第8話

 物音は、脱衣所の方から聞こえた。

 目をこらすと、浴室ドア越しに、チラッと人影が見えた気がしたが、一瞬のことで、それが本当に人影だったのか分からなかった。

 きっと、気のせいだ。自分にそう言い聞かせ、深く息を吸い込むと、忘れていたミュゲの香りが、ふと鼻の奥を通り抜けていった。


「はぁ。良い匂いだな」


 僕は、そっと目をつむると、湯船にその身をゆだねる。

 あぁ……気持ちいい。お風呂って、こんなに気持ちよかったっけ?

 いつもシャワーだけで、カラスの行水のごとく、ちゃちゃっと済ませていた僕には理解出来なかった姉の長風呂が、今なら分かる気がする。


「……ふぅ。これ以上はのぼせそう」


 十分に温まった僕は、薄目を開け、湯船を出ると、脱衣所でバスタオルを探す。

 すると、洗濯機のフタの上に、何かが置かれていることに気づいた。

 恐る恐る近づいてみると、そこには、バスタオルと紺色のジャージらしき服とタンクトップ、その上に重ねられた黒い何か。それとメガネが置かれていた。

 ひとまずメガネをかけた僕は、目に飛び込んできた黒い物の正体に、思わず後ずさってしまった。

 ……これ、姉さんの下着、だよな? しかも黒って。

 見れば、ブラジャーとショーツの間に、一枚の付せんが挟まっている。

 なになに……買ってから一度も使ってないやつだから、よかったら使って。あと、ジャージでごめんね。だと?

 僕は、バスタオルで頭と体を拭く中、緊急招集した脳内碧人あおと会議の末、姉の用意した下着と服を着ることに決めた。

 が、ブラは音谷のサイズに合わず、入らなかった。

 とはいえ、何もつけないというのは、たぶんよくないと思う。仕方ないけど、ブラは音谷のやつをつけるしかないな。

 って、あれ? 音谷の下着、どこいった?

 たしか、洗濯機のフタの上に置いたはず……ん? もしかして。

 予想は的中。よくよく見れば、洗濯機が動いている。

 姉さんだな。まったく余計なことを。さっきの物音はきっとこれだ。

 こうなったからには、どうしようもない。

 僕は、ブラをつけることをあきらめ、タンクトップとジャージを着た。

 このジャージ、姉さんが高校の時に着てたやつだ。まだ捨ててなかったとは、物持ちが良いと言うか、なんと言うか。


「にしても、なんかこれ。ちょっと、あれだな」


 着れないということはないけど、なんとなく窮屈な気がするのは、なんでだろう?

 背丈は、さほど変わらない2人だけど、思い返してみれば、音谷の方が姉さんより全体的に、ふくよかだからかもしれない。

 着替えを終え、脱衣所のドアを開けると、すぐに姉の声が飛んでくる。


「萌ちゃん、上がった? 髪乾かすから、こっち来てー」


 そうか。いつもは、タオルで拭きあげた後は、自然乾燥でよかったけど、音谷の髪は、そうはいかないよな。

 姉の部屋に入ると、姉は目を見開いて、僕の頭から足の先まで舐めるように見てきた。


「も、萌ちゃん。制服の時は、あんましわかんなかったけど、着痩せするタイプなんだね。これは、ちょっとアレだね。アオには早すぎるわ」


 姉よ。自分の胸に両手を当てながらそれを言うのは、生々しいからやめてくれ。

 そんな僕の気持ちなど露知らず。姉は、ドアから廊下に顔を出すと、リビングに向かって叫ぶ。


「アオー! お風呂空いたよー! あたしは後でいいから、あんた先入んなー」


 僕は、慌てて音谷にRUINルインを送る。


 ――パジャマベッド上、下着クローゼット――

 ――了解。極力あれこれ見ないようにする――


 僕は、グーサインの絵文字を返すと、携帯電話を閉じた。

 ん? 待てよ。極力って、自分は絶対ダメって言ってなかったか?

 とはいえ、僕もなんだかんだ、その……うっかり? ちらっと見えてしまったわけだから、ダメとか言える権利は無いんだけどね。

 姉は、ドアを閉めると、ドレッサーの前でドライヤーを片手に、手招きする。

 僕が、イスに座ると、ドライヤーの風を髪に当てる。はじめは手櫛てぐしで風をあて、途中からは、ブラシを使って、髪をとかしながら乾かしてくれた。

 いつもの姉さんとは違う雰囲気に、なんだか心が安らぐ。

 もし、僕と姉さんが、姉妹だったら、毎日こんな風にしてくれるのかな?

