母になれない夜
みな
母になれない夜
振り返れば、あの瞬間から私は「壊れ始めて」いたのだと思う。
いや、正確には、壊れていくことに気づかないふりをしていただけだった。
第一子を出産した日、私はベッドの上で娘を初めて抱き上げた。赤ちゃん特有の柔らかい体温と甘い匂いが、鼻をくすぐる。新しい命を手の中に感じながらも、その感触はどこか「自分のもの」ではない気がした。病院の白い壁が妙に遠くに感じられ、娘の泣き声は妙に耳に響いた。
「これが私の子ども? 本当に?」
その疑念が恐ろしくて、私はすぐに目を閉じた。看護師に「よく頑張りましたね」と声をかけられ、愛想笑いを浮かべながら、「おかしいのはきっとホルモンのせいだ」と自分に言い聞かせた。
退院してからの生活は、私の想像をはるかに超えていた。娘は昼夜問わず泣き続け、私は一睡もできない日々が続いた。深夜の2時、3時、5時──泣き声が止むことはない。私は娘を抱き上げて歩き回り、授乳し、オムツを替え、また泣かれた。
「母親なら誰でもできること」
周囲はそう言う。だから私は必死だった。けれど、泣き止まない娘の小さな顔を見つめるたび、ふいに「可愛い」と思えない自分が浮き彫りになる。
「うるさい!!」
娘が泣いていると、アパートの隣の部屋から怒鳴り声が聞こえた。その直後、壁をドンドンと叩く音が響く。私の身体は反射的に硬直し、娘を抱える腕が震えた。泣き止まない娘の泣き声と、隣の怒声の間に挟まれ、私はどうすることもできずにただ立ち尽くしていた。
「すみません……すみません……」
声には出せず、心の中で何度も隣人に謝った。けれど、それがどこにも届かないことは分かっている。娘の泣き声はますます激しくなり、耳の奥で響いている。頭痛がひどくなり、こめかみを押さえたくなる衝動を必死でこらえる。
「お願いだから……お願いだから、泣き止んで……」
その言葉が喉まで上がるが、実際に口に出すことはできなかった。娘に聞こえてしまったらいけない──そう思う一方で、自分がどうにかなってしまいそうな気がした。
隣人の怒りは、それだけでは終わらなかった。壁越しに聞こえるテレビの音が急に大きくなり、何かを蹴るような鈍い音まで混じる。その一つ一つが私の神経を逆撫でするようで、心臓がどんどん速く脈打つのがわかる。
娘を抱えたまま、私は部屋の中央に座り込んだ。壁からできるだけ遠く離れた場所を選ぶ。それでも、娘の泣き声は止まらない。口を開け、顔を真っ赤にして泣き続ける姿を見ていると、体中の力が抜けていく。
「どうして、泣き止んでくれないの……」
声が震えていた。娘を抱く腕に力を込めるが、その力が次第に重荷のように感じられる。隣人の怒りに怯え、娘の泣き声に追い詰められる。逃げ場がどこにもない。
隣の叩く音が一度止むと、部屋に静寂が戻った。とはいえ、私の耳にはまだ隣人の怒声と壁を叩く音が残響のようにこびりついている。それと同時に、娘の泣き声もまた耳の奥にこびりついて離れない。まるで私自身が「泣き声」と一体化したかのような感覚に陥った。
「私が悪いんだ……」
自己嫌悪が波のように押し寄せる。娘を泣き止ませられない私は、母親として失格なのだ。隣人を怒らせるのも、娘を苦しませるのも、全部私のせい。そう思うと、涙がこぼれた。
娘の顔を覗き込む。彼女はまだ泣き続けている。泣き止ませたい──それは心から思っている。だけどその方法が分からない。「あやす」ってどうすればいいの? 「抱っこしてあげる」って、何をすればいいの?
