第6話

 いくら叫んだところで、心の声というものは、残念ながら相手には聞こえない。

 観念して、目を瞑った僕の手に、温かい感触。

 恐る恐る目を開けると、僕の両手を姉が優しく握っていた。


「大丈夫? 起きられる?」

「? ……はい」


 姉は、ゆっくりと手を引き、僕の体を起こした。

 姉さん、僕のことは散々いじってくるけど、人には優しいんだな。


「えっと、名前、聞いてもいい?」

「お、音谷萌おとやもえです」

「萌ちゃんっていうんだ! 可愛い名前だね。あたしは、あかね。萌ちゃん、よろしくね」

「よ、よろしくお願いします」

「それじゃ、萌ちゃん。こっち来て」


 姉は、僕をドレッサーの前に座らせると、パチリと何かのスイッチを入れた。

 すると、鏡を囲む電球が一斉に点灯し、僕の姿を鮮明に映し出す。

 あ、音谷だ。やっぱり僕は、音谷と入れ替わってるんだな。鏡に映る自分の姿を見ると、今までにない実感が湧いてくる。

 鏡に映る音谷の姿を見つめていると、姉が、僕の鎖骨の辺りに両手を回し、耳元で囁く。


「それじゃ……はじめよっか」


 姉は、僕の背中に上半身を押し当てると、右手をスルリと胸元に向かって落とす。僕は、反射的に体を丸め、両手で胸を隠した。


「は、はじめるって、何をですか?」

「お化粧よ?」


 僕の予想に反して、姉の右手は、音谷の体に触れることなく、ドレッサーに置かれた化粧水のボトルをヒョイっと持ち上げた。


「お、お化粧? なんだぁ、そっちかぁ」

「ん? そっちって?」

「え?」

「え?」

「な、なんでもないです」


 姉は、不思議そうな顔で首を傾げたが、黙り込んだ僕を見て、それ以上は何も聞いてこなかった。


「ではでは。メイク、はじめまーす。あ、その前に、メガネ外してもらってもいい?」

「は、はい」


 外したメガネをドレッサーに置き、視線を鏡へ戻す。

 多少ぼやけてはいるものの、鏡に映る音谷の顔はちゃんと認識できた。


「ちょっとごめんね」

 

 そう言うと姉は、僕の目隠れ前髪に手を滑らせ、クイッと持ち上げると、ヘヤークリップで固定した。


「んふ。ほらね。かわいい」


 しばらくの間、にへら、にへらと鏡越しに、僕の顔を覗き込んでいた姉の表情が変わる。

 

「違ってたらごめんだけど。萌ちゃんってさ、普段あんま、お化粧しないでしょ?」


 言われてみれば、鏡に映る音谷の顔は、たぶんすっぴんだ。音谷の部屋にも、化粧品らしきものは見当たらなかった気がする。実際のところはわからないけど。

 それは、さておき。こうしてまじまじ見みると、姉さんが言ったように、音谷の顔って、整ってるよな。学校でも、前髪上げてたらいいのに。ついでにコンタクトにしてみたら、結構モテるんじゃないか?


「本当はさ、洗顔した後の方がいいんだけど、簡単にだから、ごめんね! 今は省くね」


 姉は、化粧水を染み込ませたコットンで、顔全体を軽く拭き取ると、ファンデーションのパフを当てた。


「んっふふ。萌ちゃん、目鼻立ちがしっかりしてるから、今日は、ナチュラルにいってみようかな……うんうん。思った通り。ファンデだけでもう可愛い。お姉さん、羨ましいぞ!」


 めちゃくちゃ楽しそうにメイクを続ける姉に身を任せていると、マナーモードの携帯電話が、ブルブルと振動し、何かの着信を告げた。

 僕は、姉にバレないようこっそり画面を覗くと、そこには、音谷からのRUINルインが映っていた。


 ――何したらいいか分からないし、やることなかったから、とりあえず宿題やっておいた――


 マジか! 音谷、神!