 ……そういう世界線も、まぁ、悪くないか?

 そんな妄想を膨らませていると、姉が鏡越しに、何かをぷらぷらと揺らし見せてくる。


「んふぅ。萌ちゃん。これは、とっておきだよ」


 ひと通り髪が乾いたところで、姉は、ちょっとお高そうなヘアーオイルを手に取り、髪に塗ってくれた。

 艶やかに輝く音谷の黒髪を見た姉が言う。


「萌ちゃん。髪、ちゃんとケアしてるんだね」


 姉いわく、ヘアーオイルを塗ったからといって、すぐにここまでキレイな状態にはならないのだという。


「あとは、顔のスキンケアね。萌ちゃん、両手広げて」

「こ、こうですか?」

「指は閉じて。うん。そんな感じ。まずは化粧水からね」


 姉は、僕の両手に化粧水を垂らすと、顔の肌に当てる仕草を見せる。

 僕は、姉の真似をして、化粧水を顔に馴染ませていく。ほほう。いままで、化粧水なんてつけたことなかったけど、結構気持ち良いもんなんだな。


「ちょっと、そのままね」


 姉は、次に使うであろう乳液のボトルを手に取ると、ドレッサーの端に置かれた小さなデジタル時計に視線を落とした。

 姉が時計と睨めっこしていた時間は1、2分くらいだったと思う。それでも、することの無かった僕には、長く感じるものだったが、いったい何待ちだったのだろうか?

 姉は、時計から視線を僕に戻すと、顔を近づけ、何かを確認している。


「うん。そろそろ良さそうね」

「良さそう?」

「ん? 萌ちゃん、もしかして、化粧水したらすぐに乳液つけてたりする?」

「えっと、それは……」


 そんな事、僕にわかるはずない。音谷ならどう答える?

 悩みながら、モゴモゴと口ごもっていると、姉が得意気に言う。


「萌ちゃん! 乳液はね、化粧水をつけてから1、2分くらい経ってからつけると良いんだよ。化粧水が残り過ぎてても、乾いても良くないから、そのくらいの時間がいいらしいの」


 へぇ、そうなんだ。姉さん、意外と化粧のこと詳しんだな。我が姉ながら、感心させられる。


「はい。じゃ、手出して」


 僕が、化粧水の時と同じように、手に小さな器を作るように手を広げると、姉はそこへ乳液を垂らしてきた。


「そのまましばらく、手の上であっためて」


 ほう。乳液は、化粧水と違ってすぐにはつけないのか。しかも温めるものだとは知らなかった。


「そろそろかな。そしたら、おでこと両頬と鼻とあごに、ちょんって乗せてみて」

「……こんな感じ、ですか?」

「うん! 良い感じ。そしたら、それを顔の中心から外に向かってやさしく伸ばしてみて」

「こう、ですか?」

「うんうん。良いね。萌ちゃん上手。そしたら、次は両手で、軽く押さえ込んでって。こんな感じで」


 おでこ、両頬、鼻、あご、それぞれを手のひらで軽くプレスしていく姉の動作に続けて、僕も同じように各所を手のひらで押さえていく。


「よーし。最後はクリームね。これは、乳液と同じようにつけて」


 3度目ともなれば、さすがに慣れたもので、僕はスッと手のひらを自ら差し出した。

 姉は、その上にクリームを乗せると、鏡越しに僕の顔を見つめ待機。

 フッ。なるほど。乳液と手順は同じ。だから、ここからはアドバイスは無しってことか。

 いいだろう! その挑戦受けて立つ!

 えっと、まずはこれを、ちょこんと、おでこと、両頬と、鼻と……やばい! あと、どこだっけ? ……あご! そうだ、あごだ!

 ふぅ。危なかった。ここで、姉さんのアドバイスが入っていたら、チャレンジ失敗になるところだった。

 だが、ここからは、安心してくれ! 手順はしっかりと頭に残っている!

 顔の中心から外に向かってクリームを広げ、手のひらでやさしく押さえ込んでいく。

 どうだ姉さん! 完璧だろ?