他の母親たちが普通にやっていることが、私にはなぜこんなにも難しいのだろう。隣人が壁を叩く音以上に、娘の泣き声が私を追い詰めていく。
気づけば、私の手は小刻みに震えていた。娘を落とさないようにするのが精一杯だった。全身から力が抜けていき、何かが壊れそうな予感がした。
「もう……無理……」
ぽつりと呟いたその瞬間、私は娘を抱えたまま立ち上がった。気づけば、足は再びベランダへと向かっていた。冷たい夜風が顔に当たる。街灯の光が揺れる。
隣の部屋からはもう音はしない。それがかえって不気味だった。私がこのまま何かしてしまっても、誰も気づかないのではないか──そんな考えが一瞬頭をよぎる。
娘はまだ泣いている。私はその顔をじっと見つめた。
「どうして……」
問いかけても答えは返ってこない。娘は赤ん坊なのだから当然だ。それでも、私はその沈黙に絶望する。
そのままどれくらいの時間が過ぎたのだろう。足元が寒さでじんじんと痛む。娘の泣き声は少しずつ弱くなっていった。疲れたのだろう。それを感じ取ったとき、私はほんの少しだけホッとした。けれど、それが同時に罪悪感を生んだ。
泣き疲れて眠りにつく娘を見下ろしながら、私はぼんやりとした意識の中で考えた。「いつまでこれが続くのだろう」。明日も、明後日も、きっと私はこの部屋の中で泣き声に追い詰められ、隣人の怒声に怯え続けるのだろう。
どこにも救いはない。誰も助けてくれない。いや、私が助けを求められないのだ。
娘をベッドに寝かせた後、私は再び浴室に向かった。鏡を覗く。そこに映るのは、憔悴しきった顔の女だった。目の下には黒いクマが広がり、肌は青白く、生気が感じられない。これが「母親」なのか。これが「子どもを守る存在」の顔なのか。
「もう、戻れない……」
そう呟いたとき、ふいにまた隣の部屋から物音がした。ドン、と何かを叩く音。心臓が跳ねる。隣人はまだ私を怒っているのだろうか。娘の泣き声が止んでも、私がそこにいるだけで、彼らの平穏を乱しているのだろうか。
孤独がさらに深まる。誰かに話したい。でも話せない。話してはいけない。
夫は仕事が忙しく、家にいる時間は少ない。疲れた顔で帰宅し、「お疲れ」と一言つぶやくと、すぐに寝室へ向かう。彼の背中を見送りながら、「私も疲れている」と言いたいのに、その言葉を飲み込んでしまう。
「母親は私なんだから、私が頑張らなきゃ」
そう自分に言い聞かせて、娘をあやす夜が続いた。
☆
周囲の友人たちは、明るい声で「赤ちゃんって本当に可愛いよね」と笑う。そのたびに私はぎこちなく笑い返す。「うん、可愛いよ」と。
けれど、心の中ではずっと「本当に?」と問い続けていた。娘が泣き続ける声が、耳の奥で鈍い痛みを引き起こす。赤ん坊が泣くのは当たり前。そうわかっていても、その声が私を少しずつ追い詰めていくのを止められなかった。
ある日、友人とSNSでやり取りをしていたときのことだ。彼女が「母親になれて本当に幸せ」と書いた言葉が、私の胸を鋭く刺した。
「どうして私は幸せを感じられないのだろう?」
育児書には、「母親の愛情は自然に湧いてくるものだ」と書かれている。ならば、私には母性が欠如しているのだろうか。私は母親として失格なのだろうか。
その夜、娘が泣き続ける中、私は無意識にベランダへと向かっていた。冷たい風が頬を撫で、耳元で娘の泣き声が途切れない。
「ここから落とせば静かになるのに」
その考えが頭をよぎった瞬間、私は全身に震えが走った。娘を抱える腕に力を込めて、自分の足を後ろへ引いた。泣き叫ぶ娘を抱えながら、私はただ立ち尽くしていた。
「どうしてこんなことを考えたの?」
その問いが頭から離れず、私は浴室に逃げ込んだ。
翌朝、夫に「疲れているみたい」と伝えた。けれど彼の返答は、「みんなそうだよ」の一言だった。
「そうだよね、私だけが大変なわけじゃないよね」
そう言って笑ったが、心の中では絶望が広がった。「みんなそうだ」と言われれば言われるほど、「私が甘えているだけなのだ」と思わざるを得なかった。
「母親なのに、こんなことで泣き言を言うなんて恥ずかしい」
「誰だって頑張っているのに、私だけができないなんて情けない」
そんな思考が頭を巡り、結局誰にも頼ることができなかった。
☆
娘が泣き止まない。
どれだけ抱っこしても、あやしても、泣き声は私を追い詰めるように響き続ける。頭の奥がガンガン痛む。耳鳴りがするような気さえして、目の前の景色がぐらついた。
「もっと頑張らなきゃ……」
喉の奥から絞り出すように呟いたその言葉は、いつの間にか私の体を縛りつける呪文になっていた。娘が泣くのは、私が母親として至らないからだ。泣き止ませる方法が分からないのも、私が努力を怠っているからだ。もっと、もっと頑張らなきゃいけないのに。こんな自分じゃダメだ。
赤ちゃんを育てる母親たちはみんな普通にやっている。それなのに、どうして私はできないんだろう。
娘を抱えたまま、私はふらふらと台所へ向かった。ミルクを作ろうとして、手が震える。粉ミルクを計るスプーンが上手くすくえない。こぼれる粉を見つめていると、涙が溢れてきた。
