第24話 名付けの秘密
3日目の朝。
不動たちとのあれこれが終わり、準備をしてダンジョンに行こうとすると、不動たちが訪れた。
おっと、お母さんも一緒だ。
「息子と娘が世話になった上、連日大層なものをいただきまして、本当に何とお礼を言っていいか……」
少しかすれた声でそう言ったのは、儚げな、どこか世界の不幸を一身に背負ったかのように薄幸な美女だった。まだ年頃は40前だろうに、10歳ぐらいは老けて見える。
俺には想像もできないような苦労をしているんだろうな。
そのように苦労を偲ばせた。
だが、何よりもその前に第一印象が最悪だった。
貧乏神のような顔をしている。
一目見てそう思ってしまったのだ。
何だろう、貧乏が体に染みついてしまっているような、そんな空気を感じるのだ。
これは、イけないな。
俺は早速対策を講じることにした。対策を実行したのだ。
「お母さん。私は、あなたのことを七福神の弁財天だと思った。だから、これからはあなたのことを弁天と呼ぶことを許してほしい」
お母さんは驚いて目を白黒とさせた。どうやら、予想もしなかったことを言われたらしい。
○
ここで、俺のあだ名をつけるルールについて説明したい。
今更こんなことを言うのは、とても卑怯でずるいことだと思う。怒らせてしまうことになるかもしれない、苛立たせてしまうことになるかもしれないが、どうか聞いてほしい。
俺の名付けには一つのルールがある。
それは、どうしようもない事実にばかり気を取られて、夢も希望も見ようとしない者に、光を与えるような名前をつけることだ。
例えば、不動にしても弥勒にしても孔雀にしても、彼らが貧乏なのは単なる事実だ。そして、事実はしっかりと把握しておかなければならないが、事実を生きる目標にする必要は全くないのである。
事実とは立場だ。地面のようなものだ。
そこにしっかりと立脚する必要がある。だが、足元の立場、足元にある地面を見たまま人生という道を歩くことなど、どうだろうか。
そんな、うつむいて足元ばかりを見ている、下ばっかりを向いている人に前を向かせるような、そんな名前をつけてあげる。それが俺のあだ名をつけるルールだ。
「こっちが前だ。前を向いて歩くんだ」
俺の名付けとは、こういうものである。
『自分は貧乏だ』
という自分に対する重苦しいイメージを、
『自分は不動明王だ、弥勒菩薩だ、難陀竜王だ 、弁財天だ、孔雀明王だ』
そういう良質のイメージに変えてやる。
脳科学的に言うと、脳は自分がイメージする通りになっていこう、イメージの通りに成長していこうとするどうしようもない習性がある。
だから、自分の自分に対して持っているイメージを、暗くて重いイメージから明るくて軽いイメージに変えてやる。それが俺の名付けのポイントだ。
中学2年生の頃は「闇ってかっこいい。光よりも闇の方が好き」という俺だったが、年を取ってくるとどうも闇は重たくて背負いきれない。光ぐらい軽くないと生きていけなくなっちまった。俺も年を取ったもんだ。
なお、ここでいう闇とは、痛み(心身両方の)恐怖や不安や心配や気がかりや怒りや憎しみ恨みなどのことだ。これらは自分の内側で重荷や毒となり、生命活動を阻害する。年を取ると、これらに耐えられなくなるのだ。それらを背負うだけの気力と体力が加齢によって衰えるのだろうな。
脳科学では、痛み・恐怖・不安・心配・気がかりなどのネガティブな思考は、脳の働きの70%以上を占有するというデータがある。ネガティブになる時、人は脳の能力をわずか30%しか使えなくなるのである。そんな状態で、困難な状況に対処しなくてはならなくなるのだ。ネガティブな思考という闇が、どれほど脳の負担になるかが分かっただろうか。闇は、非常に重い荷物である。
○
なお、蛇足かもしれないが、俺の息子のあだ名は千手観音である。 もちろん俺の名付けだ。本名は、もうちょっと普通の名前なんだがな。まるで世界樹のような壮大な名前をつけてやったが字面は普通の名前だ。ちなみに2人目のあだ名は天使だ。あんな美しい子は天使でしかありえない。
ミミが普通のあだ名なのは、ミミが自分自身に重苦しいイメージを持っていなかったからだ。
えっ? 『パリンと音を立てて割れるバリアの碧』? あれは重苦しいイメージではなく、おもろいイメージだ。何の問題もない。
○ ここからは哲学です。作者の趣味である。
ところで、
君は、人間とは何かという疑問を持ったことはないだろうか。俺にはある。
俺は、その疑問に対して1つの答えを出した。
人間とは存在である。
この答えに対して「人間は存在ではない」と言い張れる者はいないだろう。だが、逆にそのような大きなくくりで言われても困るという人もいるのではないだろうか。人間について、もっと詳しく説明してくれと。