「こ、こんな感じですか?」

「うん。萌ちゃん、完璧!」


 よし! 完璧、いただきました!

 別に、姉が僕に、挑戦を挑んできたわけではないことはわかっているが、なんとも言えない達成感と優越感が僕を包み込んだ。


「萌ちゃん、あたしのベッド使って」

「え? お姉さんは?」

「あたしは、ここに布団敷いて寝るから大丈夫」

「それは、申し訳ないです。ぼ……わ、私が下でいいです! お姉さんは、自分のベッドで寝てください」


 自分の姉とはいえ、それは気の毒だと、さすがの僕も思う。


「んー。そう?」

「そうです!」

「うん。わかった。それじゃ、ごめんだけど、萌ちゃんが布団ね」

「はい。ありがとうございます」


 僕が頭を下げると、姉は、そんなん、やめてよと笑いながら、観たいドラマがあるから先に寝てて、と部屋を出ていった。

 さてと、こっちはひと段落したが、音谷の方は大丈夫だろうか?

 ドアの隙間から風呂場を見ると、脱衣所からゴソゴソと音が聞こえる。たぶん、音谷が風呂から上がり、着替えているのだろう。

 しばらくすると、脱衣所のドアが開き、頭にタオルを巻いた音谷が出てきた。

 うおーい! 音谷! 僕は、風呂上がりにタオルを頭に巻いたりしないぞ! それ、お前がいつもやってることなんだよな? な?

 僕は、音谷に手招きする。それに気づいた音谷が駆け寄る。


「お風呂、ありがとう。すごく気持ちよかった。でも、ひとつ。謝らないといけないことが……」

「謝ること⁈ な、何?」

「そ、その……体、洗ってたら、手が……少し当たって……びっくりしたら、立ってしまって……」

「うぇ⁉︎ た、立ったの⁉︎」

「う、うん」


 まじかぁ。

 顔から火が出そうなほど恥ずかしく、おでこに右手を当てた僕をよそに、音谷が話を続ける。


「それで、立った勢いで、手がシャワーに当たってしまって、お湯が鏡にかぶって……少し、角丸の胸が……見えた」

「へ? 胸?」

「うん……胸。ごめん! でも私、極力見ないよう頑張った。頑張ったけど……言い訳して、ごめん」

「なんだぁ。立ったって、普通に立ち上がったってことかぁ。そうかぁ、胸かぁ。僕はてっきり」

「てっきり?」

「あ、い、いや。なんでもない。お、音谷。気にすることないよ。男の胸のひとつくらい、見られたってどうってことない。だって、ほら、夏なんか運動部の連中とか、上半身裸で部活してるやついるだろ? 海やプールでも、みんな海パン一丁で、上半身見えてるだろ?」

「……言われてみればたしかにそうだな。ふぅ。私、意識し過ぎてたみたい。ありがとう。角丸」


 僕たちが小さく笑いあっていると、リビングから母の声がする。


「碧人ー? 上がったのー?」


 僕は、母に返事をするよう音谷を促す。


「え? 何て言えばいい?」

「うん! 上がった、でいいよ」


 音谷は、手でOKサインを出すと、リビングに向かって言う。


「うん! 上がった」

「お姉ちゃん。碧人、お風呂上がったって」

「はーい。これ見終わったら入るね」


 本日最大のミッションをクリアした僕たちは、それぞれの部屋に戻り、RUINを開く。

 先にメッセージを送ってきたのは音谷だった。


 ――なんとか、上手くいったな――

 ――うん。なんとか――

 ――明日は、いよいよ学校だ――

 ――たしかに。めっちゃ緊張してきた――

 ――そうか? 私は、今日のいろんな出来事を乗り越えられたおかげで、案外、大丈夫な気がしてる――

 ――音谷は、すごいね。僕は、まだ自信ないな――

 ――角丸だって、大丈夫だと思う。だって、お姉さんとのやり取り、上手くやってのけてくれただろ?――

 ――まぁ、なんとか――

 ――だから、大丈夫! 私がフォローするから! 角丸も私のフォローよろしく! 明日からもお互い頑張ろう!――

 ――ありがとう。頑張ろう!――

 ――明日、何時に起きればいい?――

 ――7時で大丈夫――

 ――わかった。おやすみ――

 ――おやすみ――


 音谷とのRUINを終えた僕は、布団に潜り込むと、あっという間に眠りについた。

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