第十二章 アキレス・アンド・ザ・キャンサー

 金曜深夜に起こった出来事も、知っている人間は当事者だけであった。

 世間はいつも通りの土日が過ぎ去り、そして月曜日となる。


 何事もなく授業が始まり、多くの生徒が、先生が変わりない日常を過ごしている。

 しかし、昨日までとは違う日々が始まる人たちも、間違いなくいた。


 昼休み。

 校庭のバックネットの裏に教員一人と、女生徒一人の姿があった。

「せ~んせ~」

 甘ったるい声を上げる女生徒は、おもむろにブラウスの一番上のボタンを外した。

「も~い~じゃん。しちゃお~よ、キス。それ以上でもいいよ?」

 こう言うと、目の前の教員は焦った反応を見せる。女生徒にはそれが楽しかった。

「………」

 何も言わない。もじもじとしている。そんな様子が可愛い。

「……ん?」

 そう思ったが、何かいつもと様子が違う。

 いつもはもっと緊張して、顔を上げながらもおどおどとした様子を見せ、視線も胸元に合わせないようにしていたのに。

 もじもじしているように見えたけど、ただイライラしているようにも見えた。全身にも緊張は見られない。


「………はあ」

 イケメン教員——小島がため息をついた。

「申し訳ないけど、もう俺は君の相手をしない。連絡も無視させてもらうよ。そういうあからさまな色仕掛けも、別に女子高生の胸にもさして興味はないよ。そもそも俺は年上の方が好みだし」

 小島は視線を胸元に合わせ、指さしながら言った。

「波風立てない方がいいと思っていままでは接してきたけど、もうやめることにしたよ。俺はちゃんとした教員でありたいんだ。こういった要件なら、もう相手にしない」

「な、何なのよあんた!」

「まあ、言うことをは言わせてもらったから、分かったかい? まあこんなことはしない方がいいよ」

「ふ、ふざけんな! 恥かかせやがって、いままでずっと馬鹿にしてたの!?」

「いや、馬鹿にしてたわけじゃないよ。俺が、自分の言いたいことをちゃんと言えていなかっただけだ。そういう意味では、すまなかったとは思っているよ。本当にすまなかった」

 小島は姿勢を正し、頭を下げた。

「え………あ、……うん」

 落ち着いて謝った小島の態度に、女生徒は二の句が告げられなくなってしまった。


「それに、君たちのような今どきの生徒には言っても無駄かもしれないけど、自分を大事にしなさい。もしも、本気で俺に気があるなら、卒業後に会いに来なさい。そうしたら一人の女性として接することが出来る。いまは、君は大切な生徒の一人だ。分かったかい?」

 こんな言葉も、キザたらしい台詞に聞こえるだろう。彼の外見からしたら、余計にそう思われるだろう。そういう風に彼自身が思っていた。だから、どこかひょうきんさを、おどけた様子を見せてしまう。自分の思いを、自分の言葉で表現することを自由にしてこなかった。しかし、そうやって自分を束縛していてはいけない。


 彼はようやく、思うように言葉を発することが出来ていた。

 小島自身も気持ちが良く、表情にも自信が現れている。

 イケメンがさらにイケメンに見える。それを彼自身が望んでいないとしても。

「……はい」

「じゃあな。午後からも授業をちゃんと受けなさい」

 女生徒が頷いたことだけを確認して、小島はその場を去った。

 とりあえず思ったよりも悪い反応ではなかったことにほっとしていた。それ以上は特に気にしていなかった。

 女生徒は、自分の頬が火照っていることを確認してから、ブラウスのボタンを直した。


 その日以降、イケメンがよりイケメンになったとの噂が学校中を回っていた。しかし、小島教員は特に気にした様子なく仕事をしていた。



 —— * —— * —— * ——



 昼休みが終わって五時限目、たまたまお互い授業のなかった教員が、職員室で話していた。

 慎太の担任の木下と、陸上部顧問の榊原だ。

「わたしね、通信制高校の教員を目指そうと思うの」

「そうですか」

 木下の告白に、榊原はそれほど大きな驚きはなかった。

 自身の事情を、かいつまんで話してくれたが、その内容も、榊原は意外には感じなかった。

 彼女のクラスの生徒である高橋もそうだが、毎年、クラスに不登校の生徒が出るたび、彼女が他の教員以上に心をいているのは分かっていたからだ。

 彼女は、不登校など、何かしら学校に通えなくて困っている生徒にこそ手を伸ばしたいのだ。そちらに専念したいというのであれば、それができる環境に移ろうというのは、一つの判断であろう。

「いいことですね」

 二人とも三十を過ぎたが、まだ結婚はしていなかった。仕事としては十分な経験を積んだ。もう一度、自分の仕事について見直しても良い時期だ。


「あなたはこれからどうするの?」

 “アンドロメダ”の因子所持者ファクターホルダーであった以上、榊原も何かに悩んでいたことは確かだであり、それが陸上部関連であることも、木下には推測できた。そして、洸に謝っていたことから彼絡かれがらみであることも、容易に想像がついた。

「ああ、俺ですか? 俺は……そのままです」

 榊原も、自分の事情を木下にかいつまんで説明をした。

「やめたりはしないのね?」

「別にいまの仕事や、陸上部の奴らが嫌いなわけじゃないですし……いや、俺も、高校時代はそんなに部活で成績を残していたわけじゃないんですよ。だから、つい生徒にいい結果を残してやりたくて、力が入りすぎちゃって。でも、自分の学生時代を思い返してみれば、いろんな同級生や先輩がいたし……それに、今の部活にだって、俺を慕ってくれる生徒はいるから」

