1999年 4月 ①
「あーちゃん、また大きくなったんじゃない?」
新年度、とうとう高学年に進級したあづみは2週間ぶりに制服に袖を通した。リビングにおりていくと母親が呆れたような、でも嬉しさを隠しきれていない口調で言う。あづみの頭に手を載せ、「あー、また伸びたね」と笑った。
あづみの小学校の制服はグレーのブレザーだ。お下がりを2年着たので、もう袖のところが摩擦でてかてかになっている。左胸に校章のエンブレムが刺繍されていて、あづみはそのみっちりかたまっている刺繍糸をこっそり指でひっぱり抜くのが好きだった。
大学の入学式を終えたちぐさは家にいて、シラバスという分厚い本を片手に授業の組み合わせを考えている。
あづみからしてみれば、きらいな算数と理科をさくさく消去していけそうな作業は魅力的だった。しかしとうのちぐさはといえば、優柔不断なところがあるせいかなんだかこまっているようだ。ときおり「あづみー、この講義とこっちの講義、どっちがいいと思う?」と小学校5年生の弟に意見を求めては、母親に「ちーちゃん、そんなこと聞かれてもあーちゃんは困るだけでしょ」と頭を小突かれている。
玄関で運動靴を履くあづみを、ちぐさが見送りに出た。
「6年生にはなれないんだなぁー」
あづみがぼやくと、ちぐさはふしぎそうに言う。
「おまえ、6年生になりたいのか?」
「だってさぁ」とあづみは口を尖らせた。
「6年って、いばるじゃん。一個しかちがわないのに。僕がいばれるようになるまえに世界は水没」
「でも、6年生の算数のむずかしさはえげつないぞ」
「……で、中学生になると『数学』になるんだよね」
「そうそう、数学なんてやめとけよ」
「そうする」
僕は、数学を勉強しなくていいんだ。するにしても、ちぐさが舟のうえで教えてくれるのだ。すこし笑った。
どれだけ大きくなっても、舟のうえではなにも変わらない。なにも変えずになにも壊さずに、ちいさな永遠のなかで生きていく。
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