花文字

柑橘

花文字


 王国があった。遥か昔のことである。

 五方を山々に囲まれていた。四方ではなく五方であり、5つの山頂を結ぶとちょうど正五角形のようになっていた。

 正五角形の頂点をひとつ飛ばしに結んでいくと、内部に別の正五角形が現れる。だから、と言い切ってよいものかは分からないが、正五角形を為す山脈の内側に造られた王国の城壁もまた正五角形であり、王国の中心に位置した王城もまた正五角形をしていて、王城の壁には、そして王城に掲げられた国旗には、正五角形の紋様が刻まれていた。よくよく見るとその紋様は単なる正五角形ではなくて、五角形の内部に何やら別の細かいモチーフが散りばめられていた。実のところ、それは紋様ではなく、一つの文字であった。

 これから語るのはこの一文字が何を意味するのかということであり、それは即ち王国の来歴を語ることに等しい。


 王国はその地理的特徴から他者の侵攻を受けず、それゆえに自らがどこかに槍を向けるということもなかった。城壁はあくまで鹿とか猪とかの獣が辺縁の農地を荒らさないようにしつらえられた素朴なもので、実態としては壁というよりも柵に近かった。

 外圧こそが諸々の進化を促すのだ、と断言するとたちまち危険な空気が漂ってくるが、さておき外敵のない王国の人々はおしなべて皆穏やかであった。領土が広ければ内輪揉めなども起こりえたのだろうが、別個の相容れないコミュニティが形成されるほどには王国は広くなく、それでいて不自由さを感じるほど狭くもなかった。人々の性質は穏やかを飛び越えて超然の域に片足を突っ込んでおり、柵の外に巨大な熊を見かけ、あまつさえ目が合ったときでさえのほほんと笑っている始末で、あまりの動じなさに熊の側まで拍子抜けして毒気を抜かれてしまうようなところがあった。

 人々の興味は自然と何かの内部を充実させることへと向かった。生活に一番近いところでは家の中を綺麗な小物で装飾することに熱中し、流行を受けて王国内の石材加工や焼き物一般の技術水準はかなりの上昇を見せた。織物もまた親しまれたが、これは布を織るという行為に織り木枠の内部を糸で満たすという意味を見出していたからだろう。

 内部の充実を好む人々であったからには、王国はさぞ人口過密であったに違いない。その推論は論理的には正しいが、実際のところ王国はそこまでの人口を抱えていなかった。人々はそれなりに間隔をあけて暮らし、それなりにご近所付き合いをして、それなりに恋に落ち、それなりに子を為した。人口はほぼ横ばいで推移し、どこか人間味が希薄であった人々の欠落した人間性がために、かえって人間の住みよい環境が維持されているような趣があった。

 何かをとりあえず詰め込めばよしとせず、配置にまで、配置にこそこだわるのが人々の特質だった。こだわりの強さは人間らしさの表れのように思えるが、実態としては数理的なパターンに沿った配置が好まれ、好きなものをとにかく収集するのではなく、理想的な配置から逆算的に必要な要素を淡々と買い揃えるような無機質さがあった。織物においても、花とか小鳥とか自然らしい可愛いモチーフはあまり好まれず、いくつかのパターンの繰り返しからなるような図形的な意匠が好まれた。数学に滅法強い人々だったということかもしれず、単に皆身の回りのものにあまり執着しない性質だったということかもしれない。幾何はとにかく好まれた。

 当然、幾何の中でも特に平面充填にまつわる諸論が発達した。


 平面充填。タイリングとも呼ばれる。要するに床をタイルで敷き詰めるだけのお話なのだが、これが意外に奥が深い。

 一番素直なところでいくと、長方形のタイル1種類だけで床はどこまでも敷き詰められる。正方形でもよく、平行四辺形でも良い。ついでに言えば平行四辺形をその対角線でかち割ると相同な2個の三角形が出てきて、そういうわけで適当な三角形1種類だけでも床は敷き詰められる。

 正方形のタイルで床を敷き詰めたとき、どの場所を見てもなんとなく同じ模様をしているのが分かる。このように、ざっくり言ってしまうと同じ模様の場所が複数箇所現れるようなタイルの貼り方を周期的タイリングと呼ぶ。素朴で想像しやすいのは良いのだが、何やら単純すぎる気もしてくる。