「なんで、こんな簡単なことすらできないの……」
ミルクを哺乳瓶に移しながら、心の中で自分を責め続ける。目に見えるものすべてが私を否定している気がする。娘の泣き声がまた強くなる。私は慌てて哺乳瓶を持って娘のもとへ戻った。
「ほら、ミルクだよ。ねえ、飲んで……お願いだから飲んで……」
泣き続ける娘の口元に哺乳瓶を近づける。けれど、娘は顔をそむけ、さらに声を大きくして泣いた。私の体から力が抜けていく。膝がガクンと床に落ちた。
「ごめんね、ごめんね……」
膝をつき、床に崩れ落ちながら、私は娘に謝り続けた。でも、その言葉すら届かない。ただ泣き声だけが部屋中に響き渡る。
心の中で、また言葉が浮かぶ。
「もっと頑張らなきゃ……もっともっと……」
時計を見ると、もう夜中の2時を過ぎていた。いつからこうしているのかも分からない。娘を抱いて揺すり続ける腕は重く、肩が痛い。目の奥がズキズキと痛む。
私は何度も深呼吸をしてみる。落ち着こう、落ち着こうと自分に言い聞かせる。けれど、それも数秒しか持たない。
「私はどうして、こんなにダメなんだろう……」
育児書を開いた。そこには「赤ちゃんの泣き方を観察しましょう」と書かれている。観察? 一体どうすればいい? 私には泣き声なんて全部同じに聞こえる。意味なんて分からない。娘の泣き声が何を訴えているのかなんて分かるわけがない。私は、母親失格なのだ。
「きっと、他の人だったら上手くやれるんだろうな……」
ぼんやりとそう考える。娘には、もっとちゃんとした母親が必要なのかもしれない。こんな私では、娘の幸せを守れない。むしろ、不幸にしてしまうんじゃないか。
ベッドに娘を寝かせると、私はその隣に座り込んだ。部屋の中は暗く、静寂が広がる。けれど、心の中は静かではなかった。「もっと頑張らなきゃ」という声が何度も何度もこだまする。
「頑張れないなら、もう終わりにしたい……」
そんな思いが頭をよぎった瞬間、私は顔を両手で覆った。怖い。こんなことを考える自分が怖い。でも、それ以上に苦しい。娘の泣き声がない静寂の中にいるのに、私は安らぐことができない。
翌朝、夫が仕事に行くために家を出ていった後、私はまた娘と二人きりになった。娘は目を覚まし、小さな声で泣き始める。その声がまた私の心にズシンと響いた。
「頑張らなきゃ……もっと、もっと……」
頭の中で繰り返される声に、体が反応しない。足が動かない。娘を抱き上げる気力が湧いてこない。泣き声を聞きながら、私はぼんやりと天井を見上げていた。
どうすればいいのか分からない。どうしていいのか分からない。
娘が泣き止んだ時、私はぼんやりとした意識の中で時計を見た。10時を過ぎていた。どれくらいの時間が経ったのかも分からない。冷たい床に座ったまま、ぼんやりと天井を見つめていると、また頭の中で「もっと頑張らなきゃ」という声がこだました。
このままでは壊れてしまう──そう分かっていても、その壊れた先がどんな世界なのか、それすらももうどうでもよくなっていた。
「もっと頑張らなきゃ……もっと、もっと……」
呪いのように繰り返される言葉に、私は完全に飲み込まれていた。
☆
娘が泣いていても、私は抱き上げる気力を失いつつあった。布団に横たわりながら、ただ彼女の泣き声を聞き続ける日もあった。
「また泣いてる」
そう思うだけで、涙がこぼれる。何度も「育児書に答えがあるかもしれない」と手に取るが、そこに書かれている理想の母親像にますます追い詰められるだけだった。
一方で、夫との距離はどんどん広がった。育児の苦しさを彼に伝えることもできない私は、彼の前では笑顔を作り、「大丈夫」と言い続けた。家の中にいるのに、まるで独りぼっちだった。
ある日、娘が初めて「ママ」と口にした。小さな手で私の頬に触れ、笑顔を向けてくれた。それはきっと、母親なら誰もが感動する瞬間だったのだろう。けれど、私の中には何の感情も湧かなかった。
「ごめんね」
心の中でそう呟きながら、私は彼女の手をそっと避けた。「私じゃなくてもいい」と思い続ける毎日。娘の成長が嬉しいと思えず、ただ「母親らしく」振る舞うことで日々をやり過ごしていた。
☆
産後うつ。それは誰にでも起こり得るものだと、どこかで読んだことがある。けれど、私は誰にも助けを求めることができなかった。「母親失格」という呪いのような言葉が、私を縛りつけ続けたからだ。
もし、あの時誰かに声を上げていれば。もし、自分を責めることをやめていれば。けれど、その「もし」を考えることすら、今の私にはもう意味がない。
今でも私は、壊れた心のままで娘と向き合っている。私の中に愛情がないわけではない。ただ、その愛情をどう伝えればいいのかがわからないのだ。
この暗闇が終わる日は、果たして来るのだろうか。それとも私は、このまま壊れた母親として生き続けるのだろうか──。
母になれない夜 みな @minachancute
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます