第十二章 アキレス・アンド・ザ・キャンサー ②

 学校が終わった後、慎太と洸の二人の姿は、地元で有名な喫茶チェーン店にあった。

 土日の内に携帯端末のメッセージアプリでお互いの調子などは確認済みである。そして、月曜日にゆっくり話をしようと、放課後に腰をえて話せる喫茶店に行く約束をしていたのだ。


 店内は、チェーン店でありながら、どこか昭和を感じさせる雰囲気に包まれている。


「オレは、これ」

 そう言って、洸はドーナツのような形のパンに、ソフトクリームの乗った人気メニューを指さした。

「ボクは、ミルクセーキで」

 それぞれの注文を聞き終えた店員が去ると、二人は出されたおしぼりで手を拭いた。


「土曜日さ、慎ちゃんは親に怒られなかった?」

 洸は携帯端末でのやり取りで、慎太が昼まで寝ていたとは聞いていた。

「別に。たまに小説書いてて遅くまで起きていることがあるから、遅くまで起きてたのかとは聞かれたけど、別に怒られはしなかったよ。休みだし」

 慎太は水を飲んだ後、コップを回して中の氷をもてあそびながら答えた。

「いいなあ、オレはこっぴどく問い詰められたよ。ちょっと十時くらいまで寝てただけだよ? 慎ちゃんは十二時まで寝てたんだっけ?」

「うん」

「だからさあ、言っちゃったよ、オレ。ほっといてくれって。部活もやめるって」

「で、反応は」

「機嫌悪い悪い。ご飯は作ってくれるけど、怒っちゃって話をしてくれないんだよ。こっちが声かけても一言二言で終わってさ」

「お父さんの方は?」

「それが、以外でさ。『そうか』って言ったかと思ったら、『お前も高校生だからな』って。いいとも悪いとも言わないけど、ダメだとは言わなかったな」

 洸は腕を組み、うーんと唸りながら首を傾げた。

「まあ、お父さんはお父さんで、思うところがあったのかもね」

「そうなんかなあ。でも家庭内でギスギスするのはつらいね」

「まあ、そうだろうね。でも、声かけにくくても、洸ちゃんはいつも通りに声を掛け続けた方がいいよ」

「するよ。だってオレは悪いこと言ってないもんね。向こうが勝手に不機嫌なだけだから」

 そう言う洸には深刻さは見られず、笑顔もうかがえた。

 その様子に慎太は安心した。

 言いたいことを言わなければ先に進めないのは分かっていても、やはり人と衝突するのにはエネルギーが必要だ。肉親であればなおさらかもしれない。しかし、反抗期もまた、成長のためには必要な通過儀礼でもある。


「でもさ、部活辞めてどうするの? 帰宅部?」

「それなんだけどね。オレさ、演劇部に入れるか聞いてみようと思ってるんだ」

「へえ、以外。あれ? でも洸ちゃん前に断ってなかった?」

 ふと慎太は思い出した。入学して間もない頃の会話を。

「入学直後に見た目で勧誘されて断ったって聞いた気がする」

「見た目で、ていうのが嫌だったんだけどね」

「じゃあ何で?」

「うーん、オレさ、慎ちゃんの書いた小説がさ、アニメ化とか、実写化したりしたらさ、声優でも俳優でも何でもいいから、出演したいんだ」

「え? 無茶苦茶なこと言ってない?」

「無茶苦茶かな? だって、慎ちゃんは小説書いている以上、小説家デビューを目指しているんでしょ?」

「まあ、そりゃデビュー出来たら嬉しいけど、そんな簡単なもんじゃないでしょ。まあ、自分が書こうと思えるうちは、書き続けたいとは思っているけど、就職は普通にしないとまずいと思っているよ」

「そうなの? まあ、それでもさ、オレ、自分のやりたいこと何かなと思ったら、それが真っ先に浮かんだんだ。じゃあ、いま出来ることは何か考えたら、演劇部で演じるってことをしてみようかなと思ってね」

「まあ、それ自体は悪いことだとは思わないけど」

「そう、それでね。オレが――」

「失礼します」

 洸が何か言いかけたところで、店員が注文の品を運んできた。


「ミルクセーキって、たまに飲みたくなるよね」

 慎太は特徴的な丸い容器を受け取ると、嬉しそうにストローを口に運んだ。

「ボク、たまに牛乳にガムシロップ入れて飲むことがあるんだ。妙に甘い牛乳を飲みたい時があるんだよね」

「へー、オレも食べよ」

 洸も、スプーンを手に取ると、パンの上に乗ったソフトクリームをすくって口に運んだ。


 二人とも、しばし無言でそれぞれが頼んだ品を口に運んでいた。


 洸は、慎太に言いたいことがあったのだが、少し言いにくかったため、自分の話から勢いでそのまま話してしまおうと思っていたのに、店員の間の悪さに中断させられてしまった。


 ようやく見つけた自分のやりたいと思えること。

 自分の思い。

 でも、それを口にするというのは、大したことがないようで、存外恥ずかしい。

もう一度話し出すきっかけを作ろうと、洸は頭の中を検索した。


「アキレスと亀……」


 そのキーワードを見つけ、洸は口に出して呟いた。


「え?」

「慎ちゃんさ、『アキレスと亀』って知ってる?」

「知ってるよ。足が速いはずのアキレスが、いつまでたっても亀に追いつけないってやつでしょ?」

「さすがだね。オレはアキレウスについて調べてて見つけたんだけどさ。『アキレスと亀』ってお話があるんだよね?」

「お話って言いうとおとぎ話みたいになっちゃうけど、昔の頭のいい人が言った、パラドックスだね」

「パラドックスはよく分かんないけど、確か、アキレスが亀に追いついた時には、亀は少し進んでて、また追いついた時には、また少し進んでてって、その繰り返しでいつまでも追いつけないって話だったと思うんだけど」

「そうだね。そんな認識で合っていると思うよ」

「オレにとっては、慎ちゃんは亀なわけだよ」

「どゆこと? いや、確かに鈍臭い方だけど」

「いやいやそうじゃなくて? いつまでも追いつけない、ずっとオレの前にいる目標だってこと」

 そう言う洸の態度は、恥ずかしそうでありながら、何処か誇らしげでもあった。


「そう言ってもらえるのは嬉しいね。でもね洸ちゃん、アキレスは亀に追いつけないわけじゃないんだよ」

 慎太から見れば、自分は洸の足元にも及ばないと思っていた。だからこそ、自分なんか目標にするのは、違うんじゃないか、そんな気がしてしまった。

「不合理に見えてなかなかうまく説明が出来ないからパラドックスって言われているだけどさ。普通に考えてみてよ。アキレスの方が早いから、あっという間に亀は追い抜かされるはずだよ」

「まあ、そうか。オレは追いつけない説明を読んで、へー、と思っちゃったけどな」

「じゃあ、ちょっと待ってね」

 慎太は鞄からいつものメモノートを開いた。


 簡単なイラストで左向きの亀を書いて、その右側に少し間を開けて走っているふう棒人間ぼうにんげんを書いた。そして、そのイラストの下に、地面のように線を書いた。

「亀とアキレスの距離が離れていても、その元々離れていた距離とそれぞれの速さが分かればさ、細かい計算式は置いといて、いつ追いつくのか計算できるのは分かる?」

 そう言って、亀の左側に、いつか追いつくであろう地点に、鉛筆で丸を書いた。

「うん、まあ」

「アキレスが亀のところに到着する時には、少し亀が先にいるというのは、アキレスが追い付く地点の直前を、無限に切り分けているに過ぎないんだ。その考え方では、いつまでも追いつく時間に達していないんだ。その時間に達すれば間違いなく追いつく」

「そっかあ」

「だからね。考え方を変えないと、見方を変えないと。洸ちゃんはすごいんだからさ。イケメンだし、運動は万能だし、頭も悪くはないし、ボクのことはほっといてさっさと先に進むべきなんだよ」

「へ、へへへっ、そっか」

 洸が笑った。慎太は、それは照れ隠しなのだろうと思った。


 しかし、本当は違っていた。

 照れ隠しの笑いではない。

 別に言いたいことがあったのに、『アキレスと亀』のパラドックスの説明をされて、終わってしまった、自分に対しての誤魔化しの笑いだ。


(慎ちゃんに、一緒に演劇部に入ろうと言いたいんだけどなあ)


 慎太は、自分のしたいことでなければしない男だ。それは親友の誘いだろうが何だろうが変わらない。だからこそ、洸は尻込みしていた。別に、それでも嫌な顔はしないだろうし、それで洸が慎太に嫌われるようなことはないとは分かっているのだが、断られたくないという思いが、言い出すのを躊躇ためらわせていた。