 まして幾何を日頃から手に取っていじっている王国の人々にとって、周期的タイリングは簡素で退屈なものに見えた。そういうわけで、非周期的タイリングの探索が開始された。

 偶然にも時を同じくして持ち上がっていたのが王国内の街路を石畳にするという計画で、上で述べた通り王国内では石細工の高需要が慢性的に続いていたため腕の立つ石工は何人もいたのだが、問題はどのように石材を敷き詰めるのかということだった。

 周期的タイリングでは、ある地点の模様が別の地点にも出現する。これは王城周囲の模様が他の場所にも出現しうるということを意味しており、ちょっといただけない。王室はあまり強固な王権を有しておらず、国内の統治にもそこまで大きな影響を及ぼしてはいなかったのだが、それでも王国内のちょうど中心に位置しているという厳然たる数学的事実によって人々の崇拝を受けていた。

 人々の共通見解としては、王城は特別な場所であり、王城周囲のパターンが別個に出現するなんてことはまかり間違っても許されない。タイルの色調を変える、具体的には王城の周りだけは金ぴかのタイルで飾り立てるなどが手っ取り早い解決策に思えるが、人々が重視するのはあくまで配置であって色には一切無頓着であった。織物においても色は背景色とモチーフを峻別するもの、あるいは異なるパターン同士を区別するものとしてしか意味を持たず、肝心の色彩の鮮やかさは一切顧みられなかった。焼き物や石細工はそのままの色合いのものが好まれ、逆に異なる色合いのものが特段好まれたり避けられたりすることもなく、染色や釉薬にまつわる技術は驚くほど発達しなかった。

 人々は物の色形をあくまで他との区別に必要なものとしか捉えていなかった節があり、春に芽吹く草花も、秋に色づく木々の葉も、単なる季節のメルクマールとして眺めていたにすぎなかった。このあたり、穏やかさとか環境に対する無関心とかいう言葉では片づけられない欠落があり、悟りの境地とは案外このようなものなのかもしれない。

 話を元に戻すと、都市計画の方面からも非周期的タイリングの探索は強力に後押しされ、そうして一つの図案が発見された。それは2種類の菱形タイルから構成され、正五角形を基調に考案されたタイリングであり、ただ1か所だけ回転対称性の中心となる点があった。王国の図形的特徴から生まれ、それゆえに王国を敷き詰めるに最もふさわしい性質を備えた平面充填形の名はペンローズ・タイル。およそ何百年も後にイギリスの物理学者が発見することとなるタイリングである。

 

 王国によって発見されたのは、正確に言えばペンローズ・タイルの中でもP3と呼ばれる種類のものだった。恐らく「ペンローズ・タイル」で検索して真っ先に出てくるのがこのP3であり、その中心はちょうど桜の花のような形をしている。

 桜の花は1/5回転ずつ回転操作を施すと元の形と重なり、また花の中心と5枚の花びらのうちどれか1つの頂点を結んで直線を引くと、花はその直線に関して左右対称となっている。ペンローズ・タイルについても同じことがいえ、専門用語では5five-fold 回転rotational対称性symmetry鏡映reflection対称性symmetryを持つなんて書き方をしたりもする。しかし表記などは些末なことであって、とにかくそのタイリングには中心があった。そして、非周期的と銘打たれていることからして、中心はただ一つであった。ペンローズ・タイルは王国の地面を敷くに際しての全ての要請にかなっていた。

 こうして王国は大小2種類の菱形によって表面を覆われ、大きな菱形には白磁の如く白くつややかな石材が、小さな菱形には飴色の少しざらざらと毛羽だっているような石材がそれぞれ用いられた。もうちょっとあるんじゃないと思うほど地味な色合いだったが、実際に配置してみると思いの外優雅で上品な風合いとなっていて、素朴な街の景色ともよく調和していた。晴れの日には飴色の小菱形の上でちりちりと反射した光が真白の大菱形のまるい表面でさらに跳ねっ返ったりして視覚的に楽しく、しかし人々が楽しみ愛でたのはもっぱら配置の妙のみであった。

 王国全土に石畳を敷くこの事業は、当然王国内で行うことのできる最大規模のタイリングであった。王国内においては物理的に行いうる最大の充填であり、上限であり、行き詰まりであった。

 しからば領土を広げ国を拡充するのだ、とは当然ならず、代わりに人々は次のような問いを考えた。

 最大の充填は実現された。では、最小の充填とは?


 物理世界における試みに限界を感じた人々が次に手を伸ばしたのは文学の分野である。文学といっても叙情的な詩を詠んで美麗な書体で書きつけるような方向性ではなく、ひたすら情報の圧縮に関心を持った。もともと何かの内部の充実を好む人々である。心にうつりゆくよしなしごとをとりあえず書いていくのではなしに、この大きさの紙にどれほどの内容を記せるかということを最初から意識して書くスタイルが取られた。禁欲的な性情が見える気もするし、単にそういうのが好きな人たちだったのだなぁという気もする。

 表現上の技巧などは気にかけられず、むしろ文の滑りを悪くしてでも文章の長さあたりの情報を増やそうとした。「昨日、私は先生に会いました」を「昨日、私会先生」に縮めるような操作ばかりが研究され、そのうち「昨、会先」「き、あせ」くらいのレベルにまで省略されて、流石にこれは意味不明だねなんてことになることもあった。

 意外なことに定型詩が発達した。しかしこれは「定型を共有しているという情報によって文章に字面以上の意味を付加できないか」という動機の上に流行したものであり、言っていることは「和歌を読解するときは古今和歌集とかも参照するよね」みたいな話と概ね同じだが、どこか風情というものが致命的に欠けていた。

 これまた意外なことに、手紙に花の絵を添えることも流行った。しかしこれもまた花から連想される言葉をそのまま書くよりも花の絵だけを描いた方が面積当たりの情報量が多いという身も蓋もない理由によるもので、そのうち花の絵ではなく花の名前の頭文字だけを表記するような事態になり、頭文字をつなげて新たな文章にして文章に二重の意味を持たせ始めたあたりで流石に実用性が限りなくゼロに近くなった。しかし良いこともあって、ここに来てようやく草花の性情を細かに観察することを覚えた人々は、王国の周りを囲む森の中で王国に近い側にだけ特別多く咲く花があることに気付いた。雑草のようにも見えるその花は、けれども小さく可憐で、なにより5つの花弁を有し、色は王国を覆う大菱形と同じくやわらかな真白であった。それでこの小柄な花は国花として採用される運びとなった。

 

 文章において長さあたりの情報量を最大するにはどうすればよいか。王国の歴史の後半、人々はずっとこの問いに取り組み続けていた。

 花から言葉への変換など特定の変換規則を噛ませるやり方は、変換規則を記したぶ厚い本を用意しなければならない時点で総合的に見ると結局効率化できていないような感じがある。特定の変換規則を施せば無限に相異なる文を吐き出し続ける文などがあればまた話も変わってくるのだろうが、そういうのは酒の席で与太として話すからこそ面白いのであって、実装を議論するには馬鹿らしすぎる。そもそも無限の文というのは総体として何も言っていないのと同じな気もする。文字種が限定されている以上は高々有限個の文しか生成できないじゃんというもっともな指摘もある。

「そう、まず文字が問題なんじゃない?」

 との指摘を行ったのは王女である。何代目かは分からない。

「現実的な話として、私たちが使ってる表音文字よりも表意文字を採用した方が単位文章量あたりの情報量は確実に増大するわよ」

 と言い、

「象形文字が良いでしょうね。形がそのまま意味を規定するから」

 と言い、

「できれば形から音も分かるようにしたいけど、それは難しいでしょうし。何個か基底となる文字を作って、それらの読みが分かるような文字を更に別個作るのはどう?」

 と言った。

 それを受けて側近の一人がこう言った。

「姫さまが今最後におっしゃったような文字、その一文字だけを作れば事足りますまいか」

 王女はぱちくりと瞬きをし、それからにっこりと笑った。

 王国最後の大事業が開始された瞬間だった。


 その文字は一番外側に正五角形の囲いを持つ。国構えの五角形版と思ってもらえれば良い。「国」という文字の国構えの部分が国の外郭を示しているのと同じく、この五角形も国の形を示している。五角形の中心には「王」を意味する文字があり、周囲には5つの別個の文字が等間隔に配置され、そしてその他の文字はペンローズ・タイルの要領で敷き詰められている。種々の文字を裡に収納した一文字は、その一文字だけで王国の地図を表している。

