訪客
「この前、若い男の人が訪ねてきたのよ。お父さんが出たんだけどね。近くで工事するからって言うんだけど、どうも様子がおかしかったって。何か探ってるんじゃないのかしら」
先日実家に帰ったとき、母は眉をひそめてそんなことを話した。
私は相づちを打ちながら、最近娘の同級生の家に不審な訪問者があったらしいと妻から聞いたことを思い出した。目に見えない悪の種があちこちでばらまかれているのだろうか。私は、にわかに不安になったものだった。
そんな話を聞いたからだろう。インターホンが鳴ったとき、私はぎくりとした。
しかしそっとモニターを覗いてみると、そこには見知った顔の老夫婦が立っていた。私の警戒はするすると解けていった。
急ぎ足で玄関の戸を開けると、分厚い上着に身を包んだ老夫婦が会釈した。
私もそれに応じて、
「こんにちは。どうかなされたんですか」
「引っ越しをすることになりましたので、ご挨拶に参りました」
奥さんがそう言うのに「それはご丁寧に」と返しながら、こうして目を見て話すのはほとんど初めてだな、と自分を恥ずかしく思った。
結婚を機に祖父母が住んでいた家に根を下ろした私は、越してきた際に挨拶回りを済ませたきり、ご近所と付き合いらしい付き合いをしてこなかった。早朝のゴミ出しなどですれ違えば、軽く挨拶を交わす程度だった。
「古い家は取り壊すことにしまして。しばらくご迷惑をおかけしますけれど」
奥さんはそう続けた。
老夫婦は斜め向かいに住んでいた。この頃、家の前にたびたび粗大ゴミが出されているのを見かけて不思議に思っていたが、これで合点がいった。
奥さんが話し終えると、今度はご主人が言った。
「若い時分は、旦那様や奥様にも随分気にかけていただきました。大変お世話になりました」
ご主人が言うのは、祖父母のことだろう。私はそのような付き合いがあったことを全く知らなかった。
「今は、その……お二人は……」
ご主人は口ごもった。
「祖父は十年ほど前に他界しました。祖母は私の両親と暮らして、先日九十六になりました」
「そうでしたか……。それでは奥様に宜しくお伝えください」
「祖母は……」
私の頭には、祖母がひっかいて傷だらけになった父の両腕が浮かんでいた。
ご主人は続く言葉を待つように、こちらを見上げた。
私は笑って答えた。
「──はい。伝えておきます」
老夫婦はまた頭を下げ、斜め向かいの家に帰っていった。
私は玄関の戸を開けたまま突っ立って、夫婦の家を眺めた。長年、雨にさらされたからだろう。外壁を覆うトタン板は、塗装が剥がれ落ちた箇所が錆びついて、枯葉がこびりついているかのようだった。祖父母と交流があったということは、築五十年を超えているのかもしれない。
私は若かりし頃の夫婦と祖父母がお互いの家を行き来する様子を想像しようとした。
しかし浮かんできたのは、子どもの頃の自分だった。せっかちだった祖父が前を歩き、祖母が幼い私の手をやさしく引いていた。
私は老夫婦から預かった気持ちを祖母に伝えてみようと思った。
戸を閉めたとき、落ち葉がからからと木枯らしに舞ったようだった。
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