第五章 リサーチ・アバウト・〇〇〇〇〇 ①

 翌日、日曜日。

 洸は朝から慎太の家を訪れていた。

 二日続けての洸の来訪に舞い上がった依子からお茶を受け取り、二人は慎太の部屋で本と向き合っていた。

「あ、ホントだ。アキレス腱のことが書いてある」

 洸が読んでいるのは、慎太に勧められたギリシア神話の本だ。慎太曰く、「中学生向けな?」とのこと。

 そこには、アキレウスの踵が弱点となるエピソードが書かれていた。




 英雄ペレウスと海の女神テティスとの間に生まれたアキレウス。しかし、母親のテティスは息子が不死身でないことに我慢がならず、冥界の川ステュクスに浸けたという。毒素を含む水につけることで、絶対に傷つかない皮膚を手に入れようとしたらしい。その時に踵を握りしめていたがために、踵が弱点となった。




「まあ、鏡谷さんが言っていた通りだけど、オレのアバターは足首を掴んだように、手形がアンクレットになっているな」

「その方が自然じゃない? 踵握りしめて人を川に浸すのは難しそう。こっちには、夜のうちに可死かし部分を火で焼いて、昼間にアンブロシアの塗り薬を塗ったって書いてあるよ」

 慎太が読んでいるのは、ハードカバーの辞書のような本だ。知りたいエピソードを探し出すだけで大変そうだ。

「虐待やん!」

「水に浸けるのも虐待だけどね。やっぱり踵を持って薬を塗ってて踵が塗れなかったらしいから、弱点は変わらない」


 神話で語られる神の行いは、人間の価値観で測ることは出来ない。しかし、その動機は人間臭く、それが世界を巻き込むスペクタクルな出来事になるのは、ギリシア神話の魅力である。

 愛多き主神ゼウスに対し、正妻である女王ヘラが嫉妬するのは良くある話だが、結果多くの人間、英雄、ニンフ(川、泉、山、樹木などに宿る精で美しい女性の姿をしている。下級の女神)が巻き込まれたりする。

 そして、戦争も巻き起こす。

 ゼウスの浮気が原因ではないが、アキレウスの巻き込まれるトロイア戦争も、神々の諍いが引き起こした戦争の最たるものと言えるだろう。


「トロイの木馬は知っている?」

「ああ、大きな木馬にみんなが隠れて、夜中に飛び出て襲うやつだろ?」

「まあ、何となくだけ分かっている感じだね。それで有名なトロイア戦争にもアキレウスは登場するよ。だけど、木馬が出てくる前に死んじゃうけどね」

「え? 不死身じゃないの?」

「だから、踵が弱点だって言われてるじゃん。踵を毒矢でられたんだよ。そこら辺のことは……ほら、この本のここら辺を読んで」

 洸は、慎太の差し出してきた本の文字が小さいことや、文量の多いことに若干眩暈めまいを感じた。しかし、いまこの部屋に集まっているのは、自分のアバターについて理解を深めるためだ。慎太は良く知っているから確認と考察のためだが、洸は一から知る必要がある。

「頑張るか!」

 洸は気合の一声とともに、指しされた本を手に取った。




 トロイア戦争の火種は、アキレウスの両親の結婚式にまかれることになる。

 英雄ペレウスと海の女神テティスとの結婚式には、オリュンポスの神々もそろって出席した。しかし、そこに招待されなかった『争い』の名を持つ女神エリスは腹を立て、祝宴の席に『黄金の果実』を投げ込んだ。その果実には『最も美しい女性に』と記されていた。

 それに名乗りを上げたのは三人の女神、主神ゼウスの正妻である女神ヘラ、戦さと知恵の女神アテナ、愛と美の女神アフロディーテ。三人は一歩も引かなかった。

 そこで主神ゼウスは考え、トロイアの王子パリスに、最も美しい女性が誰かを選ばせることにしたのだ。

 そして、パリスを目に前にしたとき、三人の女神はそれぞれに褒美をちらつかせた。

 ヘラは世界の支配権を。

 アテナはあらゆる戦争での勝利を。

 アフロディーテは人間の内で最も美しい女性の愛を。

 パリスが選んだのは、アフロディーテだった。

 では、パリスに約束された人間で最も美しい女性とは誰か。

 それは、スパルタ王メネラオスの妻、ヘレネだった。




「無茶苦茶じゃん。人の奥さん勝手にあげるとか」

「それを貰おうとするパリスも大概だよね。まあ、現代人の価値観で文句言ってたら話が成り立たないけどね。ま、それでパリスがスパルタ行って、ヘレネも惚れちゃって、二人してトロイアに行っちゃったわけよ」

