第7話

 お互いの鼻が、くっついてしまいそうなほど、顔を寄せてくる姉。

 半ば強引な、お泊まり提案の答えに困った僕が、音谷おとやに視線を送ると、音谷は小さく頷いた。

 これは……泊まっていいってことだよね? そう解釈した僕が頷くと、姉は満面の笑みで僕の手を引き、リビングへと誘う。

 ソファーのど真ん中を陣取り、テレビから流れるお笑い番組を見て、ケラケラと笑う姉。

 母は、シンクで食器を洗い、僕は、なぜか姉の横に座らせられている。

 音谷はというと、僕の隣り、ソファーの横に立ったままぼんやりとテレビを眺め、時折ニヤニヤと口元を緩めている。

 音谷のやつ、お笑いとか見るイメージぜんぜん無いけど、実は、めっちゃ好きなのかもしれないな。

 そんな、自分勝手なイメージを膨らませているうちに、気づけば、テレビの画面には、番組の終わりを告げるエンドロールと、提供元を紹介するCMが流れていた。


「はぁ、面白かったね。あ、もうこんな時間じゃん。萌ちゃん、お風呂入っておいでよ」

「えぇ⁉︎ お、お風呂⁈」


 神パス! じゃなかった。姉のキラーパスに、化粧の時から前髪につけっぱなしだったヘアクリップが、ぴょんっと宙を舞い、メガネが不自然に傾く。

 気を取り直し、メガネを元の位置に戻すと、目を丸くして、ワタワタと震える音谷の姿が見えた。


「なんでアオまで、そんなに動揺してんのよ……あー、そっか。ごめん、ごめん。これまで彼女、うんにゃ、女子の友達すらいなかったあんたには、今のは、ちょっと刺激が強すぎたわね」


 姉は、スッとソファーから立ち上がると、音谷の肩にポンっと手を置き、耳元で何かを囁いた。

 その瞬間、音谷の顔がボンっと音を立て、真っ赤に染まり、頭から煙を吹いた……ように見えるほど、分かりやすく照れ、それ以降、電池が切れたかのように動かなくなった。

 姉は、音谷にいったい何を言ったのだろうか。

 不動の音谷を放置した姉が、僕の前に立つ。


「萌ちゃん。行こっか」


 僕は、再び姉に手を引かれ、真っ直ぐ風呂場へと連れて行かれた。


「ねぇ、一緒に入る? 体、洗ったげよっか?」

「ゔぇ⁈」

「ウソウソ。冗談。いじってごめんね。アオはね、こうやっていじると、けっこう喜ぶから、萌ちゃんは、どうかなって思っただけ」


 おい。姉よ。僕は、あんたにいじられて喜んだりしてないからな? ……たぶん。

 それと、初対面の相手に、そういうことは、すべきでないと思うぞ。中身が僕だったから良かったものの、本物の音谷だったら、どう思われたか分からないからな。


「シャンプーとか、あたしのやつ使って。ピンク色のやつ。ボディシャンはその横ね。あと、メイク落としもシャンプーの側にあるから。それと、これ入れると、めっちゃ気持ちいいよー。それじゃ、あたし部屋に戻ってるね。ごゆっくりー」


 姉は、僕の手に四角い包みを握らせると、小さく手を振り、脱衣所を出ていった。

 手のひらを開くと、そこにはブーバーがひとつ。お湯に入れると炭酸によって発泡するタイプの入浴剤だ。匂いはミュゲ。湯の色は、にごり系の乳白色。

 姉よ……ナイスチョイス! 匂いに関して言うと、僕の好みは、森林とか清流とかの自然系だけど、今日のところはこれがベストチョイスだといえる。

 さて、お集まりの皆様。これから、どういたしますか?

 僕は、シャンプードレッサーの鏡に映る自分に視線をあわせると、脳内碧人あおと会議をはじめた。

 どうする? 入るべきか否か。はたまた入るふりをするべきか。

 入った方がいいに決まってる! いや、さすがに女子の裸を見るわけにはいかないから、入るべきではない! 入るふりならいいんじゃないか? それは、姉にバレるだろ?

 白熱した討論は、既に5分を経過。

 しかし、話は並行線をたどるばかりで、未だ決定打となる意見は出ていない。

 そんな自問自答を繰り返す中、脳内碧人たちの熱い議論に、割って入るかのようにRUINルインが鳴った。

 音谷からだ。


 ――見るなよ――

 ――目をつむったまま入れ――

 ――でも、頭と体はちゃんと洗え――

 ――ぜったい、見るな!――

 ――ぜったいのぜったいだからな!――


 わかった、わかった。そこまで言わなくても見ないから安心して。

 って、ん? これは……入ること前提、だよな?

