第5話「角丸家と姉の魔の手」

 夕方の帰宅ラッシュが、ひと段落した電車に揺られ、僕たちは、角丸家に向かっていた。

 僕の家は、音谷の家がある街の隣り。電車で1駅の駅近高層マンションだ。

 と言えば聞こえは良いが、実際は、修繕の嵐に晒されている築25年の老朽化マンション。加えて、ここ数年で、周りに20階を優に超えるタワーマンションが、次々と建ったものだから、デザイン的にも、高さ的にも、他に勝るものは何も無くなってしまった。

 とはいえ、このマンションが存続する限り、駅から徒歩5分が担保されるメリットは、それなりに大きい。

 改札を出た僕たちは、早々にマンションに到着。さっき僕が、口を開けて音谷邸を見上げていたように、今度は、音谷が口を開け、マンションを見上げている。


「ここって、何階まであるの?」

「たしか、15階だったと思う」

「角丸の家は、何階?」

「8階」

「は、8階⁉︎ 私、そんな高いとこ、行ったことない!」


 出入口のドアをくぐり、ロビーからエレベーターへ向かい歩きはじめると、音谷が僕の後に、さながらお化け屋敷を歩くカップルかのごとく、ピッタリと張り付いてくる。

 ひっつくのは譲歩するとして、頼むから、その内股はやめてくれ。

 僕は、心の中でそう呟きながらエレベーター前に到着すると、三角の印が上を向いたボタンを押した。

 7階で止まっていたエレベーターが、どのフロアにも停止することなく降りてくる。


「音谷。僕は、家の前までしか案内出来ないけど……大丈夫?」

「大丈夫じゃない。けど、やるしかないだろ?」


 音谷は、口を尖らせ僕を睨みつけた。

 音谷の言う通りだ。大丈夫なわけない。でも、やるしかない。もちろん僕だって、そんなことはわかっていた。

 だけど、今の僕には、それしか、かける言葉が見つからなかった。

 エレベーターの到着を知らせるランプが点灯し、ドアが開く。

 僕は、ドアの正面を避け、下を向く。

 数秒待ってみたが、エレベーターから人が降りてくる気配はない。


「……よし」


 僕は、アニメで見た特殊部隊のように、エレベーター内を軽く覗き込み、背をかがめると、右手をクイクイっと曲げ言う。


「突入――!」


 僕の合図で、いそいそとエレベーターに乗り込んだ僕たち。

 音谷は、スッと奥の端に立ち、僕は、すかさず8階のボタンを押すと、ドア閉ボタンを連打した。

 幸いエレベーターには、僕ら以外誰も乗ることなく、無事上昇を開始。うちのマンションに限って言えば、昇りのエレベーターに途中の階から乗ってくる住人はまずいない。

 僕は、ひとまず同じマンションの住人とはちあわせになるリスクを回避できたことに、肩を撫で下ろした。


「角丸。お前、何やらせるんだ!」

「そんなこと言って、音谷も結構ノリノリに見えたけど?」

「うぇ⁉︎」


 その反応。どうやら図星だったようだな。

 音谷の、案外ノリがいい一面を垣間見た僕は、ニヤリと笑みを浮かべた。


「な、何だその不気味な笑みは」

「別に……んふふ」

「……それはそうと、お前。いつもあんな風にエレベーター乗ってるのか?」

「いやいや。今日だけだよ」

「ふーん。ならいいけど、あれはやめた方がいいと思うぞ?」


 それ、音谷が言うか? とはいえ、防犯カメラにも映っただろうし、誰かに見られたら、確かにちょっと恥ずかしいし……ここではやめておこう。

 

「はい。以後気をつけます。そうだ、音谷。RUINルインやってる?」

「な、なんだ唐突に⁈ やってる、けど……家族とだけ。それがどうした?」

「僕も同じ。ならRUIN、交換しない? 何かあったらすぐ連絡取り合えるようにさ」

「……角丸が初めてとか、ちょっと、不本意」


 はい! そこ! モジモジしない! それと、言い方! 周りの人に聞かれたら、えらく誤解を生みそうなその表現はやめよ?