ぶっちゃけて言ってしまえば、人間とは人間なのである。それ以上でもそれ以下でもない。だが、そのような言い方をしてみれば、人間という言葉の中に含まれる意味や理由がさっぱりわからない、内容がまったくわからない。
ゆえに、人間とは人間であるという言い方を避けて、人間とは存在であるという言い方にすり替えたのだがどうだろうか。
人間という言葉に、存在という意味が含まれることになったわけだ。これで人間という言葉に一つの意味を持たせることができた。
この手法を公園で例えてみよう。公園に遊びに来た子供は公園ではないが、公園を構成する大切なひとつの要素である。
物事の成り立ちというものは、色々な要因が複雑に絡まり合って出来上がっているのであって、たった一つの意味や要素をそれの全てであると決めつけることはできないが、1つの見方を提案することはできたのではないだろうか。公園に遊びに来た子供が、公園の全てではないように。
つまり私は、人間とは存在であるという一つの見方、視点を提供することができたわけだ。ではここで、存在とは何だろう。
再びぶっちゃけて言ってしまえば、存在とは存在である。それ以上でもそれ以下でもない。存在とはただ意味も理由もなく、ただその場にあるだけだ。とまぁぶっちゃけて言ってしまえば 科学的根拠は全く否定されてしまう。これでは今の時代には合わないだろう。
ここで、存在とは何だろうという疑問を提示するのではなく、存在はどのようなやり方で存在しているのだろうと、問いかけ方を変えてみるのはどうだろう。
答えが得られないならば、問いを変えればいい。
存在が存在するためにやっているやり方とは、無ではないである。存在とは、ないではない。
では、無とはなにか。
三度ぶっちゃけて言ってしまえば、無とは無である。
無は無。
これを言い直してみよう、無は無い。
無はない。
ないという物事がないとは、物事が存在しているということ。
無は無すら無しにしてしまう。つまり、無はない。だって無は無だから。だから存在が存在できる。無は無だから、無すら無にしてしまう。そして、存在が存在する。無は、自滅性を持っている。
無とは存在しないのである。
でも、無という考えは存在する。
つまり、無とは、人間の考えの中にしか存在しないのである。
では、人間の考えの外側にある無とはなにか。
当然であるが、無はない。
無とは無である。存在しない。
では、こう考えることができないか。
ないという物事はない。ゆえに、全てが
つまり、存在とは、ないという物事はないというやり方、『無はない』という方法で存在している。存在は無ではないのだから。
無は無であるゆえに、『ない』という無自身すら無くしてしまう。『ない』がないとは、端的に『在る』と言っている。
無が無のままでいられるのは、あの世だけである。
この世では、無は存在へと引っくり返って生きている。
無こそが、存在が存在できる原理である。無しの語源は成しなのだ。
存在の存在する原理はない。つまり、存在にはもともと意味も理由もないのである。
これを、先ほどの人間とは存在であるという公式に当てはめてみよう。つまり、人間には意味も理由もないのである。
全くもって、残酷な答えにたどり着いてしまったが、では、なければどうするのだろう。
始まりの人間はこう言ったことだろう。「ないなら作っちゃえ」と。なんにもなしってことは、なんでもありってことだろうと。
人間は、人間が誕生してから長い歴史の中で一体何をやってきたかと言うと、その答えはここにある。人間は無意味な人間という存在の中に、意味と理由を詰め込んできたのである
真っ白な心を持った赤ちゃんが生きていく人生という道を歩いていく上で、自分の中に様々な記憶を得ていったように。人格が経験によって形成されていったように。人間は、無意味な人間という空っぽの存在に、意味と理由という心を込めている。
人間とは、心という水を汲み取るコップである。
生まれたばかりの人間というのは、中身の入っていないコップのようなものだ。
それが長い年月の経験で、水を入れていく。
水にはいろんな水がある。身を切るような冷たい水も、汚泥のように濁った水も、輝く宝石のように美しい水も、春の木漏れ日のように暖かい水もある。
人間というコップの中には、このように色んな水が入っている。
その水の内容は、その人間の生きてきた経験に由来する。
俺は、相手の、人間というコップの中身を覗き込んで、命に悪い毒になるような濁った冷たい水を見ると、暖かくて綺麗な、生きる活力になるような水を注ぎ込んでやりたくなる。
この水の名前を、俺は個人的な主観で『愛』と呼ぶ。
なぜ、愛が俺の個人的な主観なのか。それは、愛がコロコロと、常にその姿を変えるからだ。