「そうね。それもいいわね」

「割り切るってわけじゃなくて、視点を変えようと思ってね。才能があるやつじゃなくて、頑張っているやつを見てやろうと思って」

 これもまた、いまの自分の仕事をもう一度見直した結果の一つだ。


「それは、いいわね。ねえ、今度飲みに行かない? 四人で」

「今回の四人?」

「そう、今回の四人」

「いいですね。小島先生とはまだ飲み会をしたことはなかったな。中川先生とはそもそもあまり話したことないし、いいですね」

 榊原は思い立ったが吉日とばかりに腰を上げて周囲を見回してみたが、彼らの姿はなかった。

「じゃあ、終礼後に声を掛けられたら、俺からかけてみるよ」

「わたしも、見かけたら声を掛けるから」


 終礼後、小島はすぐに見つかり、木下が声を掛けると、彼は妙に嬉しそうに快諾した。

 しかし、中川の姿はすぐに見つけることは出来なかった。



 —— * —— * —— * ——



 終礼後、中川の姿は、校長室にあった。

 そこには、校長はおらず、教頭がいて、中川の手には封筒があった。


 差し出されたそれには、『辞表』と書かれていた。


「そうか……」

 教頭が、仕方なくそれを受け取った。

 先程、突然職員室で差し出されたため、とりあえず話をしようと校長室に入ったのだ。

「はい。……わたしには向いていないって、それが分かりました。もう無理だと思います」

「……そうか。分かった」

「それでは失礼——」

「待ってくれ」

 部屋を去ろうとした中川を、教頭が引き留めた。


 受け取るだけでならば、職員室でも良かった。話がしたかったからこそ、教頭は彼女をこの部屋に招き入れたのだ。


「最近は、こういったものを受け取っても引き留めることはしてこなかった。だがな……君はわたしよりも、わたしの孫の方が近い年齢だ。そんな君が簡単に挫折してここを去ってしまうのは忍びなくてな」

「……でも、もう無理です。わたしは」

 いつもおどおどとして、自身がなさそうにしている彼女ではない。ネガティブな決断であったとしても、自分の決めたことまっとうしようとする、強い意志が感じられた。


 しかし、教頭もまた、いまは決意を持って話をしていた。

「わたしが、協力する。いまはセクハラだなんだというのもうるさいから。あんまり積極的に関わることも難しいし、嫌がれることも多いが、でもやはりわたしも簡単には諦めたくない。いや、いままで諦めて来たから、今回はそれを変えたい。

 わたしだって、君と同じように挫折しかけたことはある。でも、その時に支えてくれた人もいる。人が人を助けてあげたいという思いに、ハラスメントも何もないはずなんだ。それでも君が嫌なら、ハラスメントなんだけどな……」

 ハハハッ、と教頭の乾いた笑いが響いた。


「……わたしも、頑張りたいんです。でも、辛くて」

 中川の目から涙がこぼれ始めた。

 やめるという意思を固めていたとしても、教頭のその言葉は、中川にとって嬉しくはあった。

「ああ、いいんだ。無理する必要はない。心を病んでまで働くものじゃないのは分かっている。でも、もしよければ、来年度一年だけどうだ。まだ二年目だろ? わたしも、話を聞くから。石の上にも三年というだろ? はは、いまの若者にはこういう言葉がウザがられるんだろうな」


 教頭の必死な様子を見て、この人も一緒なんだと、中川はそう思った。


 教頭でも、思い通りにはいっていないことも多い。そういう経験を、すでに何度か重ねている。自分はこうして、教員をやめるという選択肢を選んだが、いま目の前の教員は、自分を止めるという選択肢を選んでいる。意思と意思のせめぎ合いでは、ただの力比べになってしまう。

 しかし、教頭が自分の手助けをしてくれる、助言をしてくれるという条件を自分の状況に加えて見たならばどうだろうか? 

 少し、自分の状況は今までとは違うのではないだろうか。中川はそう考えた。


「………分かりました。一年だけなら」

「ああ、それでいい、三年間やっても無理ならやめればいい。でも、これからの経験は、君が教員を続けようがやめようが、役に立つ経験となるように、わたしも協力するからな」

「………お願いします」

「ほら」

 教頭は、ポケットから自分のハンカチを取り出した。

「……それは大丈夫です」

 中川は断り、自分のハンカチを出した。


 彼女が落ち着いてから校長室を出て自分の席に着くと、職員室の入り口から声を掛けられた。

「あっ、いたー。中川先生、探したよ」

「はい、何でしょうか木下先生」

「そのね、例の四人でさ、飲み会でもしようよって話があってね。どうかしら?」

「…………はい、分かりました」

 タイミングが良かった。そう、中川は思った。

 いつもなら、遠慮して断ってしまうだろう。

 教頭と話をする前なら、やめるつもりだったのだから断っただろう。

 明日だったら、いまほど気持ちを強く持てていなかったかもしれない。

 いま、だから。校長室から出て来たばかりのいまだから、うなずくことができた。

(……運がいいかも)

 彼女がそう思えたのは、ずいぶんと久しぶりであった。


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