 苦笑いを浮かべる僕に、構うことなく音谷は、不服そうな顔で言う。


「そっちのポケットから、私の携帯取って」

「あ、うん。これ?」

 

 僕は、制服のポケットから携帯電話を取り出すと、音谷に手渡した。


「んと、こう、だっけ? えっと……あ、できた。ほら」


 音谷は、不慣れな動作でRUINを操作すると、友達追加のコードを僕に向けてきた。


「あ、これ。僕も同じ機種。だったらさ、この際、ケースも換えない? その方が周りにバレにくいと思うんだけど、どう?」

「……」

「ごめん。それはさすがに、だよね?」

「……いいよ。バレるよりマシ」


 そう言うと、音谷は携帯電話からケースを外し、僕に渡してきた。


「あ、ありがとう。ちょっとごめん。後ろ向いてくれる? ……はい、これ」


 僕は、音谷の背負うリュックから自分の携帯電話を取り出し、友達追加を完了させると、ケースを外し渡した。


「音谷、ほんと無理言ってごめん。でも、ありがとう」

「……うん」


 やっぱりケース交換は、まずかったかな? ひと呼吸遅れた音谷の反応に不安を感じながら、ふと見上げた僕の目に、階層を知らせる数字型のランプが映った。

 4、5、6……一定のリズムで移り変わるランプに呼応するように、心臓の鼓動が高まる。

 これまで、自宅に向かうことなど意識したことなんて無かったのに、さっき学校を出た時や、音谷の家に行った時を遥かに超える緊張感が僕を襲う。


「お、おい。どうした? 角丸。お前、顔色めちゃくちゃ悪くなってるぞ。大丈夫か?」

「なんか、もの凄く緊張してきちゃって。ちょっと……気持ち悪い」

「うぇ⁈ どっちかって言えば、吐きたいのは、私の方なんだけど?」

「ご、ごめん」

「謝らなくていいから。私が、エレベーターを降りたら、角丸はすぐに私の家に帰って休め。こっちは、私が何とかする」


 音谷。お前、かっこいいな。僕なんかより、よっぽど男前だよ。そのセリフ、僕も言ってみたかったな……ウプッ!


「待て待て! こんなところで吐くなよ! 頑張れ! もう少しだ!」


 僕自身の姿で吐くならまだしも、音谷の姿でそんなことするわけにはいかない。頑張れ、僕。


「よし! 着いた! 後は任せろ! きっと乗り越えてみせるから! 角丸はうちでゆっくり休め! また明日、学校で!」


 音谷は、ドアが開くと、ひょいっとエレベーターから飛び降り、右手の親指をビシッと立てた。

 僕は、閉まるドアの隙間から、力無く手を振ると、エレベーターの床にへたり込んだ。


「アオじゃん。おかえり。今日はいつもより遅いね。もしかして、彼女でも出来た?」

「うぇ⁉︎」

「何そんなに驚いてんのよ。いつもの冗談でしょ……って、え? ちょっ! 大丈夫⁈」


 聞き覚えのある声がしたかと思うと、閉まりかけたドアが開き、顔を上げた僕の目に、見覚えのある顔が映った。

 ね、姉さん⁉︎ 何で? 今日はバイトのはずなのに、何でいるの?


「大丈夫⁈ どうしたの? 具合悪いの? アオ、この娘、アオの彼女?」


 僕の姿をした音谷が、全力で首を横に振る。


「違うの? でも、友達でしょ?」


 今度は、こくこくと頷く音谷。

 え? 僕、音谷の友達なの? 友達でいいの? ついさっきまでクラスメートだったことも、名前すら知らないって言ってたのに。友達認定されてるの、ちょっと嬉しいんだけど!

 いや、待て。これは違う。そうじゃない。きっと、この場を乗り切るために、とっさについた優しいウソに違いない!

 ふぅ。危ない、危ない。僕とした事が、そういう事に慣れていないせいで、つい浮かれてしまうところだった。

 それに、僕だって音谷のこと、友達だなんて、まだ認めてない……からな。


「とにかく、うちに運ぶから。アオはそっち支えて」


 僕は、姉と音谷に両腕を担がれ、家へと運び込まれた。


「ただいま!」

「おかえりなさい。あれ? お姉ちゃん? 出かけたんじゃなかったの? ん? その子は?」


 キョトンとした顔で、出迎えたのは、僕の母、陽葵ひまりである。


「アオの友達だって。なんか具合悪いみたいなの」

「あら。それは大変」

「とりあえず、私のベットで休んでもらうね」


 僕は、玄関からそのまま姉の部屋に運ばれ、ベットに寝かされた。


「あたし、ちょっと電話してくるから、ゆっくり休んでて」


 そう言うと、姉は部屋から出ていった。

 それにしても、姉の部屋に入るなんて、何年ぶりだろうか。小さい頃はよくここで遊んだりしたけど、思い返せば、姉が中学生になった頃くらいからは、ほとんど遊んだ記憶がない。

 何気なく眺めた姉の部屋に、あの頃の面影は、ほとんど残っていない。ベッドやカーテンは、いつの間にか新しいものに変わっているし、ぬいぐるみや偉人伝の本が並んでいた学習机も無くなっている。

 代わりに、学習机があった場所には、アイドルの控え室にありそうな、たくさんの丸い電球で縁取られたドレッサーが置かれ、その上には、化粧品がズラリと並んでいる。

 そういえば、姉さんって、いつから化粧してたっけ?