 ――そっちは何してる? まだ寝てる? 大丈夫?――

 ――姉に化粧されてる――

 ――化粧? どういうこと?――

 ――話しの流れでそうなった――

 ――どういう流れなの? なんであの状況から化粧になるの?――


「それ、アオからだよね?」

「うぇ⁉︎」


 しまった。RUINに気を取られるあまり、姉が僕の携帯電話を覗き込んでいることに、まったく気づかなかった。

 姉は、ニヤニヤしながら言う。


「萌ちゃん。アオとはいつから?」

「い、いつって、私たちは」


 そんな関係じゃないと言おうとした時、ドアが勢いよく開き、音谷が部屋に飛び込んできた。


「そんなんじゃないです!」

「アオ。なんで勝手に入ってきてんのよ。ノックぐらいしなさいよね。それにまた敬語。テンパりすぎでしょ。そんなの私たち、付き合ってますーって言ってるようなもんよ」

「だから、ちが」

「違います! 私たち、そんな関係じゃないです!」


 今度は、僕が音谷の言葉をかき消すように重ねた。


「萌ちゃん……ごめんね。今のは私が悪かったわ。2人は、付き合ってるとかじゃないってことだね……まだ」


 ぺこりと頭を下げた姉が、小声で語尾にと付け加えていたこと、僕は聞き逃してないからな。


「それはそうと、アオ。萌ちゃん見て!」

「も、萌ちゃん⁉︎」

「そんなに驚くことないでしょ。あたしと萌ちゃんは、もう、そういう仲なんだから」


 どういう仲だよ。鏡越しで姉にジト目を向けていると、姉の隣で、顔を赤らめ、口元を両手で隠す音谷の姿が、目に飛び込んできた。

 音谷――! 何を思ったか知らないが、姉の横でその顔はまずいって! 僕の心配をよそに、音谷は禁断の言葉を口にする。


「か、かわいいかも」


 だぁ――! 音谷――! それ、言い訳できないぞ。もう姉が、今後何を言い出すか、分からないからな!


「でしょ! 萌ちゃん、めっちゃ可愛いんだよ! だから言ったでしょ。磨けば光るタイプだって。あたしの目に狂いはなかったわね」


 ドヤ顔で胸を張り、僕の姿をした音谷の背中をバンバンと叩く姉。

 ようやく事態を把握した音谷の顔から、音が聞こえてきそうなほど、わかりやすく血の気が引いていく。

 僕は、深くため息をつくと、苦笑いを浮かべた。


「お友達の具合はどう?」


 開けっぱなしになっていたドアの隙間から、母が顔を覗かせる。


「うん。もう大丈夫だって。だから、ほら」

「あら。かわいい」

「でしょ。萌ちゃん、超可愛いんだよ」


 うふふと何かを含ませた表情で、音谷の顔を見る母。

 こいつも、姉と同じか。


「そうそう。晩ごはんが出来たんだけど、お友達もよかったら、一緒にどう?」

「あ、えっと……」


 夕食の誘いに、いち早く反応したのは、音谷だった。

 お互いまだ、体が入れ替わっていることを、忘れがちなわけで、音谷の反応は相応の速さだと思う。


「アオ。なんで、あんたが迷ってんのよ。萌ちゃんの話しでしょ?」


 姉の反応も正しい。むしろはたからみれば、それが正論だ。


「あ、でもさ、親に連絡してからの方がいいんじゃない? こんな時間だし」


 姉に言われ、時計を見ると、既に20時を過ぎていた。


「えっと、両親は旅行に行ってて……ひっ!」


 鏡越しに、音谷の怒りと呆れが混在した鋭い視線が突き刺さる。

 まずい! 僕は、思わず滑らせた口を慌てて塞いだが、時既に遅し。こんな好機を姉が逃すはずはなく、僕の肩に、姉の両手が乗った。


「んっふふ。萌ちゃん。一緒に食べよ?」


 既に観念した様子の音谷が、小さく頷く。

 それを見た僕も、コクリと頷いた。

 僕と音谷は、うきうきな母と姉に背中を押され、あっという間に、リビングへと連れて行かれた。

 リビングに入ると、そこには、スパイスのいい香りが漂っていた。今日の晩ごはんは、カレーだね。

 僕は、すぐさま母の席に座らせられ、キッチンに呼ばれた音谷は、母のよそったカレーを運びはじめた。

 そこはさすが音谷だ。普段から家でもやっているのだろう。手慣れた様子で、次々とカレー皿をテーブルに並べていく。


「アオ。あんた、今日、やけに手際いいね」


 ニヤリと不適な笑みを浮かべた姉が、母に目配せする。

 2人は、うんうんと頷きあう。それって、何の頷きなの?

 全員が席につくと、母が申し訳なさそうな顔で僕に向かって言う。


「ごめんなさいね。いつものカレーで」


 僕が首を横に振ると、母はにっこりと微笑んだ。


「えっと、萌さん、でしたっけ?」

「そうそう! 音谷萌ちゃん! アオの友達の!」


 なんで、姉さんが、真っ先に紹介するんだよ。あんたの友達じゃないだろ? しかも、情報量少な。


「碧人、優しい子で良かったじゃない」

「うぇ⁉︎ や、優しい? わ、私が?」

「碧人、何言ってるの? 萌さんのことよ。それに私って」

「なんかね、アオのやつ、さっきからこんな感じなの」

「あ、そっか。そうよね。そうなるわよね」


 母は、何かに気づいた様子で、ハッとした顔をしたかと思うと、姉に向かって小さく頷いた。

 姉も、母に同調するように頷く。

 だから、さっきからそれ、何の頷きなの?


「アオが、うちに女の子連れて来るなんて、初めてじゃない? そりゃテンパって当然よね。ごめんね、萌ちゃん。こんな弟で」


 僕が苦笑いを浮かべながら、首を横に振ると、音谷が右手で小さくごめんとジェスチャーを向けてきた。

 そんな僕たちのやり取りを見た母は、ニンマリ笑むと、両手を合わせた。


「それじゃ、冷めないうちに食べましょう。いただきます」

「「いただきます」」

「い、いただきます」


 僕と姉は、母に続き、音谷は一呼吸遅れて手を合わせた。


「お、美味しい!」


 僕は、カレーが大好きだ。だから、普段から家族の誰よりも早く一口目を食べ、おいしい! の一言を発してきた。

 うん。今回も、1番においしいと言ったのは僕だ。姉も母も、なんの違和感もなく聞き流している。

 ただ、その言葉の主は、目の前にいる僕。つまり、音谷だ。

 まさか、音谷に先を越されるとは、完全に予想外だった。僕は、ひとり謎の敗北感にさいなまれ、肩を落とした。


「あら、口に合わなかったかしら?」


 母が、心配そうな顔で僕を見つめる。


「いえ、とてもおいしいです!」

「よかった。カレーって、それぞれのご家庭で味が違うでしょ? だから少し心配だったの。ちょっと碧人、そんなに慌てて食べたら喉に詰まるわよ?」


 見れば、瞳をキラキラと輝かせ、先ほどまでの音谷とは思えない勢いで、カレーを口に運んでいる。


「か、角丸くん。いい食べっぷりね」


 音谷は、僕の言葉で我に返ると、顔を赤らめ、食べる手を止めた。


「……だって、凄く、美味しかったから」

「アオ、あんはあんたほんほほんとハへーふひはほへカレーすきだよね


 姉よ。食いながら喋るな。何言ってるか、全然わからん。


「碧人、おかわりいる?」

「……いる」


 って、音谷、食うんかい! お前、肝がすわってるな。とはいえ、その方が自然でいい。

 音谷は笑顔の母から、おかわりを受け取ると、再び瞳を輝かせ、カレーを頬張る。


「そういえばさ、萌ちゃんの親って旅行中なんでしょ? だったらさ、今日は、うちに泊まってきなよ」


「「ゔぇ?!」」


 僕と音谷は、姉のびっくり発言に驚き、思わず同時にスプーンを落としてしまった。


「凄! 2人、めっちゃシンクロしてんじゃん」

「本当ね」


 僕と音谷を交互に見て笑う姉と母。

 音谷は、ぷるぷると震え、言葉を失っている。

 仕方がない。ここは、音谷である僕が、断るしかないな。そう思い口を開きかけたその時、姉の次の一手が打たれた。


「病み上がりの萌ちゃんをひとり、誰もいない家に帰すの、ちょっと心配なんだよね。お母さんもそう思うでしょ?」

「そうね。だったら、家に泊まってもらった方がいいわね」

「でしょ!」


 しまった、先手を打たれた挙句、母まで味方につけられてしまった。

 姉は、ここぞとばかりに、僕の顔を覗き込むように間を詰めてくる。

 

「そういうことだからさ、萌ちゃん。泊まってくよね? ね?」

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