 それでも、ここで言わなければと強く思っていた。せっかく見つけた自分の『やりたいこと』なのだから。


「それにね……」

 洸がどう話したものかと悩んで黙っていると、慎太は独り言のように話を続けた。

「ボクは、カニだからさ」

「カニ? カルキノス?」

「うん。カニは横に進んじゃう。どうしてもまっすぐ進めない。みんなと同じ方向を向いてみても、進行方向は横なんだなあ」

 そう言って、亀のイラストの下にカニを書き、矢印を下に書いた。

「自分は自分の行きたいところに進んでいるだけだけど、他の人からしたらさ、明後日の方向に歩いてるんだろな」

 慎太の言い方には、自虐が含まれていた。


 教員たちに、慎太はわがままだと言い放った。

 しかし、一番わがままなのは自分自身であると、慎太は思っていた。

 だから、教員たちに放った言葉は、自分の好き勝手な行動に対する自己弁護だった。

 自分は自分を理解したうえで行動しているし、誰にも迷惑かけていないのだからいいでしょ、という。

 何か目標を持って取り組むということは評価される。特に学生の間ならなおさらだ。結果が出ていなくても、過程が評価されやすい。

 しかし、一方で、無謀な目標であれば、それは否定される可能性は高い。

 特に二年後、自分の進路を決めるときには。


 今回、自分の説得が通じたのは、偶然だとしか慎太には思えなかった。

 思っていることを言わずにはいられなかったが、それで必ず解決できるという確信があったわけではない。しかし、彼らには響いてくれた。それは、彼らの中に響いてくれるだけの『何か』があったからだ。響かない相手であれば、どうにもならなかっただろう。

 そして、彼らは自分たちで答えを導き出した。それぞれにとって無理のない目標に向けて歩き出すことができた。

 その決断がうまく行くかどうかは分からないが、その一歩が自らの意思で踏み出した一歩であれば、致命的な後悔をすることはないだろう。


「慎ちゃん……」

 自分の言葉を振り返り、その正当性を自己暗示のように確認していた慎太は、洸の呟くような呼びかけで思考の海から引き揚げられた。

 洸は慎太の書いたイラストにくぎ付けになっていた。

「どうしたの?」

 洸は答えず、慎太からシャープペンシルを奪い取ると、一本の線を付け足した。

 アキレスと亀の進む方向の線と、カニが進む方向の線、その二つの線が交差する点から、斜めに線を書いた。思いっきり長く、ノートの端まで。

「……力の合成? ちょっとはみ出てるけど」

「そうだよ。物理で習ったやつだ。だから慎ちゃん。俺と演劇部入ろうぜ!!!」

「え、いきなり」

「慎ちゃんだって、自分の考えだけで考え過ぎてちゃだめだ。色んな刺激を受けなきゃいけない。オレは慎ちゃんの作品が披露ひろうされる場があった方がいいと思う。オレは演じる側、慎ちゃんは脚本を作る側としてさ、一緒にやってみようよ。そうすれば」

 慎太がノートに書いた線を指さした。

 その線は、力強かった。

「いいものがきっとできる。それに何より、楽しい高校生活が送れるよ!」


 あの、小学校の頃頑張ったドッジボール。

 あれは楽しかった。

 洸にとって唯一楽しかったと言えるスポーツだ。

 でも、それはドッジボールが楽しかったんじゃない。

 慎太とともに、一生懸命取り組むことが出来たからだ。

 自分の頑張りが、慎太のためになったからだ。


「だから、オレは、慎ちゃんと演劇部に入りたい!!」

「あ、ええ、えええ?」


 何が、『だから』なのか分からない。

 突然の申し出に慎太は戸惑っていた。

 あまりに眩しい洸の瞳。

 その光に照らされて、暴き出される自分の姿は、自分が思っているよりも小さいものであるように、慎太は感じた。


(そうか、ボクも少しは変わった方がいいのかもしれない)

 わがままな自分に、自身のわがままな思いをぶつけてくる友人。

 そうやって、はじはじかれ、時にくっつき世界は回っていく。

 ぶつかり合った球がどうなるのかは、結果は分からないが、ぶつかり合わなければ始まらない。


 それはまるで分子の世界。


(そうやって世界は出来ている、のかもしれないな)


 そして、いま自分の番だ。


 慎太は、頷いた。


「……分かった。やってみよう」


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