 高校生の頃には既にしていたような気がするけど、もっと前からしてた気もする。

 とはいえ、まじまじと姉の顔など気にしたことなんてないから、実際のところはわからないな。


「お、おい。角丸。大丈夫か?」

「うわ! びっくりした! 音谷、いつの間に⁉︎」

「ずっといただろ。それよりお前、具合まだ悪いのか?」

「え? なんで?」

「なんでって、どこ見てるかわからない遠い目をしてたから、まだ具合悪いのかと」


 あー、なるほどね。僕が姉さんの化粧のことを考えてたせいで、そう見えてたのか。


「大丈夫。もうほとんど気持ち悪くないよ」

「そうか。それなら良かった」

「ごめーん。大丈夫?」


 電話を終えた姉は、部屋に戻ってくるなり、ベッドに駆け寄り、僕の目にかかる長い前髪に手を潜りませた。


「うん。熱はなさそうね」


 続けて、その手をスライドさせ、前髪をスッと上げる。


「ほぉ」


 姉は小さく頷くと、僕たちの顔を交互に見渡し、ニヤリといやらしい笑みを浮かべた。


「姉さ、じゃなかった。お姉さん、バイトは大丈夫なんですか?」

「うん。今電話して友達に代わってもらったから大丈夫。てか、なんで、バイトあんの知ってんの?」

「え⁉︎ あ、あの。角丸くんから聞いてました」

「あーそっか。アオから聞いてたのね……って、あたし、お邪魔じゃん」


 なぜか顔を赤らめ、そそくさと部屋を出ようとする姉の行く手を音谷が塞ぐ。


「お、お姉さん。そんなんじゃないですから!」

「お姉さん? あっははは! 何それ。彼女のマネ? アオ、あんた、さすがにテンパりすぎだって」

「……」

「ちょ、もう。冗談だって。あとは、あたしが見ててあげるから、あんたは、やる事やっちゃいなさい。宿題とかあんでしょ? ほらほら」

「うぇ? ああ……はい」


 姉は、音谷の背中を押しながら、二人で部屋を出て行ってしまった。

 音谷のやつ、大丈夫かな?

 いきなり姉と二人きりになってしまった音谷が心配になった僕は、ドアを静かに開け、隙間から二人の様子を伺う。


「アオ。あんた、意外とやるねぇ」

「うぇ?」

「あの娘、髪あげたらめっちゃ可愛かったよ。あれは磨けば光るタイプね。そうだ! いい事思いついた。あの娘が元気になったら……んふふ」

「……」


 音谷は、姉にジト目を向けた。


「何よ、その目は。別にとって食おうってわけじゃないし。悪いようにはしないわよ。はい! そういうことだから、さっさと部屋行く! やる事やる!」


 姉は、そう言って音谷の背中を叩き、音谷を僕の部屋へ押し込むと、まっすぐに自分の部屋へと戻ってきた。

 まずい! 僕は、慌ててベッドに潜り込もうとしたが、間に合わうはずもなく。

 しかし、姉がドアを開ける寸前、かろうじてベッドの端に座ることができた。


「あれ? 起きてて大丈夫なの?」

「は、はい。大丈夫です」

「なら、良いんだけど。無理しないでね」


 そう言うと姉は、ドレッサーに置かれた化粧品を何やら楽しそうに、いじりはじめた。

 鼻歌交じりで、選んだ化粧品を並べていく光景は、見るからに、自分の化粧をする雰囲気ではない。

 姉のその姿に、一抹の不安を覚えたのは、気のせいだろうか?


「体調、どう?」

「あ、はい。もう大丈夫です」


 僕の返答に、姉が一瞬ニヤリと笑みを浮かべたことを、僕は見逃さなかった。


「なら……してみない?」

「え? するってなにを⁈ ちょ! あ! ま、まって」


 迫る姉に思わずたじろぎ、ベッドに倒れ込んでしまった僕に、姉の両手が伸びる。

 するって、そういうこと⁈ ダ、ダメだって。僕ら姉弟だよ⁈ って、今は、音谷なんだけど。それでもダメ、ダメだってばー‼︎

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