第一章 トゥー・ボーイズ ①

 授業が終わり、部活動の時間となった。


 高校一年生の飯島いいじまこうは、校庭をランニングしていた。陸上部のウォームアップ中である。

 彼は、この東尾ひがしお高校で一、二を争う程の人気を誇る男子生徒であった。

 高身長に端正たんせいな顔立ちに加え、抜群の運動神経を持ち合わせており、どんな競技でも活躍するスーパースターであった。

 それは高校に入ったときから噂になるほどで、どの運動部も彼を欲しがったが、結局彼は自らの意思で陸上部へと入った。


 しかし、陸上に別段の熱意があるわけではなかった。


 チームプレイが好きではないこと、細かいルールを気にしなくてもよいことなどがその理由だ。


 ウォームアップしてはいるが、見るからにやる気はない。

 どれだけ才能があっても、能力があっても、彼は嫌々ながら陸上部に所属している。両親がうるさいのだ。特に母親が。

 両親ともに教員で、父親が体育教師で柔道部の顧問、母親は数学の教員で洸を産んでからは専業主婦になっている。比較的晩婚であり、子供は洸一人。母親は仕事と家庭の両立は難しいと考え、仕事を辞める決断をしたが、もともと理系の人間であり、仕事の効率的な考え方を家庭に持ち込んでいた。

 それが原因か、いわゆる教育ママのようになっていた。父親が体育教師なこともあり、特に身体機能面に期待していて、小さなころからいろいろな運動を洸にさせていた。そうして、もともとの資質もあったのか、洸の運動に関する才能は開花していった。


 しかし、やらされてばかりで洸自身はうんざりしていた。父親も運動に関しては得意分野なものだから母親の方針に協力的だ。だから、洸に逃げ場はなく、ならばそれなりに言うことを聞いていた方が楽だという境地に達していた。


 ただ、本人のやる気はなくても、八割の力を発揮すれば、部内で負けることはなかった。特に、足の速さは群を抜いていた。

 そうなると努力型の人間や、本気で部活に取り組んでいる人間にとっては、彼は面白くない存在であった。

 そういうやからから発せられる空気感を、洸は常々感じて今日まで生きて来た。

 それもあって、洸はスポーツをやっていて面白いと感じたことはあまりなかった。小学校の頃にやっていたクラブチームのドッジボールは楽しかったが、それ以降はない。


 他人にとやかく言われない程度に手を抜いて取り組む。それでも嫉妬しっとされたり、反対により高みを目指すようにと教員や先輩から望まれる声が止むことはない。だからこそ自分で抜かりなく手を抜かなければやってられないのだ。


(さっさと帰りてぇなぁ)

 サボっても良いのだが、早く帰れば間違いなく母親の質問攻めが待っている。だったら心を無にして、適当に部活動をやっていた方が楽だ。幸いなことは、洸は運動をすることに関しては、それほど苦を感じてはいない。むしろ体を動かすことには心地よさを感じることができる。

 そんなこんなで心の平衡へいこうを保っていた。


「きゃー! 飯島くーん!!」


 部活を見学している、いわゆる帰宅部の女子生徒らの黄色い声が上がった。

 洸は一瞥を送るものの、それ以上の反応は見せなかった。アイドルではないのだから手を振るなどの反応をするのもおかしいし、照れてみたり、嫌がってみたりと感情を表に出すのは洸自身が嫌だった。ただ、勘弁して欲しいというのが洸の本心だ。周囲の嫉妬心をあおるだけなのだから。


 しかし、今日はそれだけではない別の声が聞こえてきた。


「何あれ……何しているの?」

「えっ、ヤダッ! 気持ちわる」


 洸には内容までは分からなかったが、陸上部の女生徒が校庭の一方を指して、何やらぶつぶつと言っているのだけは分かった。

 何気なくその方向に目を向けると、校庭を見ながら、何やらノートを書いている男子生徒がいた。


「おっ、しんちゃんじゃん……」


 最近話す機会のなくなっていた友人、ほり慎太しんたの姿を目にして、洸の顔には笑みが浮かんだ。


 しかし、すぐに表情が曇った。

 先程の女子生徒たちの会話のトーンから、悪口を言っていたのだろうと推測できたからだ。確かに陸上部女子のユニフォームは露出が割と多く、一部の男性からいやらしい目で見られることがある。彼女らの口ぶりでは、その少年をそれらの変質者と同列に見ているようであった。


(失礼だな!)


 洸は、堀慎太がそのような人間でないことを知っている。

 全体的に無造作に伸びた髪、小さな両眼はその前髪に隠れてしまいそうだ。体格は小柄で、さらに猫背なために余計に小さく見える。スクールカーストのトップに君臨するのが飯島洸だとしたら、この堀慎太は最下層の住人であろう。とはいえ本人たちはそんな周囲の評価は気にしていない、洸は周囲が勝手に自分を押し上げているという認識であり、慎太は最下層だろうが何だろうが、周囲の意見よりも自分が何をしたいのかということを重視している。

 そんな慎太の態度を、洸は尊敬していた。

 だから、女生徒たちが何を言っているか具体的に分からなくても、その声色だけで腹が立ったのだ。

 そんな洸の感情に追い打ちをかけるようかのように、陸上部の顧問が慎太に声を掛けた。


「おい、お前そこで何している」

 その顧問の語気は、最初から慎太がいかがわしい目的でそこにいると決めつけているようだった。


「え? ちょっと参考にしたくて、部活動の風景を眺めているだけですけど」

 慎太は特段動揺した様子もなく、淡々と答えた。

「それは何をしているんだ!」

 慎太の手元では、シャープペンシルがカタカタ動き、ノートにメモを取っているようだった。


 陸上部の顧問は取り上げようと手を伸ばすと、慎太はそれを避けた。

「さすがにプライベートの侵害だと思います」

 正論を淡々と、臆せずに口にする慎太。

(そうそう、慎ちゃんはそういうやつなの)

 いついかなる時も、慎太は慎太だった。


 人間としての芯が一本通っている。


 反対に、顧問は正論に言い返せず、そのうちに大声を上げそうな顔をしていた。

 だから、洸は助け舟を出そうと思った。


「センセー、オレ、用事を思い出したから帰りまーす。慎ちゃん、一緒に帰ろうぜ。あと十五分くらいそこで待っててくれる?」

「ああ、うん。十五分あれば充分かな。分かった、待つよ」

 これで、慎太はここにいる理由が出来た。


「え? ちょっと待て飯島……お、お前ら、何やっている! そろそろウォームアップも終わりだろう!」

 いつの間にやら何人もの生徒の視線を集めていたことに気づき恥ずかしくなったのか、陸上部の顧問はその場をつくろうように大きな声を出し、部活動の指導に戻っていった。


 洸は止めようとした顧問の声など気にせずに部室に向かうが、その途中、先ほど慎太に対して何やら失礼なことと言っていたと思しき女生徒たちとすれ違う際に、思わず冷やかな視線を向けてしまった。

(いかんいかん……)

 わざわざ波風立てる必要もない。かといって、つくろって笑顔を見せる気にもなれなかった。

 洸はかぶりを振って、部室へ向かう足を速めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る