 視覚からもたらされた予期せぬ本人からの情報に、脳内碧人たちが顔を見合わせる。

 どうやら、答えは出たようですね。では、風呂には入る、という結論でよろしいですね? 賛成の方は挙手を! 司会役の碧人が多数決を促すと、円形のテーブルを囲む脳内碧人たちが、一斉に手を上げた。

 満場一致。脳内碧人会議は、無事閉幕。

 音谷に、絶対見ないことを誓う返信をした僕は、音谷のメッセージ通り、音谷の体を見ず入浴するミッションへと移る。

 これに関しては、実は既にいいアイデアを思いついている。僕は、浴槽のフタを開け、ブーバーを投入すると、シャンプードレッサーの蛇口を温の方へ目一杯ひねり、続けて風呂場の蛇口も同じく温への方へ目一杯ひねった。

 蛇口から勢いよく流れ出るお湯から、モクモクと湯気が立ち昇る。

 ほどなくして、シャンプードレッサーと風呂場の鏡が曇り、同時にメガネもしっかりと曇った。

 よし。そろそろいいだろう。僕はメガネを外すと、制服のブラウスのボタンに手をかける。

 音谷の視力に湯気の効果が相まって、ボタンを外そうとする手元が、ぼやけて見える。

 いける! 僕は、ためらうことなくボタンを外し、ブラウスを脱ぐと、続けてスカートも脱いだ。

 しかし、下着姿になったところで、手が止まった。視界があやふやになっているとはいえ、体のシルエットや肌の色は何となくわかってしまう。

 けど、ここまで来てやめるわけにはいかない。僕は、意を決し目をつむると、上下の下着を脱いだ。

 目をつむったまま、慎重に風呂場へ足を踏み入れる。

 恐る恐る伸ばした足に当たった風呂イスに、腰を下ろすと、シャワーから吹き出すお湯が、頭から肩、腹に背中、腰、足、様々な部位をつたって床に流れ落ちていく。

 はぁぁぁ! 染みる――! 人生17年の中で、ダントツに気持ちいい!

 時間にすれば、たった数時間の出来事だけど、その間に、いろいろありすぎて、心身ともに疲れていた僕にとって、このシャワーは至福のご褒美となった。

 僕は、一旦シャワーから頭を引くと、右手を前に伸ばす。

 伸ばした手が、円柱型のプラスチック容器に触れる。

 僕は、指先に意識を集中させ、容器の側面を指でなぞっていく。

 ツルツルとした感触の中に、突如現れる凸と凹。

 これだ! 僕の疑念が、確信へと変わる。

 そう、これは、この容器がシャンプーであることを示すギザギザのきざみに間違いない。

 さらに容器の上部を探り、平らな面に手のひらが到達したことを認識すると、そこから伸びる細い筒に指を這わせる。

 指先が筒の先端まで来たことを認識した僕は、その直下に左手を添え、右手を面に戻し、ワンプッシュ。

 左手に粘性のある液体の感触。匂いからして、これは姉のシャンプーに間違いない。昨日も姉が風呂から出た後、家の中に漂っていたし、たまに間違えて使うこともあるからわかる。

 いつもなら、アオ! あたしのシャンプー勝手に使うな! と怒られるところだけど、今日は大丈夫。

 えっと、音谷の髪の量だと、これじゃ足りないかな? そう思った僕は、もうワンプッシュし、その液体を、手を洗うように擦り合わせ、泡立たせた。

 ひとまずCMとかでやってるみたいに、泡立ててみたけど、この後って、どうやって洗うんだろ?

 女子の髪の洗い方を知らない僕は、ひとまず泡を頭の上に乗せた。

 さすがに、ガシガシ洗う、いつものようなやり方では、まずい気がする。

 そう言えば、もみ洗いするといいって、どっかで聞いた覚えがあるな。姉さんが言ってたんだっけ?

 おぼろげな記憶をたどりながら、やさしく頭皮をマッサージするように、髪を洗っていく。

 うん。我ながらいい感じがする。

 僕は、ひと通り洗い終わると、シャワーで洗い流し、続けてコンディショナーを、髪全体に馴染ませた。もちろん、目をつむったまま。

 これって、少し待ってから、流すんだったよな。いつもは、そもそも使わないか、体洗ってから一緒に流してたけど、実際どれくらい待つものなんだろ?

 そんなことを考えているうちに、1、2分は経っただろうか。

 よくわかんないけど、もういいかな?