「そりゃ戦争だ。いや、市民からしたらたまらんけどさ」

「暴挙も暴挙だから、全ギリシア対トロイアになったみたいだね」

「神様アフターフォロー悪すぎだな。で、アキレウスは?」

「ギリシア側の最強の英雄さ。でもアキレウスは最初隠れてるんだ」

「隠れている?」

「はい、そのエピソードはこのページ」

「……はい」

 『そのまま教えてよ』と洸は慎太に目で訴えたが、慎太は『自分で読みなさい』と目で答えた。




 アキレウスは一つの予言を与えられていた。

 トロイア戦争に出陣すれば、若くして死ぬことになる。

 それを知った母テティスは、アキレウスを女装させ、とある宮廷の王女たちの中に隠したのだ。




「女装か……」

 洸は呟いた。

 洸のアバターの能力は姿を変える力だ。ここにある変装のエピソードにも自分との繋がりを感じた。また、いまだ、アキレウス自身のエピソードは少ないが、先程から母親テティスに言われるがままのアキレウスに、洸は親近感と苛立ちを感じていた。

「でも、それは知将ちしょうオデュッセウスによって見破られる」

 オデュッセウスは王女たちの前に品物を並べたが、その中に武具を混ぜておいたのだ。それに興味を示したのが、アキレウスだった。

「ちなみに、さっきの木馬はオデュッセウスの作戦だよ」


 そうして、アキレウスはトロイア戦争に身を投じることとなった。

「親の結婚式きっかけで戦争が起こって、その子供が英雄として参戦するって、いまいち時系列がよく分からんけど。英雄の成長は人とは違うのか何なのか。まあ物語だと言ってしまえばそれまでだけどね。ホメロスって人が書いた『イリアス』ってのが、トロイア戦争について書かれた叙事詩らしいから、その物語と、その他の言い伝えと、いろいろ混じっているのかな? ボクは研究者じゃないから分からないけど」

 そう言うところも面白いのだろう、語っている慎太は楽しそうであった。


 慎太は一見物静かなように見えるが、自分の好きやことや自分の思いを語るときには饒舌になる。そういう好きなものに熱中する慎太の姿に、他の人間はオタク臭いとさげすむかもしれないが、洸は尊敬の念しか抱かない。


「で、アキレウスはいつ死ぬの?」

「まだ殺さないで。ここからもう一つ大事な話があるんだ」




 ギリシア軍によるトロイアの包囲が始まってから十年が経過した頃。

 アキレウスはギリシア軍の総大将アガメムノンとの間に生じた女性を巡るトラブルによって、戦争から身を引いてしまう。

 アキレウス不在では押されてしまうギリシア軍。しかし、アキレウスはどれだけ説得されようとも、それに応じず、参戦することはなかった。そこで知将オデュッセウスはアキレウスの親友であるパトロクロスにアキレウスの武具を装着することを提案。それにより周囲をあざむくことが出来れば、味方の士気はあがり、敵の勢いを挫くことが出来ると主張した。パトロクロスもそれに同意し、アキレウスを説得した。

 それならばとアキレウスも了承したが……




「相手にはトロイア最強の戦士、ヘクトールがいて、パトロクロスは殺されてしまい、アキレウスの武具は奪われてしまう」

「ここにも変装か……」

「そうだね、アキレウスが変装したわけでは無いけどね。ただ、それで親友を失ったアキレウスは嘆き、怒り、再び戦場に身を投じることになる」

「遅すぎじゃん……アキレウス」

 英雄アキレウス、オレと同じでカッコ悪いじゃん。そう思って、洸は失笑してしまった。

「で、アキレウスはヘクトールに勝つんだけど。怒りのあまりヘクトールの遺体を戦車で引っ張りまわすとかひどい仕打ちをしてしまう。その後、相手の王様から懇願されて遺体を返すんだ。それで『イリアス』は終わり」

「やっぱり格好悪いな。で、アキレウスは死ぬの?」

「そうだね。その後の戦いの中で、太陽の神アポロンの支援を受けたパリスの毒矢に踵を撃ち抜かれ、死亡する。そこから先はオデュッセウスの木馬の話さ。それはまた今度。さて、少しはアキレウスのことが分かったかい?」

「まあ、ね。似ているような気はする」

(親の言いなりで、自分で道を選ばず、いつまでもうじうじしているところなんかそっくりだ)

 正直、読めば読むほど、知れば知るほど、我がことのように情けなくなってしまった。

(でも……)

 親友が死ぬまで閉じこもっているような人間にはなりたくない。

 洸の心には、そんなアキレウスに対する反骨心はんこつしんが芽生えてきた。


「ま、アキレウスはこれでいいや。君のカルキノスは?」

「えーっとね。……はい、これ」

 そう言って慎太が差し出したのは、星座について書かれた本だ。

 読みやすい大きさの文字で書かれたその本の一ページが開かれているが、この部屋にある本の中で唯一カルキノスについて書かれているのはこの一ページだけであった。


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