 以下複雑を避けるために、全体としての一文字を「大文字」、大文字の中に散りばめられた文字たちを「小文字」と呼ぶことにする。大文字は小文字の配置と小文字の形そのものを利用して、小文字それぞれの読みを規定している。即ち大文字はその一文字だけでいろは歌のような機能をも果たしていた。

 ところでペンローズ・タイルには回転対称性がある。正五角形にも当然回転対称性がある。しからば大文字に1/5回転を施せば何が現れるのか。

 まず時計回りに1/5回転させると、小文字たちは位置はそのまま姿だけを変える。「十」を1/8回転させると「×」になり、一方「×」を1/8回転させると「十」になる。これと似たようなことがいくつもの小文字で起こっていると思ってくれればよい。アンビグラムの一種とも言える。アンビグラムは既存の文字に回転を施すが、この小文字らは皆回転を前提に設計されたものであり、それゆえに無理ない形で見事に姿を変えた。

 時計回り1/5回転の後に現れたのは王室の家系にまつわる説明である。時計回り2/5回転を施すと王国の建国神話が現れる。時計回り3/5回転を施すと王国の食生活や風俗、文化にまつわる簡素な紹介文が現れる。時計回り4/5回転を施すと先の石畳施行事業に関わった人々の功績と名が現れる。時計回り5/5回転して、1回転してもとに戻る。1回転のうちに現れた5つの文章をまとめると、ちょうど今までここで述べてきたことと概ね一致する。

 出来上がった大文字は無地であった国旗の上から刺繍され、王城の壁にも刻まれた。上述の通り王城もまた正五角形であったから、5つの壁にそれぞれ1/5回転ずつ角度が異なる大文字が5つ刻まれた。

 ひらめく国旗に文字を読み取るには、大文字の中身はあまりにもごちゃごちゃとしすぎており、人々にはただの五角形にしか見えなかった。王女についても事情は同じで、「一応できたっちゃできたけど」と彼女は首を傾げる。

「せっかく作った小文字たちも複雑すぎて日常使いはできないし。読めば分かる作りになってはいるけれど、本当に読み取ってくれる人がいるかは別問題よね」

 年老いた国王は鷹揚に笑みを浮かべ、

「でも」

 と言った。

「いつか誰かが読み取ってくれると想像することは愉快じゃないかね」

 王女は一瞬あっけに取られた顔をして、それから吹き出して、王の居室には2人の愉快そうな笑い声が響いた。

 こうして、一文字だけで膨大な情報を含む魔法じみた文字の設計事業はここに終わりを迎え、王国内の未解決問題にもようやく解が与えられた。

 最小の充填とは何か?

 一文字に全てを込めることである。


 ところで、国旗に紋章が追加されていることは口数少ない人々の間でも話題となり、あれはすごい文字であるのだ、なるほどあれが、と二言三言言葉を交わした後に、はて、あれをどう呼べばよいのかという問題に思い至った。

 「やべっ」と王女は言った。大文字は自身が包含する小文字たちの発音規則は定めていたものの、肝心の自分自身の読みについては一切定めていなかったのである。大文字の中に大文字を書くという応急処置が考えられたが、そうすると大文字の中に書かれた大文字の中にもやはり大文字を書かねばならなくなり、大文字の中に書かれた大文字の中に書かれた大文字についてもやはり同様で、案は即座に却下された。

 側近の一人が「この国の名を読みとすれば良いのでは」と発言し、その後全員が自分たちの王国に名がないことを初めて認識して、王城内は一時騒然となった。他国が周囲にない以上、確かに自国の名前を定義する積極的な必要性はありはしないが、それにしたって今更気付くのかという話である。人々は超然としているというよりかは単に抜けていただけなのかもしれなかった。

