1998年 7月 ②

 風呂の支度をしていると、母と兄の声が脱衣所のむこうから流れてくる。

「ちーちゃん、あんた勉強しなさいよー!夏休み明けに泣きつかれてもお母さん知らないからね」

「勉強ねぇ……たったいま、あづみにも言われたしやるべきだな」

「あらまあ、あーちゃんのいうことなら聞くのね」

 あづみは着替えのTシャツに口をうずめて笑った。足音がのしのしと階段を登っていく。


 風呂場で髪を洗いながら、あづみは思う。

 大丈夫。おそろしい予言どおりにすべてが水に沈んでも、きっとちっとも怖くない。みんな一緒なら。笑って暮らすのだ。水の上のちいさな世界で。両親、ちぐさ、それからなんども一緒に遊んでくれたちぐさの恋人のまどかちゃん、自分。その5人がいれば充分だ。ちぐさがつくってくれるという終末の筏の上で、みんなで楽しく生きていこう。


「あづみの行水」と母親に揶揄される湯船のなかで、ぬるい湯に手のひらをすべらせてみた。夕方の、わずかにだいだい色を帯びた光が浴室に射し込んでいる。あづみが行ったり来たり、手を動かすと水しぶきがきらきらと煌めく。ちぐさはこんなふうに光るボートをつくってくれるだろうか。


 てきとうに髪と身体の水分を拭くと、脱衣所を出た。帰ってきていた父親が居間の座卓でゆるく背を曲げ、パソコンのメールを確認している。加科家では唯一、父親がラップトップを使いこなす。ちぐさは機械との相性が悪いようで最低限ふれる程度、母は「いつか必ず爆発させそう」と言って操作を覚えようともしない。

「お父さん」

 そばに寄るとわしゃわしゃ頭を撫でられた。

「ただいま、坊主。きょうも元気に遊んだか?」

 うなずくと、「よし」と手が離れる。宿題は自由研究を含めて毎年、両親がなんだかんだと最終的に手伝ってくれる。あづみは申し訳程度にぱらぱらめくるだけで、あとは友人らと表をかけまわる日々だ。おかげで、順調に日焼けしている。


 夕食を囲んで、歯を磨くと、あづみはなかば船をこぎつつ両親に就寝まえの挨拶をする。

「あーちゃん、ちゃんとお部屋の窓をあけて寝るのよ」

 母親にもういちどおやすみを言って、あづみは自室のタオルケットにもぐりこむ。

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