1998年 10月 ②

 あかるい表情を浮かべたちぐさとテーブルのあいだにもぐりこむ。机の上にある参考書に手を伸ばした。ぱらぱらとページを繰り、書いてある図やグラフを眺める。

「……ちぐさ、これわかって解いてるの?」

「うい。わからんと解けんだろ」

 言葉を失ったあづみの背にちぐさの笑いが響いた。

「おまえは、こどもでいろよ。いつの間にかおとなになってもな」

「うん。うー……ん?」

「この先になにがあって、なにが起きるのかわくわくしていれば、おとなになんてならないんだ」

 あづみは四則演算をするように会話を反芻すると心のなかで首を傾げた。

 ちぐさはもう、この先を見ていたいとは思わないのだろうか。わくわくしないのだろうか。なにを見ても聞いても、しなしなの葉っぱを見るような気持ちでいるのだろうか。

「大学、受かるといいねえ」

 うすら寂しくなったので、話題を変えたくなって兄に笑いかけた。

「おーう、まかせとけ」というちぐさの合格祝いのために、あづみは月々のお小遣いから200円ずつを貯めている。

「合格したいから、そこどいてくれ」

 兄の膝からおりたあづみは、まえまえから気になっていたことを聞いてみた。

「ねぇちぐさー」

 しゃらしゃらとせわしなくシャープペンシルを走らせている横顔が「今度はなんだよ」と言う。

「ちぐさには将来の夢って、ある?」

 あづみが問うと、歌うように心地よい筆記用具の音がやんだ。

「おまえの筏を作ることだな」

 そのとき、ちぐさが泣いている気がしたのはなぜだろう。わからないけれど、実際にあづみが見たものは自分にむけられた穏やかな笑みだった。

「……将来、近いよ」

「だってだな、そのあと世界は水没するんだろ。俺、美術関係で研究者か学芸員になりたかったんだけどさ、おまえの論だとどうも無理っぽいからなー。それに、数学と物理がいちばんしっくりくる科目だしさ」


 そっかあ、と頷いたあづみはほっとしていた。だれもあづみから離れていかない。完璧な調和を保って閉ざされた世界が約束されたような気がして。


 あづみは、最近、担任の野辺先生が連発するようになった「君たちの未来」とか「大切な将来の夢」などと言ったことばがやんわりと苦しい。

 ノストラダムスが終わられてくれなければ、絶対にやってくるもの。「未来」と「将来」。やってきませんように、とあづみは祈る。だってそこでは、いまきれいに完結しているあづみの世界がすっかり姿を変えてしまうだろうから。

 あづみがほしいのは、大切な人たちが何一つ変わらずそこにいてくれる世界。たとえ水びたしでも、どんなに狭いと笑われても、きっとあづみはそこでを愛せる。

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