 皆がうんうん唸り、一人が額の汗を拭うためにハンカチを取り出した。

「ねぇそのハンカチ」

 見せて、と言うより先に王女はつかつかとその一人のもとへと歩み寄り、彼がおろおろするのを気にも留めずにハンカチの一箇所を指さした。皆が息を呑んだ。薄緑のハンカチの上に刺繍されていたのは真白の可憐な花。王国の国花であった。

「決めた」

 と王女は言い、

「この花の名をわが国の名とします」

 と言い、

「わが国の名をこの文字の読みとします」

 と言った。

 こうして国旗に記された巨大な一字は、国の名を示し、真に国の全てを現す文字となった。文字が国であり、国が文字であった。

 人々は同じモチーフを手元の布にも縫い付けたがったが、文字は複雑すぎて小さく刺繍することが不可能であった。そこで人々は代わりに正五角形の枠を縫い取り、その内部に小さな花をあしらった。


 正五角形の内部には正五角形が現れる。これと同じことがペンローズ・タイルについても言え、敷き詰められたペンローズ・タイルに特定の操作を施すと元のものよりも小さなペンローズ・タイルが現れる。このような性質を自己相似的であると言うが、正五角形とペンローズ・タイルからなるこの王国もやはり自己相似的であった。

 正五角形の城壁の内には正五角形の王城があり、正五角形の王城には正五角形の文字が刻まれている。

 国内はペンローズ・タイルで覆われ、ペンローズ・タイルで覆われた国内の情報を圧縮して有している一文字もやはりペンローズ・タイル的に配置された小文字たちで埋め尽くされている。

 ここに最小単位から最大単位まで連続する相似の連鎖は結実を見た。そうして、これでおしまいであった。


 王国はゆるやかに人口を減らし、ゆるやかな減少が続いたために急速に滅びた。常に何かの内部を充実させてきた人々が終に埋めうるものを失ったということかもしれず、単に社会が老いたということかもしれなかった。

 滅びた、と言うからには最後の世代がいたはずである。最後に残った何人かがどうしたのか、森を抜けて新天地を目指したのか、最後までこの地に留まってこの地で朽ちたのか、はっきりとした事実は分からない。

 無人となった王国では石畳だけが残り、やがてそれらも風化して、あるものはひび割れ、あるものは風に吹かれて剝がれ飛び、あるものは下から押し上げる雑草に負けてめくれ裏返った。石畳がその秩序と面影を無くしたころ、王国の跡地にはあの可憐な花が群生していた。花の名だけが王国を唯一伝えるものであったが、花に付けられた名を知るものは最早誰一人としていなかった。花の名を読みとする、王国の全てを包含した一文字も、とっくの昔に失われていた。城壁はただばらばらに砕け、国旗は細かな線維にほどけて、花々の足元に散逸した。

 やがてこの花畑も森に浸食され、王国の名残は完全に消え去ってしまうのだろう。


 蝶がひらひらと舞い、花の一つにとまった。それからしばらくして別の花の方へと飛び去った。かすかな衝撃で花弁が揺れた。

 王国が滅びて、幾度目かの春だった。




 我が家のリビングには窓側に向けて置かれた籐椅子がひとつあって、そこが彼女の定位置だ。彼女は椅子に座り、ほぼ日がな一日庭の花壇を眺めている。だいたい4年くらい前からこの状態が続いている。

 彼女は何も喋らない。話しかけても反応はない。頬を軽くつまんでも無表情のまま。

 ものを食べるなど、基本的な生活事項は一人でできる。とはいえ彼女の場合それらを半自律的にこなしているようなところがあって、目の奥は何とも焦点があわないまま、虚ろな目でスプーンを口元に運ぶ。お風呂は流石に危うげで、いつも私が一緒に入っている。

 4年より前は普通に話せる元気な子だった。そこから何が起きてこうなったの、と問われるとやや困る。何も起きてないから。頭を打ったわけでも、脳動脈瘤が破裂したわけでもない。ある日を境に、一切黙り込んでしまった。

