぎる。しっかりしろ、私。



「らしくないな。楽しく、冷静に、前向きに。うん、これくらい平気……」



 悪いクセが出た。心が弱ると目に映るものが信じられなくなる。不安が増すだけなのに、考えるのを止められない。

 不安はコントロールできる。死後の世界だと疑うから気落ちするんだ。顔を上げて、今いる場所を確認しよう。一日を始めれば悪い考えは消えてなくなる。


 足元を探るようにしてベッドを降りた。

 日の出を待つ室内は青白い薄闇に満ちている。

 まずは部屋を温めよう。温かいのは大事だ。寒いと命の危険を感じて気分が重くなる。


 薪ストーブにき付けを入れ、棚から金と銀の缶を取る。

 金の缶からねっちりとしたクリーム状の油を木べらですくい、薪に塗る。

 銀の缶には発火石を粉砕した火種が入っている。コーヒー豆を細かく砕いたような粉末を振りかけ、風を送る。

 薪ストーブが息を吹き返す。

 炎は弱る心に寄り添い、たおやかに燃える。手のひらをかざせば優しい熱が届く。自然と指先の震えが止まった。


 薪ストーブから火をもらいランタンを灯す。

 つるりとした白い壁と石畳、無秩序に積まれた本、古びた長方形の姿見。

 ひび割れた鏡面の前に立てば、小柄な少女が映る。やぼったい銀髪の奥から、りんとした紫の瞳がこちらを見つめている。

 覇気のない顔だ。口元を上げて目を開き、元気そうな表情を無理やり作る。魔物みたいな変顔に思わず笑う。


 なんだか元気が出てきた。


 口元に添えた手の甲には真新しい傷がひとつ。昨夜、誤って相棒にかじられたあとだ。

 噛まれた瞬間を思い出す。滲む血液は鮮やかで、不健康そうな肌に不釣り合いな色をしていた。

 手の甲を軽くさすれば、治りかけの傷がちくりとうずく。痛いと感じるのは生きている証拠。今日が昨日の続きなら、ここは間違いなく現実だ。


 悩むのはお終い。夢への恐怖を振り払い、朝食を作ろう。


 最初に作るのは主食の薄焼きパン。

 春黄金はるこがねの実を脱穀して潰した粉に、塩と水を混ぜて生地を作る。フライパンで焼けば完成だ。

 出来上がった円盤は春先の望月もちづきに似た黄金色をしている。豆を炒ったような香ばしさがあり、食感はしっとりとして柔らかく、栄養価も高い。


 うん、今日も美味しそう。


 次は定番の香草茶を淹れる。歪んだミルクパンに、十二種類の香草と水を入れ煮立てる。香草の成分が固まり、泥土でいどの濁りが出たらできあがりだ。

 見た目は底なし沼だが、有毒成分はなく無味無臭。体を芯から温める、凍傷予防にぴったりの飲み物だ。


 二枚の平皿に薄焼きパンを一枚ずつ、欠けたカップとひび割れたボウルにお茶を注ぐ。



「ロア、起きて。朝ご飯ができたよ」



 部屋の隅の木箱が大きく動き、狼が這い出した。

 ロアは黒毛狼くろげおおかみ。冴えた金の瞳、黒曜石こくようせき色の体毛に、ふかふかのしっぽを持つ。主な生息地は最果て島の雪の森だが、縁あってこの家に住む。



「リリィ……むぅ……。あと五分……」



 相変わらず寝起きが悪い。だらだらと近づいてくる。



「口に押し込むのと、流し入れるの。目が覚めるのはどっち?」

「そこは一口ずつ「あーん」でしょ」



 リクエストに応え、ひび割れたボウルをわずかに傾けてやる。



「はい、あーん」

「それを流し込むって言うんだよ! じゃあせめて抱っこしてよ」

「重たいし大きいからムリ。抱えられないよ」

「小さくなるからお願い」



 ロアはその場で猫のように丸くなろうとするが、上手くいかない。



「体が固くなったね。柔軟体操、手伝おうか?」

「ううう……」

「食卓まであと三歩。頑張ってね」



 動きが遅いと手を貸したくなるが、うかつに近づくのは危険だ。差し伸べた手に噛みつき、うっかり食べちゃった、なんてことがあり得るから困る。

 黒毛狼の性質は凶暴だ。

 高い身体能力を持ち、統率された群れで狩りを行う。獲物をなぶり殺し、死骸しがいを派手に食い散らかしては力の強さを誇示している。


 恐ろしい狼と一緒に生活できるのは、ロアの性格が関係している。穏やかでマイペース。群れにいた頃は狩りに参加せず、仲間が捕らえたおこぼれをもらっていた。満腹になればあとは寝るだけ。つまり食っちゃ寝だ。

 黒毛狼らしくない生活はうちでも続いている。

 ロアはのんびりとした動作で朝食の席に着く。



「今朝もこれ? たまには肉が食べたいよ」

「作った後に文句は言わないの」

「食糧庫に肉があるよね?」

「出さないよ」

「リリィのけちんぼ食いしん坊!」

「食いしん坊はロアだよね?」



 狼は頬をこれでもかと膨らませる。可愛い。



「肉が食べたければ捕まえてきたら?」

「狩りはしないよ。僕はリリィの作ったご飯が一番好きなんだ。ご飯へのリクエストはするけどね」



 努力はしないが、食べたいから口は出す。毎度おなじみのやり取りだ。



「肉がいつ食べられるのか分からないのに、それで良いの?」

「もちろん。薄焼きパンと味のないお茶に文句を言うのが僕の愛情表現だからね」

「なら張り切って毎日同じものを出そうかな」

「ひどいなぁ」



 島では獲物を捕らえて食事にありつくのが一般的だ。サボり癖のあるロアも、朝食がなければ獣に牙を剝くだろう。


 対して私は一切狩りをしないと決めている。


 島は寒く食べ物が少ない。厳しい環境の中、一生懸命生きる動物達を殺すのは申し訳なくてできない。考え方が甘いと言われそうだが、これからも狩りはしないだろう。

 ただし生き物の死骸しがいは口にしている。見つけたらとむらいの意味を込めて、丁寧にいただく。


 失われた命に心を寄せ、命の輝きを見守る。最果て島で暮らす私のこだわりだ。


 マイルールでロアを縛るつもりはない。自由にすればいいのに、ものぐさな狼は肉の少ない生活に不満を言うのが楽しいらしい。



「十分後には出かけるからね」

「はーい。食べものが落ちているといいなぁ」

「例えば?」

「なんかすっごく大きな生肉。リリィに焼いてもらうんだ!」

「そこは狼らしく生で食べよう?」

「ええーっ。お腹を壊したらやだもん」



 朝食を済ませ外出の準備をする。

 外は寒く防寒着は欠かせない。動物の毛皮を加工した厚手の衣服と手袋を着用する。ブーツは靴底に獣の牙を縫いつけた特別製だ。氷の上でも滑りにくく安全に移動できる。

 スノーゴーグルを首にかけ、愛用のショベルと作業袋を持ち、薪ストーブの火を落とす。


 さあ出発だ。

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