第七章 ワンダリング・ガール ①

 日曜日、時間は深夜だからもうすでに月曜日か。場所は東尾高校からほど近い住宅街。ほとんどの家が消灯し、街灯も多くはない。

 暗闇と静寂があたりを包んでいる。

 残暑厳しくも、わずかながらに夜の気温は下がってきている。そんな夜に、少女の叫ぶ声が響き渡った。


「みんなー! 気を付けてー!」

 周囲に注意を促す声を、両手をメガホンのようにして口元に当てながら叫び、少女が走っていた。


 鬼気迫る呼びかけに関わらず、寝静まった街が目を覚ますことはないように思われたが、一人の男が二階のベランダで聞いていた。エアコンをタイマーで切れるようにしていたのだが、まだ寝苦しかったようで、エアコンが切れたらじきに目が覚めてしまった。そんなときに外から声が聞こえてきた。一体何事なのか、一階で寝ている妻と子供たちを起こすべき事態なのか、判断するために男はベランダに出て様子を確認しようとしたのだ。


「みんなー! 気を付けてー!」

 何度か同じ声が聞こえた。周囲も二階建ての建物が多く、周囲が見渡せるわけではないから、男には声しか聞こえない。ただ、所詮人の声、建物の中の人間を起こすほどやかましいことはなく、男以外に起き出してくる者はいなかった。


 気を付けてと言っても、何に気を付ければいいのかが分からない。男にはまだ自分がどうしたらいいのか判断がつかなかった。


 家の北側にある十字路を、少女が駆けていくのが見えた。

 制服を着ていたように見えたが、どこの学校のものかは分からなかった。

 その姿が見えなくなった直後、また声が聞こえてきた。


「クッソ―、やっぱりあたしが生贄になるしかないかー」

 そう言って、何かを決心したのか、再び大きな声を上げた。

「もう大丈夫だから! あたしが何とかするから! あたしが生贄になればなんとかなるから!」


 先程から内容に具体性が全くなく、突拍子もない。

(まあ、おかしな中高生が夜中に声を上げて走り回っているだけか……)

 それはそれで困ったものだなと、男は思った。

(そんな噂のあるご近所さんがいるか、うちのに一度聞いてみよう)

 そうして興味を失い、部屋に戻ろうとしたその時――

「来た!」

 十字路を曲がった先にまだ少女がいるのだろう。そこからそう叫ぶ声が聞こえた。

 何が? そう思って、男が部屋に戻るのをやめ再び振り返ると、十字路の何かがゆっくりと横切っていった。


 ノシ、ノシ、ノシ……


 どす黒い色の泥が人型になったような何かが、音も立てずにゆっくりと十字路を横切っていった。頭部の尖り具合や背中や肘にギザギザとしたものが見える様子から、ファンタジー作品で見るような『半魚人』のようにも見えた。


「さあ、あたしが生贄よ!」

 十字路の向こう側で何が行われているのか見ようと、男はベランダを端まで移動して身を乗り出したものの、見えなかった。

「ああ!」

 少女の声とともに、何かうっすらとした光が一瞬だけ天に昇って行ったように見えた。


 男は駆け出し、慌てて家を飛び出すと、その少女と泥半魚人のような化け物がいるであろう十字路の先に向かった。自分の身の危険も考えたが、あんな化け物がいるなら、家族を逃がさなければいけない。少女の代わりに声を上げて回らなければいけないかもしれない。


 恐怖を、家長かちょうとしての責任で上塗りし、十字路に飛び出した。


 しかし、そこには何もなかった。


 少女もいなければ、泥半魚人の姿もない。


 足跡も、血痕も、何の痕跡もない。


 呆然としながら家に戻ると、居間で目を覚ました妻に声を掛けられた。


「どうかしたの?」

「ああ」

 男は何と説明したものかと躊躇ためらい――。

「すまん。ちょっと悪い夢をみて寝ぼけてた。ははは」

 そう言うことしか出来なかった。


 ばつが悪そうにしている夫を見て、妻は首をひねった。

「そうなんだ」

「……うん」

 妻は時計を見た。

 三時十分

「寝るわ」

「ああ、すまん、起こして」

 別にいいわよと一言残して、妻は一階の、子供たちと一緒に寝ている寝室に入っていった。


「……疲れてるのかな」

 寝なおした方がいいのだろうが、気味悪さが残ったままの男はどうにも寝る気にはならなかった。とりあえず気持ちを落ち着けようと、二階の寝室——子供が生まれる前は夫婦の寝室だった――のベランダで、煙草を吸うことにした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る