 僕は、シャワーを頭から浴びると、コンディショナーを洗い流した。

 さて、次は体だ。ここからは、少しばかり難しくなるぞ。

 シャンプーとコンディショナーは、隣り同士並べて置かれていたけど、ボディソープとボディタオルは少し離れた場所にある。

 ボディタオルはその形状からして認識しやすいが、ボディソープは、うっかりすると、他の何かと間違う可能性がある。

 つまり、体を洗うというミッションは、目をつむったままだと、案外難度が高いのである。

 さて、どうする? 再び開かれる脳内碧人会議。

 体を洗うべきか否か。これについては、即答で洗うべきと回答が出た。なぜなら、音谷のRUINを思い出せば答えは明白。そこには、頭と体はちゃんと洗えとしっかり書かれていたからだ。

 となると、やはりミッションをこなす方法を考えなくてはならない。


 作戦その1

 壁づたいに手をやり、ボディタオルをゲットした後、体勢を立て直し、ボディソープを手さぐりで探し当てる。


 作戦その2

 薄目を開ける。以上。


 脳内碧人会議の結果を発表する。

 1名を除いて、作戦その2に挙手が集まり、作戦その2が決行されることになった。

 ちなみに、その2に反対だった1名の意見はこうだ。

 薄目を開けるなら、最初からそうすればよかったんじゃない? ここまで来たら、最後まで頑張ろーよ。だった。ごもっともだ。

 しかしながら、他のメンバーから出された、何かにぶつかったら危ないよね? 最悪転んで浴槽にダイブするかもよ? などなど、洗髪よりも危険度が高いアピールには、残る1名も賛成せざるを得なかった。音谷の顔や体に傷をつけるわけにはいかないからね。

 とはいえ、その危険って、最初からあったよね? という最後に発せられた言葉には、誰も反論出来なかった。

 気を取り直し、体を洗うためのミッションをスタートさせる。

 ゆっくりと薄目を開ける。

 目の前の鏡は、所々水滴でクリアになっている部分はあれど、幸い大半が曇ったままだった。

 僕は、素早くボディタオルを手に取ると、シャワーで濡らし、ボディソープのノズルをプッシュ。

 

 薄目って、凄いね!

 

 ボディタオルをシャカシャカし、乗せた液体石鹸を泡立たせる。モコモコの泡が完成したところで、僕は、そっと目を閉じた。

 ここからしばらくは、目を閉じていても大丈夫だ。

 腕や足、背中やお腹は難なく洗えたが、やはり、胸やお尻や、その近くは極めて気を使う。

 僕は心を無にして、ボディタオルを各所に滑らせると、再び薄目になり、シャワーで洗い流した。

 ふぅ。なんとか洗い終わった。後は湯船で温まるだけ。

 と、その前に。1つ忘れていたことがあった。

 姉が施した化粧を落とさねば。我ながら、よく思い出せたものだと、自分を褒める。

 えっと、たしかこれだった気がするな。

 薄目を開け、洗顔料のチューブ横に置かれた、それらしきボトルを手に取り、顔に近づけると、そこには、クレンジングオイルの文字。間違いない。これだ。

 メイク落としなんて、はじめてだから、使い方がよくわからないけど、こうでいいのかな?

 僕は、使用方法を読み、クレンジングオイルを左手に乗せると、右手をその上に重ね、両手につけたオイルで洗顔をするようにくるくるした後、シャワーで洗い流した。

 んー。なんかまだ落ちきってない気がするな……あ、そっか。これもするんだっけ?

 僕は、思い出したかのように洗顔料を手に取ると、顔を洗い流した。

 ようやくスッキリとした僕は、薄目を開け、慎重にゆっくり湯船に入ると、肩まで浸かった。

 むっはぁ――。めちゃくちゃ気持ちいい! シャワーの100倍気持ちいい!

 100倍という表現は、少々幼かったかもしれないが、それだけ気持ち良かったと、言いたかったのだ。

 目をつむったまま天井を見上げていると、ポタリと水滴が頬に当たる。


「冷た」


 不意な出来事に、思わず目を開けてしまった僕の目に、ぼんやりとだが、天井の水滴が映った。

 表面張力の限界をむかえた水滴がまた1つ、ポタリ。

 今度は、たまたま当たる寸前で避けることができた。

 ただそれだけのことなのだが、なんだか楽しくなってしまった僕は、それからしばらくの間、落ちてくる水滴を避けるゲームに興じた。

 しかし、これがよくなかった。調子に乗っていた僕は、うっかり上半身が湯船から出てしまっていた事に、気づいていなかったのだ。


「……お、おっきい」


 水滴を追い、落とした視線の先に見えたシルエットに、僕は思わずそう呟いてしまった。

 すぐさま湯船に浸かり直し、目をつむったが、先ほどの光景が目に浮かび、どうにもモヤモヤが止まらない。

 僕は、いけないとわかっていながらも、ゆっくりと上半身をあげていく。

 2つの膨らみが、乳白色のお湯に薄っすらとそのシルエットを浮かべたところで、僕は、体を一気に肩まで沈めた。

 何やってんだ……最低だ。

 僕は、バシャっと顔にお湯をかけると、深いため息をつき、天井を見上げた。


「冷た」


 ポタリ。

 左の目元に落ちた水滴が頬をつたう。

 僕はそれを手で拭うと、もう一度深くため息をついた。


 ――ガタン。


「⁈」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る