「これが思春期ってやつかねぇ、早く終えてほしいもんだよ」

 と自己憐憫と下劣を1:1配合したような顔で、迷惑に思っていることを隠しもしない声色で彼女の父親は黄ばんだ歯を見せて笑い、私は病室に置いてあったパイプ椅子で思いっきり殴りかかった。

 そのままクリティカルヒットして大問題になりかけたけど、逆に殴り殺す寸前まで殴り続けたことで事なきを得、ついでに彼女を我が家に引き取る権利も手に入れて、そうして現在に至る。手前の息の根止めたるぞ系の脅しは万人に有効っぽいという教訓も得た。

 「いっそのこと息の根を完全に止めとけば後腐れなかったのでは」と私の父は言い、母に後頭部をしこたま小突かれていた。


 彼女の頭の奥では、物事がぐちゃぐちゃに繋がっている。らしい。あくまで脳波など外部からの測定で分かった事実であって、実態は全然違うって可能性もあり得る。

 「字」という単語がある。私たちはこれを見て、あぁこれは漢字だなぁとか、この読みは「じ」だなぁとか、そういうことを思う。2、3個思って、それでやめる。

 頑張って連想を続けてみる。「じ」は「地」の読みでもある。「地」の右側は「也」だけど、これは漢文でよく見るやつで、「子曰、『性相近也、習相遠也』」とかが思い浮かぶ。そういえば、この「子」は「字」の下半分だ。

 このように連想を思い付いてつなげていく作業は楽しいけど、連想の方から勝手にやって来られるような事態はちょっと勘弁してほしい。だってほら、物を見ただけで一々何個も別のものが思い浮かぶっていうのは、気が散ってしょうがないだろう。頭も疲れそうだ。

 ところが、彼女の頭の中ではそういうことが起きている。視認した一つのものに対して連想が続き、しかも連想の連鎖が尋常でないほど続く。さらにしかも、一つ一つの連想が引き出される間隔が尋常でないほど速いらしい。結果として生じるのは脳の処理落ちで、それゆえに外界の刺激に対応できなくなった。彼女の瞳の奥ではいつ見たかもわからない景色から引き続く連想の輪がいまだに続いていて、それゆえに日常生活を脊髄反射的な半自律的なあれで対処する羽目におちいっている。「ぼうっとしながらでも自分である程度動けているだけでちょっとした奇蹟ですよ」とはお医者さんの言葉だ。

 常人でこんな事態はおよそ生じず、彼女の物覚えのよい性質が災いしたのではとお医者さんたちは考えている。超記憶能力者という言葉はSFの設定としてはもう結構陳腐なものとなっているが、一方で医学はまだ記憶の機序を完全に解き明かせてはおらず、彼女の頭の中を覗き見することはできてもこんがらがった回路を正常に戻す役には立たない。

 そもそも私は彼女に「超」のつく単語を当てること自体に違和感を覚える。確かに教室の花びんのちょっとした位置のずれとか、通学路の途中の建物のかすかな塗装のかすれとか、細かいことによく気付く子ではあった。暗記科目の成績も満点ばっかりだったと思う。けれどそれだけで、彼女はよく話してよく笑う普通の中学生だった。

 一方で自分の娘に「超」のつく単語をあてがう碌でもない親もいるわけで、彼女は父親に言われて超能力者やら占い師やらの真似事をやらされていたらしい。仮に彼女が何でも覚える能力を持っていたのなら、無理くり会わせられる知らない人たちのしょうもない話とか、自分をだしにして金を稼ぐ実父の下卑た顔とかも覚え続けなければいけなかったわけで。彼女がどうして今の状態になってしまったかは不明だが、心因性のストレスは確実に重要なファクターとして関与しているそうだ。やっぱトドメ刺しときゃ良かったなと思った。


 こわれたおもちゃを解体せずに直すのが土台無理なのと同じく、原因が分からないものを治療するのもやはり難しいようで、お医者さんは眉根に深いしわを寄せて

「同じものを見せ続ける……とかどうでしょうか」

 と妙なことを言い出した。

 曰く、彼女の脳は見たものから途方もない連想を始めて常に処理落ちしている。そんな彼女に色んな風景を見せるというのは明らかによろしくなく、逆に一つのものを長期間見せ続ければそのうち視覚情報に対する処理が終わるのでは、という理屈らしい。理屈だけ聞くと有効そうに思える。単に理屈だけが先行しているような印象も受ける。