あなたがあなたの心から愛するように、俺は俺のやり方で愛する。自分以外の誰かのやり方では、俺の心を込めることが出来なかったんだ。
○
どうか心を込めて生きてほしい。心を込めることで存在して欲しい。
結局、人間って、生物である以前に存在なんだよね。生きるも死ぬも、存在の形容が変化したに過ぎない。ちなみに、生きるとは喜びであり、死ぬとは悲しみである。死ぬと悲しい。死は、非なる心。つまり、死ぬとは心ではないのだ。えっ? 生きることが喜びでないって? それはな、生きることが当たり前になってしまったからさ。(生きる=当たり前)。死ぬ気で生きてみな。生きることが当たり前じゃなくなって、奇跡だと思えるようになるぞ。(生きる=奇跡・ありがたい)。明日、死ぬつもりで生きろ、永遠に生きるつもりで夢を描け。大丈夫。お前は、死んでも存在する。生きることがどんなに辛く苦しくとも、お前は懲りもせず、あの世からこの世に、自分から望んで、戻ってくることだろう。激辛料理に泣いても、もう二度とゴハンを食べないなんて、ありえないだろう? 魂は無しになった途端に成す。あの世に行っちゃったら、この世の話なんて、ただの笑い話になっちゃうもんなあ。この世の当事者にとっては悲劇でしかないけどね。生きる苦しみも悲しみも、悲劇なのは生きてる間だけ。生きる前に、存在について話しておきたいよね。生きる以前の問題なんだから。あるもないも、生きる死ぬよりも強烈な動詞なんだから。心ってね、中身があるってことだよ。ただ存在するだけなら、中身は空っぽなんだ。生きるは命、存在するは魂。そして心は、魂と命の中身。
どうか、心を込めて欲しい。
心だけが、人間を作るのだから。
これが、俺の名付けの根底だ。
この考えは、人生を創造的に生きることに寄与すると考える。
この考えは、提案であり命令ではない。俺は、倫理を逸脱したくない。自分に命令する者は、最後は必ず自分自身であれ。
存在は生きる以前の土台だ。存在に心を込めれば、すなわち、生きている。命がある。そして存在は魂だ。
○
とまあ、これが俺の個人的な哲学だ。
でも、哲学ってなんだろう?
哲学とは、『答えから離れる方法』である。
それがどういうことか説明すれば、哲学は答えが分かりきっている。
例えば、『人間とは何か』という哲学をしたとする。その答えは、最初からわかりきっている。人間とは人間なのである。それ以上でもそれ以下でもない。
だがここで、人間とは人間であるとは何を言ったことになるのか。
それは、「人間という言葉には内容がない」と言ったことになるのである。
それは、哲学にとって死ぬことに等しい。
例えば、君は誰かから「人生の答えとは死ぬことだよ」と言われたらどういう気持ちになるだろうか。
それと同じことが、この答えには起こるのだ。
『人間とは人間である』その、反論の余地のない、哲学にとって最も正しい答えは、それすなわち哲学にとって死ぬということである。
だから哲学は、生きるために、人間とは人間であるという正解から全力で離れようとする。これが、哲学における活動の真実だ。
哲学とは、死にたくない。つまり、生きるということだ。人生の代名詞だ。
ただ生きるだけではない、強く生きる。それが哲学なのである。
ただ、1つ言っておこう。ただ単に生きるだけならば、哲学はまったく必要ない。
だって、人間は人間であり、分かりきったことについて考える必要などないのだから。ただ、芯の通ってない生き方だと思うがな。思想に中身がない。
強く生きたいと思う人は、哲学を求めれば良い。ただまあ、個人の自由だ。好きにしろ。
とまぁ難しく言ったけど、あえて俺の言葉で簡単に言わせてもらえるならば、哲学とは、『言葉に自分の心を込める』
なお、哲学を学ぶということと、哲学をするということは、まったく違うので注意すること。
『言葉に心を込める』ということと、『言葉に自分の心を込める』ということは、まったく違うのだ。あなたは、世界にひとりしか居ないのだから。人間には、言葉に誰かの心を込めようとする悪癖がある。もっとも、言葉の内容の70%は、みんなの心だがな。自分の心はわずか30%だ。人間はその心でさえ、ひとりでは存在できないのである。
哲学って、勉強じゃなくて、運動なんだよね。確かに知識なんだけど、止まっていない。動いている。『人間とは人間である』という思想は、完全に停止してしまっているのだから。哲学者は、学者ではない。アスリートだ。
最後に、残酷だけど本当のことを言うよ。
哲学は正解ではない。
つまり、間違っている。
それはなぜか。
それは、この宇宙には、間違いが間違いなく存在しているからだ。
だから、真実という位相で話す時、間違いがないということが間違いになってしまう。
これは、俺たちが、宇宙で生きる限り逃れることの出来ない仕組みだ。宇宙には宇宙しか存在しない。
これこそが、アイロニーと言えるだろうな。
人間が生きる時に肌に触れるのは、真実ではなく現実なのだ。そして現実とは、精神の現象である。真実が運動した結果だ。
運動する。つまり生きるとは、間違いという宇宙のバグなのだ。正解はいつも、死んでいる。真は死に通じている。
ああ、それからな、人生の答えが死であっても、なんの問題もない。
なぜならば、人生の答えが人生ではないからだ。
同じように、哲学の正解は哲学ではない。
○
閑話休題
○
「私のような貧乏人に弁天と、そんな大層なお名前を……」
戸惑いを隠せない声でお母さんが言う。いや、もうお母さんではない。彼女は、弁天だ。
「あなたは、七福神の弁財天だ。少なくとも俺はそう思ってるよ、弁天」
そう言って、にっこりと笑顔を向ける。
弁天は呆れたような面食らったような顔をして、俺の顔を見ていた。そしてやがて、
くすっ
っと、小さく笑った。
弁天が笑った。その笑顔は、何だろう、とても若々しく見えた。
彼女はクスクスと笑って、いたずらっぽい子供のような目で俺を見て言った。
「じゃあ私は、あなた様のことを『ルンルンさん』とお呼びしてよろしいですか?」
ルンルンさん?
そう言った途端、彼女はたまらず吹き出した。そしてコロコロと鈴が転がるような、心地好い上品な笑い声をあげる。
「あー、 あれを聞いていましたか」
俺は気持ち恥ずかしくて頭を掻いた。
「反則ですよ、ルンルンだなんて笑わないわけがないじゃないですか。ひどいですよ。私、笑いを堪えるのに必死だったんですから。すごく腹筋が鍛えられました」
笑顔で楽しげな会話が続くが、俺は内心とても驚いていた。驚愕と言っていいかもしれない。
その理由は、彼女が笑うたびに若返っていくように見えるからだ。
もちろん物理的に若がっているわけではない。その何と言うか、雰囲気とか空気とかそういうものだ。何か、命の輝きが全くその輝度を違っているような、そんな感じがするのだ。
また印象も、貧乏神という第一印象は完全に払拭され、黄金色に輝くオーラをまとった幸福の女神のような、そんなイメージに変わった。
老けて見えていた見た目はその記憶を裏切り、まるで30代前後•••••••いや、20代前半のような 若々しい気配すら感じるようになっていた。
おいおい、変わりすぎだろう。
俺は、冷や汗をかいた。
まるで、魔法や神の奇跡を見ているようだった。
『いいか、ヒロ。女を知りたかったら、瞬きしちゃいけないぞ。女は瞬きしてる間にガラリと変わってしまうからな。瞬きもせずにじっと見つめておく。それが女を見極めるコツだ』
俺は、いつもお世話になっているヒイ先輩の言葉を思い出していた。
ヒイ先輩の言う通りだ……。
俺は、長年不思議に思っていた謎が解けたような気がして、納得にうんうんと何度も頷いたのだった。
○
ひとしきり笑って、涙の滲んだ目の端を拭っている弁天が俺に聞いてきた。
「何か私にお返しできることはありませんか?」
お返し? ゆで卵とか晩御飯とか朝ごはんとか、あの辺りのことかな? 気にしなくていいのに。でも、これはチャンスだな。
「ちょうど良かった。実は、女性である弁天に頼みたいことがあるんだ」
「女性であるとは?」
「ああ、俺、実はネットのグルメサイトにレビューを寄稿しててな。そのレビューに女性の意見を反映させたいと常々思ってたんだ」
これは本当。
「ああ、なるほど」
「早速今夜あたり、居酒屋で夕食など一緒にどうだ? 代金は全部俺が持つよ。もちろん、弥勒や不動も一緒に来てくれよ。俺の魔の手からお母さんを守ってやってくれ」
俺の本当の目的は、困窮して食事にも苦労する隣の母子家庭に、ご飯をたらふく食べてもらうことだからな。主に、俺の精神安定のために。
「ヒロ様は、お母様を手篭めになさるおつもりなのですか!?」
「こんなおばさんを可愛がってくださるのですか!? ……ルンルンさんなら、わたくし……」
弁天が、小声でなにかモゴモゴ言ってる。
不動は無言だったが、ギロッと俺を睨んでいる 。しょうがないだろ、俺は変態なんだよ。
「俺は、ドスケベの変態なんだ。弁天のような気品あふれる極上の美女と仲良ししたくてしょうがないんだ。申し訳ないが、自衛してくれ」
それはそうと、弁天は何嬉しそうな顔をしているんだ? 目を輝かせるな、目を。
そんな母親を見た弥勒が目をつり上げた。
「お母様。ちょっと女同士の大切なお話がございます。こちらにいらしてください」
「え? 何? ちょっと。目が怖いんだけど鈴音」
そう言って、弥勒は弁天を無理やりどこかへ引きずって行った。
およ?