 そういうわけで我が家ではおばあちゃん家から余った籐椅子を1つもらってきて、彼女をそこに座らせて、庭の花壇を見せることにした。冷静に考えると植物って明らかに姿を変えるし、適さないんじゃって気もするけど、でもじゃあ白い壁をずっと眺めさせときゃええんかと聞かれるとそれは絶対に違う。

 で、4年が経った。中学2年生だった私たちは成人年齢になり、一応法的な諸権利なども与えられて、あと1年で私の高校生活は終わる。

 彼女の隣に椅子を引っぱってきて、よいしょと赤本を片手に腰かける。庭では咲いた花々に蝶々が群がって、あ~虫は大学受験しなくていいからいいなぁなんてどうでも良いことを思う。

 さてやるか、と膝の上の赤本に目を下ろし、一緒に持ってきた計算用のメモがない。シャーペンもなくなってる。落としたか? 椅子の下を確認しようとして、その時初めて隣の彼女が猛烈な勢いで何かを書きつけていることに気付いた。いつの間に取ったのか、私のブルーのシャーペンを手に取った彼女は紙面の上に乱暴に見える速度で、けれども精密に線を引いていく。私は驚きのあまり声を出すことができない。

 やがてそこには、色彩のない真白な花が現れる。花びらは5枚で、やわらかく風に揺れている。

 書き終えた彼女は私の方を向いて「おはよう」と言い、私はその場でふらつき、卒倒しかけ、崩れ落ちた勢いそのままに彼女に抱きついた。


 「花畑をようやく花畑そのものとして認識できるようになったの」と彼女は言う。よく分からない。

 「一個一個の花を個別に認識するのを繰り返すんじゃなくて、花が集まったところ全体を花畑としてひとまとめに認識できるようになった、って感じでね」と彼女は言う。よく分からない。

 「あなたの顔も、なんだか前よりはっきり見えるような気がする」と彼女は言う。よく分からないけど、嬉しい。

 こうしてあっけないほど悲劇は喜劇に変わって、私はあまりに狂喜しすぎて高熱を出して三日三晩寝込み、お医者さんはちょっと心配になるほど号泣していた。

 止まっていた時間はようやく動き出し、彼女は今やすっかり健康体だ。昔のような抜群の記憶力は鳴りを潜め、代わりによく花の絵を描くようになった。彼女の描く花の中には我が家の庭に植わっているものも植わっていないものもあり、この世界に存在しないものまでも含まれている。彼女が一番最初に描いたあの白い花もやはり存在しないもので、「それって何なの」と私は彼女に尋ねる。

 彼女の説明は分かりにくく、私の理解力も欠けていて、それでも何回か聞き直してようやくそれらしいことを理解した。

 曰く、連想を勝手に放っておくと止まらない。気が抜くとあるものと別のものは簡単に結びついて、結局脳内の全てが呼び出されてしまう。4年間彼女が探し続けたのは連想の連鎖の止め方で、ようやく見つけたのが複数の概念を1個のモチーフにまとめてしまう方法だった。

「それが花なの」

 と彼女は言う。私は彼女の描いた花をまじまじと見つめる。

 つまるところ、この花には彼女の莫大な記憶が格納されているということになり、花は彼女の外付け記憶媒体でもあって、花を描くことによって彼女は健全な量の記憶だけを自分の頭の中にストックしておけるということなのだろう。長大な花言葉と同じである、と私はやや乱暴な言い換えを試してみる。

 庭を眺めて、景色を眺めて、私を眺めて、彼女は種々の花を描き続ける。余人には読み取りえない記憶が花々には封入されていて、でもそんなことを知らなくても、楽しそうにペンを動かす彼女を見ていると素朴に嬉しくなってくる。

 季節はだんだんと暖かくなり、庭の草木も様相を変え、動植物はますます活気づく。

 春が終わり、夏が近づいていた。


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花文字 柑橘 @sudachi_1106

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