俺は、あることに気がついた。
弁天も虹色のリボンを着けているのか。母娘でお揃いにしたのかな?
遠ざかる2人の背中に、俺は声を投げた。
「話が終わったら帰ってこいよ。みんなで一緒に朝ごはんを食べよう」
大勢で食べる飯はうまいからな。これも隣に住んだ者同士の縁だ。
ご縁は大切にしないとな。
しばらくして帰ってきた弥勒と弁天は、何か硬い絆で結ばれた戦友のような顔をしていた 。2人に何があったんだろう。俺には全くわからなかった。
──────────
【あとがき】
読んで頂けて嬉しいです。感謝しています。
★と♡を頂けると、励みになります。
どうか、少しでも、面白かったとか、続きが気になると思われたら、★と♡にチェックを入れて頂けると、嬉しいです。
哲学者は、口に咥えた斧を振り回して、常識を切り刻む。
だが、ここで、常識を頼みに生きている人間の方が圧倒的に多いのです。
常識を打ち破り、新しい世界の景色を見ることを「面白い」と感じる人間。
この小説は、そのような極少数の人間を対象に書かれています。
ゆえに、この小説は読者を選びます。
紹介文で書きました注意書きは、ここに通じます。
どうか、「自分には合わない」と感じられた方は、どうか小説を閉じてくださいますよう、ここで改めて、伏してお願い申し上げます。
私は、「常識を打ち破れ」などと、無責任なことを言いたくないのです。
常識に頼らず生きていくなど、疲れることを無理強いできないのですから。
右は右でいいのです。「右とはなにか」などと、いちいち考えて生きていくことなど出来ないのですから。
常識とは、社会が形成した一種の合意であり、その枠組みを越えることは、多くの人々にとって不快や不安を伴う行為です。
人々がどれだけ常識に助けられ、そして守られているか。想像にかたくない。
それでもなお、常識を打ち破ることに価値を見出だすのは、自分が所属する社会の外に出てしまえば、途端に常識が自分や他人を攻撃し始めるからだ。
この世に社会は無数に存在する。そのひとつの社会でだけしか通用しない常識に縋ることは、この多様性の時代にそぐわない。そう考えると、老婆心から、「常識より、哲学をしてみないか?」などと、つい説教してしまう。老人である私の悪癖だ。どうか許して欲しい。
本当に、老人の説教というものは度しがたい。ハンバーガーを食べに行って、正露丸を食べさせられるようなものだ。
○
話を聞いてもらえる条件というものがあって、それは『なにを言ったか』ではなく、『誰が言ったか』なんです。
誰だって、どこの誰だか分からない人の話など、話半分も聞かない。大切な話だと思えないのですよね。だから、耳を傾けない。言葉が伝えることの出来る情報量はわずか7%であると言われている。言葉に加味される『誰が言ったか』という背景の方が、圧倒的に情報量が多いのです。
ブッダは王族だったし、一休はやんごとない血筋の人だった。だから、人々は話を聞いた。
かえって私は誰だろう?
どこにでもいる普通の人なのである。
話を聞いてもらえる訳がない。
どれだけいいことを言っても、「お前何様だよ?」となってしまう。いいことを言うほど、聞く人の気に障るという事態になってしまう。
それを超えて、耳を傾けてくださる人というのは、本当に希少だと思います。
最後まで私の話を聞いてくださった方に、最大の敬意と感謝を捧げます。
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